Dミュでアプリ版への未練が昇華された

Dミュめちゃくちゃ良かったですね……。
究極それで終わってしまうが、書きたいことがあるので感想を書く。
今回が初2.5で舞台にも明るくなく、用語などは分からないため悪しからず。

アプリ版DREAM!ingへの後悔

まず初めに、タイトルの意味。
noteの最初のブログでも書いた通り、アプリが更新終了して展開方法が変わったことに対しては前向きな気持ちでいようと思っている。
それでも、アプリ版更新中から「この先こういう展開が見たいな」と思っていたことや、アプリ版更新終了後に「こういうのが見たかった……」と苦しい思いをしたことは山ほどある。
ただそれを今言ったところでどうしようもない、と諦めていたものが、Dミュを観て6割ぐらいは昇華された気がする。
きっとそれは舞台製作陣が原作のアプリをしっかり読み込んで作ってくれた結果だと思う。
私は原作アプリとDミュははっきりと別の作品になっていると思うが、美しくアプリの補完をしてくれたことは間違いがない。
もう本当に演者の皆さんや、脚本の広瀬さん、そして演出の國重さんには感謝の思いしか湧いてこない。

以下、ようやく本筋に入り、「ここが良かった!」「この演出すごい……」と思ったポイントを羅列していく。

柳の「リリー」呼び

まずDミュが始まって、開始3秒で私は泣き始めたわけだが……。
都会の喧騒が聞こえた瞬間、色鮮やかに第一部の冒頭が頭によみがえり、その時点で限界だった。

そこから悠馬の電話、柳の電話がクロスして物語が始まり、冒頭で柳が電話に向かって「リリー」と呼びかけた時点で「あ、最高のミュージカルだ」という確信があった。

柳が百合のことを「リリー」と呼ぶのは、イベント「スイートトリックトラップ」で登場する。
「スウィーティー」などなど、柳から女性への呼称は数多く登場しているが、その中に「リリー」を混ぜ、メインストーリーを読んだ人にしか百合の存在を悟らせないという手法は、初めて読んだときには感動した。
それをミュージカルの中に取り入れたというのは、第一部の展開だけでなくイベントの内容も踏まえて作られているということがこの時点で分かる。

紫音と藤次のユニゾン失敗

Dミュではシナリオの圧縮のため、ユニゾンの失敗と二人のライブ(アプリでのSecret Scarlet)は合体している。
だがそのおかげで紫音の「悪夢的な美しさ」が強調されている。
紫音は「総理大臣の完璧な息子」を惑わせるという役割を持っている人物であるが、その側面がDミュでは協調されていると感じた。

キャラスト、第二部以降の要素

真也と時雨、湊と幽の追加会話シーンに、いちいちキャラクターストーリーや第二部、第三部につながるセリフを入れてくるのは卑怯すぎる。
本当にやめて、やめ、もうだめ…………。

ビアンキ兄弟のデュエット

もうこの曲を聴いた瞬間、「今死んでもいい」と思うほど感激したシーン。
アプリ版では、展開が続いていけばいつかペアを超えた組み合わせの楽曲も聞けるのではないかと思っていた。
三年生3人が歌う曲(ライブ鑑賞には報同守を入れてほしい)とか、一年生全員でワイワイ歌っている曲も聞きたいとか。
もちろんその中には、ビアンキファミリーで荘厳な曲を歌ってほしいという願いも含まれていた。
今回、Dミュで二人のファミリーに関する曲が聞けたので涙腺が爆発した。
しかも私が愛する「ボスの息子としてのビアンキ由仁」の側面がバリバリに出た曲。感謝しかない。

(番外編)日替わりのアドリブシーン

一年生たちの仲の良さが垣間見えて大好きな部分。
演者さん方について明るくないので、「ここもすごく好き」以外に言えることはないのだが、全員ちゃんと役柄としてアドリブで動けているのがプロだな(当たり前)と舌を巻いた。
私が観劇した会で一番感動したのは、獅子丸がアドリブの中で「クソザコナメクジ」という発言をしたことである。
Dミュでは伊野尾が役柄として削られているわけだが、獅子丸にとっては超重要な役回りであり、「クソザコナメクジ」は超超重要なセリフだ。
それがアドリブとしてとっさに出てくることに、演者の長江さんへの感動が増した。

悠馬の母親の事故シーン

東京人推しとして、東京人の追加楽曲についてはすべて語りたいぐらいだ。
まず、悠馬の過去回想が楽曲化されているわけだが、家で妹をあやしながら母の帰りを待つ悠馬や、岬から落ちた母親を探す人々が映像として可視化されたことが素晴らししぎる。
冒頭から何度か、アンサンブルキャストが「過去の悠馬」を演じていて、このシーンでも同様なわけだが、そしてこれが後々”効いて”くるわけだが……。
Dミュは原作からのセリフの取捨選択が本当に良いと思っているが、その中でも「母さんを苦しませてきた父さんの息子としての償い」が曲に組み込まれていることが最高だった。これが悠馬の人物像を語るうえで超重要なセリフだと思うので。
さらに母親が最後に残した言葉が、きちんとにじんだ文字として可視化されているのも本当に……本当に……無理です……。

柳と百合の花、重なる過去と今

柳に百合の花を持たせたのが天才的演出だというのは、Dミュを観た全員の総意だと思う。
最初に百合の花が登場して以降、百合の花を持ったアンサンブルキャストが「過去の柳」として表現されている。
散らされた百合の花束をかき集める柳が、本当に、痛々しくて、美しくて……。

そしてそのあとの東京人のセリフに特待生の歌曲が重なる楽曲。
”百合”を助けたい柳は、何度も何度も誰かに助けを求める。だが、そのたびに百合は捨てられ、邪見にされ、見て見ぬふりをされる。差し伸べかけられた手は、別のだれかに振り払われる。
このような演出によって、「優しくなる前に、たくさん傷つけられた柳」が表現されている。
だが、最後にようやく共に百合の花を手に取ってくれる人物が現れる。ぶつかり合い、傷つけあった先に、その人物と共に百合の花を掲げることができた。

「過去の悠馬」は序盤から何度も登場してくるが、「過去の柳」が登場するのは柳の本心が見えた後半になってからだ。
過去の二人を演じるとともに、二人の本心を演じているのでは、と考えている。

Dミュは過去回想の描き方が美しかったと思っているが、特にきれいだと思ったのは、「悠馬が柳の真実を知り、過去の柳の発言を思い出すシーン」と「柳が悠馬に向けた自分の発言を思い出すシーン」だ。
前者では、悠馬が三回柳の発言を思い返す。一度目、二度目はアンサンブルキャスト演じる「過去の悠馬」が柳の発言を聞いているが、三度目だけは今の悠馬が柳の発言を聞く。
過去回想が今に重なり、今の悠馬の思いを揺さぶる美しいシーンだ。
後者では、悠馬へ向けた言葉を、今の柳が再び繰り返して発言する。
「そんなおじいちゃんになってまで、悠馬は僕と友達でいてくれるんだ」というセリフは、実際は感情を抑えた声色で語られているが、後の回想の中では涙交じりに、感情を溢れさせながら語られている。
これは、「今」の柳が思い返しているからと取れるが、私には、本当はあの時から、柳はうれしくて、苦しくて、心の中ではこうやって語っていたのではないか、と思ってしまった。

あとこの曲、「母さんと違って俺は空っぽだから」を藤次が、「本当の僕はね」を紫音が、「優しくて悪い人」を時雨が、「決めつけられた運命が変わるのを」を幽が歌うなど、微妙に特待生にかぶるパートを歌っているような気がする。どうだろうか。

フォロワーに魅せるための「心腹の友」楽曲

まず大前提として、私は「涙雨」も「Amnesia」も大好きな楽曲だ。
しかしあれらはあくまで「第二部の真也と時雨」「第二部の一生と巳影」の楽曲であると思っており、ゆめライブで歌って観客に見せる曲ではないと思っている。二人だけの間にとどめておかねばならない感情が歌われすぎているからだ。
だから私は、アプリ版でいつか、二人が観客に聞かせるための楽曲も聞きたいと思っていた。
Dミュの期末ライブで真也と時雨、湊、幽の四人で歌った曲は、おそらく「HAPPY ENTERTAINER」を元にした曲であるが、私が聞きたいと思っていた「観客に魅せるためのゆめライブの曲」だった。
真也と時雨のゆめライブは、絶対明るくて楽しいだろうと思っていたので、その夢がDミュで叶ってしまって。

湊と幽に関しても、「SEESAW FRIENDS」も第三部前の幽は絶対にゆめライブで「友達」の歌を歌ったりしないな……と思っていたので、Dミュ曲の塩梅が最高だった。
観客に魅せるための曲が歌われたことで、Dミュでは会場との一体感が増していたように思う。

「混ぜるな危険」「よく踊るオモチャ」ゆめライブ曲のDミュ解釈

「混ぜるな危険」の期末ゆめライブは、悠馬と藤次のやり取りと共に歌われている。
このためか、Dミュの千里と孝臣は「家族」よりも「友」としての側面が濃く描かれていたように感じる。
「Magic Rhythm Party Floor」は千里の曲であるが、千里の本心を暴いた曲というよりも千里の表側、千里が見せたい自分を歌った曲だと思っている。ここに、最後に本心をありありと歌った悠馬、藤次との違いがある。
だがこれは偽りの千里の歌ではなく、あくまでこちら側も本当の千里であり、「嘘も真実もない」。
一方で、Dミュの千里の曲は、思い切り自分の胸元をさらけ出して歌っているような感覚がした。原作アプリのどこか刹那主義も香る華やかさではなく、孝臣と肩を並べる覚悟の曲であり、背中合わせになる演出も素晴らしかった。

そして藤次と紫音の曲。アプリでの「freedom」は第一部のエンディングを兼ねている楽曲だったが、Dミュでは順番が組み替えられている。
そのため、エンディングとしての風合いよりも、針宮藤次のカラーがより濃く出されている。針宮藤次のカラーというよりも、紫音への恋心と言ったほうがいいかもしれない。
虚飾が剥がれても自由に踊りたいという藤次の思いを「ガラスの靴が砕けたシンデレラ」で表すのが、最高に針宮藤次なんだよなあ……。
きちんと第三部前の、第一部の「よく踊るオモチャ」ペアの楽曲になっていることに、アプリへの解像度の高さを感じる。

星を追うアプリの東京人、花が咲くDミュの東京人

ゆめライブの東京人の曲が良すぎるんだよ……。
「僕等の六等星」とDミュの二人の楽曲の最も大きな違いはモチーフの違いだと思っている。
アプリではそのまま六等星、星がモチーフのなっているが、Dミュでは「花」がモチーフになった曲であった。
これはそのまま、第一部東京人の表現の仕方の違いになって表れていると思う。

アプリの第一部では、「遠くに浮かんでいた星を眺めて諦めていた二人が、それを追うために再び走り出す」楽曲で、ストーリーが閉じている。
一方、Dミュでは「空っぽだと思っていた二人の胸の中、夢の中に花が咲く」楽曲が歌われている。
このミュアンスの違い……伝わってほしい。
Dミュでは、入学式の桜から、ラストの二人の楽曲まで、花というモチーフでつなぎ通され、冒頭に戻ってくる構図になっているため、「スタートライン」という印象が強まっていると思う。
つまり、絶対、絶対、絶対、絶対、続きをやってほしい……。

花房柳

私は花房柳という男が大好きだ。
Dミュ版花房柳という”人物”を見せられ、より深く好きになるとは思っていなかった。
アプリの第一部後では、柳にはまだ憂いが残っているのだが、Dミュではその影を見せないところも良い。物語をきれいに閉じるためであると思うが、そのさわやかさがまた美しいのだ。

Dミュの柳はアプリに比べて感情を大きく爆発させて見えるが、それが本当に良い。ただ感情を表に出しているだけではなく、脚本家や演出家さんがしっかり柳の人物像を理解し、演者の山田さんが柳という男に深く理解を示してくれたからこそそう演じられたのだろう。
Dミュの柳は、最後に本当に楽しそうに悠馬とともに歌を歌う。これはアプリ版では決して見られなかった光景であり、ミュージカルだから見られた姿だ。
最後の楽曲を観て、アプリ版への未練が消え去ったのだった。

Dミュ本当にありがとう

正直言って私は解釈モンスターだ。Dミュを観に行く前日にはなんかこんなことをつぶやいていた。

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結果、今机には悠馬と柳、由仁のアクリルスタンドが並んでいるわけですが……。

一応書いておくが、Dミュでアプリへの未練が昇華されたとはいえ、作品としては別物として見ている。
あくまでDミュスタッフが解釈し、ミュージカル再構成したものとして最高の出来栄えだと思っており、それはそれ、これはこれだ。

ドリーミングという作品は、製作陣に心から愛されていると思っている。
それがまさか、ミュージカルにまで適用されるとは思ってもみなかった。
このチームで絶対にメインストーリーの続きを作って欲しいと思っているし、何ならイベストだってやってほしい。
Dミュ、本当にありがとう!!!!!

(いつも以上に勢いの書き散らしのため、後ほど修正や追加を加えるかも)

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