アルムの風に包まれて―TV界を変えた『アルプスの少女ハイジ』

※同人誌『Vanda』10号(1993年6月発行)に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 『アルプスの少女ハイジ』がTVに登場したのは、昭和49年(1974年)。既に20年も昔のことだ。しかし、その映像は今なお新鮮に、私たちの心に訴えかけてくる力を持っている。
 『ハイジ』が登場したのは、高度経済成長にかげりが見え始め、自然破壊が社会問題化し始めた、そんな頃だった。人々は今の社会に疑問を持ち始め、本当に人間らしい暮らしとは何かを模索し始めていた。
 そんな時代を背景に、美しい自然と豊かな人物の描写によって、本当の人間の幸せとは何かを静かに語りかけてくる『ハイジ』は、人々に圧倒的な好評をもって受け入れられていった。
 それはまた、それまで『太陽の王子 ホルスの大冒険』『(旧)ルパン三世』『パンダコパンダ』といった、早過ぎた傑作を送り出し続けていた、高畑勲をはじめとするメインスタッフが、初めて、時代を掴んだ瞬間でもあった。
 『ハイジ』を、とりわけ初期の、ハイジとアルムおんじの山の生活を描いた部分を見るたびに、実際にアルムの山にいるような清々しい気分に包まれる。
 それは、『ハイジ』の世界が、原作に書かれた山小屋の間取りや家具調度の一つ一つまで綿密に考証し、実際に目に見えるものとして再現してみせる綴密な設定と、そしてそれらを生き生きと使いこなして、山の牧場や、おじいさんの山小屋での暮らしを本当のことであるかのように描き出してみせる演出力によって作り出され、あたかも現実のものであるかのように感じられるからだ。
 そして、雄大なアルプスの自然と、そこで営まれるハイジとおじいさんの日々の暮らしが、実にきめ細やかに、共感と愛情をもって描写されているからだ。
 『ハイジ』で描写された世界は、かくあってほしい世界として、そこでの暮らしは、かくありたい暮らし、真に人間らしい生活として丸ごと肯定されているのだ。
 そうして描き出された世界を、私たちは、共感と憧れをもって見つめることが出来る。
 『ハイジ』の、自然に抱かれた暮らしは、ブラウン管のこちら側にいる、人工物に囲まれた私たちの今の暮らしを批判するのではなく、むしろ私たちを『ハイジ』の世界に丸ごと包んでくれ、暖かく癒してくれる力を持っている。『ハイジ』の山の暮らしを見ているうちに、心が少しずつ開かれて、おおらかに和んでゆき、ひとに優しい気持ちになれるのを感じることが出来る。
 このような力を持った『ハイジ』は、どのようにして作られ、またスタッフは『ハイジ』の中に何を描こうとしたのだろうか。
 『ハイジ』は、それを作るためにズイヨー映像(当時)に集まった高畑勲・宮崎駿・小田部羊一の三氏が、当時追及していた、日常生活の描写と、その中に潜む魅力を理想化して取り出すというテーマの、TVという新たな舞台での展開であった。と同時に、期せずして、TVアニメを変革してゆく第一歩でもあった。映画ならいざ知らず、毎週放送のTVシリーズで、事件とその解決を描くのではなく、主人公の日常を描き続けるなど、当時の常識では考えられないことだった。
 しかも、一年間の長丁場を、作画監督も美術も演出も、毎回同じスタッフが担当して、高度な質を維持し続けることが出来得るとは信じ難いことだったのだ。
 しかし、高畑を中心とするスタッフたちは、その信じ難いことに挑み、そして成功させた。
 高畑演出の高度で緻密な要求と、原画・美術陣の間をつないだのは、宮崎駿のレイアウトだった。一人の人間が全てのカットのレイアウトを担当する、今では当たり前のこととして定着したこのシステムを初めて採ったのもこの『ハイジ』だった。
 さらに、1話につき300以上のカットの全キャラクターを統一する作画監督、最終的にキャラや動きの質を統一する動画チェックの作業量はもの凄いものがあったろう。
 しかし彼らは、作品の質を維持するためのこの作業をやり抜いた。
 それを支えたのは殆どが30代(当時)という若さと、何より、良い作品を作って、それが世間に受け入れられている(視聴率的にも)という、誇りと自負のゆえだろう。
 高畑勲らが成そうとしたこと、成したことは、シリーズのごく初期に、既にその大半を表現している。
 とりわけ、放映開始以前、スケジュールにまだ余裕があった頃に、小田部・宮崎両氏も原画に参加した、第1、2話の質の高さは見事だ。
 第1話の『アルムの山へ』。そのタイトルが示す通り、ハイジがデーテおばさんに連れられてアルムの山小屋を目指す道行きを描いただけの、その間、馬車の荷台に乗せてもらい、町の人々に出会い、ヤギ飼いの少年ペーターと仲良しになる。たったこれだけの内容を30分に展開し、しかも決して視聴者を飽きさせず引き込んでゆく、演出の手際の鮮やかさ、そして斬新さ。高畑さんの意図した通り、主人公に密着し、その行動を克明に追いかけることで、視聴者をそこに立ち会わせるという狙いは、見事に成功している。しかも背景の何という美しさ。アルムの澄んだ空気さえ実感できるようだ。
 第2話の『おじいさんの山小屋』では、ハイジとアルムおんじの生活がたっぷりと描かれる。干し草のベッド作り、チーズとヤギのミルクの食事、椅子作り。ハイジの元気さ、利発さ、いかにも5才の子供らしい、動作の端々の愛らしさ。
 そしてその食事!薪の火にあぶられて、とろりと黄金色にとろけるチーズ。木の食器に注がれる新鮮なヤギのミルク。アニメならではの生き生きとした魅力をもって描き出される素敵な食事は、見る者に自分もあんな風にしてみたいと思わせずにはおかない。
 先のベッド作りの、二人でブワッとシーツを広げた拍子に、空気をはらんだシーツでハイジが宙に浮かんでしまうシーンも合わせ、まさに日常の中にこそ宝がひそんでいるのだ。
 第2話では、こうした素敵なシーンを通して、自分たちはこういうことをやりたいのだというスタッフ達の意欲が表明されている。
 そしてその夜、干し草のベッドで眠りについたハイジの見る夢。モノクロで、歪んで描かれた都会の生活から、ドアを開けて光と色彩あふれるアルムの山へ駆け出してゆくハイジ。これが本当の人間の暮らしなのだ、というスタッフの主張がまぶしいほどに伝わって来る。
 『ハイジ』の場合、原作がしっかりと構築されているので、大筋を変える必要はない。むしろ積極的に原作の流れに添い、一年かけてのゆっくりとした展開にすることで、『ハイジ』は、山の一日や、チーズ作りなどのエピソードをきめ細かく描くことが可能になった。細かい描写を積み重ね、登場人物の心情を大事に、心の動きに添って描き出すことが出来た。
 やがて『ハイジ』は、フランクフルトのゼーゼマン家を舞台に新展開を迎える。
 健康で解放的なアルムの山の生活に比べ、フランクフルトの、閉鎖的で抑圧的な都会の生活。初めての朝を迎えたハイジは「まるで穴の中みたい」と表現した。
 この、フランクフルトでのハイジを見るのは、実はつらい。余りにもよく出来ていて、ハイジの心情が手に取るように伝わって来るために、とても見ていられないのだ。
 衛星放送で『ハイジ』を再放送してほしいと思いながら(民放だとカットのおそれがあるので)、フランクフルトのハイジを見続ける勇気は、やっぱり私にはない。おばあさまの「魔法の部屋」で、あの、山のヤギ飼いの絵を前に立ちつくすハイジの姿など、思い出すだけでも胸がつぶれそうだ。
 ただ、ここで言っておきたいのは、ロッテンマイヤーさんが、決して冷たくて意地悪な、単なるいじめ役には描かれていなかったということ。ロッテンマイヤーさんは彼女なりに、クララのことをとても大切に思っている、ということがよく伝わって来るのだ。 そして、彼女のオーバーアクションは、穴蔵のようなスタジオで作業するアニメーター達(私も動画で参加していた)の良い気晴らしになっていた。私たちはみんなロッテンマイヤーさんが好きだった。最終回の、またアルムヘ行っていいのと尋ねるクララに、無言でうなずくロッテンマイヤーさんは、とても素敵だった。アルムの自然に解放されたのは、クララだけではなかったのだ。
 アルムを思う余り、病気になるハイジ。そして再び舞台はアルムへと戻る。
 ハイジを追ってアルムを訪れたクララは、この美しい自然の中を、自分の力で立って、歩きたいと心から願うようになる。ハイジがフランクフルトで心の病にかかったように、クララの足も、都会の生活に抑圧された心の底にその原因があるのだ。
 その心を解放してくれる豊かな自然、助け励ましてくれる友、信じて任せ、暖かく見守る大人。クララは遂に自分の足で立てるようになる。
 これはしかし、クララ一人のことではない。自分が心からそうなりたいと願い、そのために努力したなら、クララが、立てなかった足で歩くことさえ出来たように、私たち人間には誰にでも可能性があるのだ。
 そして、ここで特筆すべきは、クララの車椅子のことだ。原作ではペーターが焼もちから壊してしまう車椅子を、ここでは、クララが一度は手離したものの、立つことへの怖れから再び頼ろうとして、誤って自分で壊してしまう、という風に変更している。車椅子を壊したのは、クララの心の弱さなのだ。
 この、人の心の弱さを認めた上での、なお変わらぬ人間への信頼こそ、『ハイジ』後半を貫く強い力だ。
 真に人間として生きるに価する世界の創造、そこでの人間の営みを肯定し、暖かく見つめる目、そして人間の可能性への強い信頼。
 それこそが、『ハイジ』を単なる古典名作のアニメ化にとどめず、普遍的な力を持ったアニメ作品として輝かせ続けるものだ。
 『ハイジ』の成功は、生活描写に力点をおいた名作もの、というジャンルをTVアニメに開き、20年を経た現在も受け継がれている。その間『母をたずねて三千里』や『赤毛のアン』『愛の若草物語』といった傑作を送り出し続け、今また『ナンとジョー先生』で、更に新しい地平を開こうとしているように見受けられる。
 それら全ての源となった、偉大で、輝かしい第一歩。
 現在、『ハイジ』は、さまざまな再編集版が出回っているが、機会があれば是非全巻通して見てほしい。単に原作の筋を追うだけでなく、スタッフが『ハイジ』に込めたものが必ず見えて来る筈だから。

初出:『Vanda』10号(1993年6月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※冒頭に「既に20年も昔」とあるが、2021年の現在では既に47年前であることに驚く。『ハイジ』は現在では文中にある名作もののみならず更に多くの作品の源流となっていると思う。タイトルに「TV界を変えた」とあるが、むしろ「アニメ界を変えた」と言えるのでは。
※また「さまざまな再編集版」とあるのは、瑞鷹が製作した2本の総集編『アルムの山』『ハイジとクララ』と、1979年に公開され一部キャストが異なる再編集的劇場版のこと。

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