『太陽の王子 ホルスの大冒険』特集より『あなたは わたしの 青春そのもの』

※同人誌『Vanda』5号(1992年2月発行)の『太陽の王子 ホルスの大冒険』特集に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 『ホルスの大冒険』を初めて見た時の感激は今も忘れない。おそらく一生忘れないだろう。
 力強く語られるテーマ、画面を圧する、凄まじいばかりのモブシーン、大胆で象徴的で、あふれんばかりの意欲と熱気にみちた、今まで見たこともないー。アニメーションでこんなことが出来るのか!という衝撃は、まざまざと残っている。
 数ある東映長編の中でも『ホルス』は格別だ。『わんぱく王子の大蛇退治』も『ホルスの大冒険』も『長靴をはいた猫』も『どうぶつ宝島』も甲乙つけ難く好きで、それぞれに愛着があるが、そんな中でも『ホルス』が格別なのは、やはりそのドラマ性に心ひかれるためだろう。
 『ホルス』には命を救われたことがある。と言ってもたいした話ではなく、誰にもある思春期の感傷。生きてても仕方ないんじゃないかな程度のものだったけど、その時、『ホルス』をもう一回見たい、見るまでは、と思ったのね。ビデオもLDも勿論無く、ファン活動も盛んではなく、アニメーションという語も一般的ではなく、東映長編を見るには、ズタズタのTV放映を待つか、公民館等の子供映画会を丹念に捜すしかなかった、二昔以上前の話。(※2021年時点での注:もちろんDVDもBlu-rayもネットも何も無かった時代のこと)
 感傷はさておくとしても、『ホルス』について書けと言われたら、紙数がいくらあっても足りないのだけれど、ビデオもLDも、数冊の研究書も出ている今日、『ホルス』を知らないアニメファンはいないだろう。
 従って、『ホルス』に関するもろもろの事。例えば、高畑勲の長編デビュー作であり、宮崎駿が初めてメインスタッフの一員として重要な役割を果したこと。いや、こと『ホルス』に関しては誰が誰がというのは当たらない。参加した全てのスタッフが、良い作品を作ろうという意欲の下、創意を出し合い、討議を重ねて“自分たちの作品”として作り上げたものであること。
 従って、当初の予算とスケジュールを大幅に超過して完成されたこと。その間、製作のあらゆる面での合理化を推し進める会社側と、長編の質を守ろうとするスタッフの間で闘争が繰り広げられ、作品そのものが、『ホルス』のテーマである“団結と闘争”を体現していること。
 従来の漫画映画を脱して新しい扉を開き、結果として、日本のアニメーション史の中の重要なターニング・ポイントとなっていること。等々は周知のことといっていいだろう。
 そして彼らが『ホルス』で成そうとしたことは、後の、高畑・宮崎両氏を中心とする仕事へと継承されている。人間の営みを肯定すべきものと捉える姿勢はそのままに、その描写は更に深められ。
 また、『ホルス』で力強く謳い上げられた団結のテーマは、まなじりを決した大仰なものから、地に足のついた人と人とのつながりへと形を変えて、アルムおんじは心を開き、マルコは人の輪で結ばれ、コナンは仲間を得、モンスリーは解放され、野坂文学は新たな息吹を与えられ、タエ子は安住の地を見出す。
 『ホルス』は、そんな彼らの仕事の、輝かしいスタート台だ。『ホルス』が時を越えた永遠不滅の傑作であり続けることよりも、このように継承され、発展し、乗り越えられて来たことにこそ意義があると私は思う。
 1960年代。ベトナム戦争が示したように、民衆の力で世の中を変え得るのだと信じられたあの頃。劇画の進出、学生運動の拡大に見られる若者パワーの台頭。『ホルス』は正しくそんな激動の時代の子として、時代の空気を孕んで登場した。「僕らはベトナムの人民を支援していたというより、逆に励まされていたんです」と宮崎さんが言われたことがあったのだけれど、そのようにして生まれた『ホルス』から、私達は勇気と希望を受け取ったのだった。
 『ホル』の欠点を指摘することも今はたやすい。ホルスとヒルダ、二人の主人公の持つテーマの重さ、深さに比して尺数の短さから来る展開の性急さ。迷いの森など、観念性が強く、描き方も未消化であること。ヒルダの心の葛藤の描き方が未だ充分とは言えないこと。悪魔グルンワルドの表現に混乱が見られること。等々。
 公開時に指摘されたギャグとユーモアの無さについては今では当たらない(それにしても、全編一カ所も、とはどこを見ているのだ?)。コスチューム違い等、明らかな作画のミスや撮影ミス等は、製作時の混乱と時間的余裕の無さ(ラッシュの段階で絶対気づいているに違いないのだが、直す時間がない)を窺わせる。
 それらはおくとして、先に上げたような性急さや生硬さ、観念性の強さといったもの、それは、翻って見れば、青春の本質そのものではないか。『ホルス』と共に青春期を送り、(本当に、あの時、『ホルス』に出会っていなかったら、私の人生は全然違ったものになっていたに違いない)、そこを通過して来た年代にとって、今こそ、それがよくわかる。それらは、欠点であると共に、むしろ、掛け替えのない青春の煌めきであり、ある時代性を丸抱えした魅力として輝きを放っているのだ。
 『ホルス』が二十数年前の古典の域にとどまらず、胸を打つものがあるとすれば、それは、ヒルダの揺れ動く魂への共感であり、ホルスが逡巡の果てに手にする人間同士の信頼への確信であると共に、画面の隅々から怒涛のように押し寄せる熱気に包まれた、青春そのものの輝きが、一本のフィルムに凝縮されているからに外ならない、と私は思う。
 『ホルス』については、本当にいくらでも書けるのだが、とりわけヒルダについて、各シーンごとに書き始めたら、紙数がいくらあっても足りはしない。もし、ヒルダの存在がなかったら、と考えてみるといい。物語は、村を滅ぼす悪魔と、ホルスを中心にした村人たちとの戦いだけを中心に描かれることになり、団結のテーマはもっと簡潔に明瞭に打ち出され、一時間二十分の時間枠にこれ程苦しむことはなかったろう。だが、その代わり、映画はその魅力の多くを失い、二十年たった現在もこれ程、人の心をさざめかせてはくれなかったろう。『ホルス』はヒルダの映画なのだ、と言ってしまえる程、このヒルダという少女は魅力的なのだ。
 泣きたいのに泣けないヒルダ。ほんとうの歌が歌えないヒルダ。「私達、兄妹ね、双子よ。双子だったのよ」。同じ境遇にあったホルスに向けられた、この言葉に秘められた深いかなしみと、一抹の安堵。彼女自身でさえ気づいていない心の底のかすかな希望。
 悪魔の妹として育てられ、幾つもの村を滅ぼすたびに、人間の愚かさ、卑小さを見て来たヒルダ。竪琴の歌、流麗な調べ、怖ろしい詞、これはまさしく魔の歌だ…にひかれ、労働意欲を失い、互いの信頼を失い、遂には相争って自滅する人間たち。
 「なりたくないわ、人間なんかに!」ヒルダは叫ぶ。心の底で渇仰する、もう一人の自分を圧し殺しながら。
 婚礼のシーンのヒルダは圧巻だ。見下して来た筈の村人の、生きる歓びの力に圧倒され、嫉妬と疎外感に苛まされ、不安と怖れに圧し潰されそうになりながら、必死に抗うヒルダ。しかし悪魔の力に小揺るぎもしない愛を目のあたりにして胸衝かれるヒルダ。
 悪魔と人間の間で揺れ動くヒルダのイメージは、鳥だ。空の青、湖の青にも染まず漂う、かなしい白い鳥だ。彼女の信ずる悪魔の妹なぞではなく、人間に戻れるというホルスの言葉も信じられないまま、雪に埋もれてしまった、かなしい鳥だ。
 迷いの森に落ちたホルスに迫り来るヒルダの神々しいまでの美しさ。フレップに生命の珠を与え、雪空に見送るヒルダの顔に浮かぶ、一瞬の微笑。そのかなしさ。(ああ、こうして書いていても胸が一杯になってしまう。)
「ヒルダさまは永遠だ」
――さよう。劇中では、あれから普通の村の娘、歌の上手い美しい娘として成長し、やがて婚礼の太陽のベールをかむり、(お婿さんはホルスさ)、子供に恵まれ、日々の営みのうちに、幸福に年おいてゆく未来が続いているに違いないのだが(それもまた目に見えるようである)、私達の前には、永遠に、はかない少女のままのヒルダがいる。そして私達は永遠に魅了され続けるのだ。あの、湖水に半ば埋もれた廃村でのホルスと同様に。
 他にも美術の魅力や、圧倒的なモブシーンの迫力(いわゆるモブシーンも凄いのだが、村の子供が歌い踊る「お日さまが笑った」のシーンで、一人一人の子供がその年令に応じた動作をしている芸の細かさに是非注目して欲しい)、間宮芳生の音楽の力(いわゆるBGM的なものでは全然なく、人物の感情を掬い、語り、画面と一体となった、映画音楽の力。また幾つもの歌の素晴らしさ。誰か、『ホルスの音楽表現』を書いて下さい。)等々、書きたいことは山程あるのだが、ひとまず、ここまでに。
 See you again

初出:『Vanda』5号(1992年2月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※注:特集の作品はVanda編集部の選定によるものです。
この号には大のヒルダファンで知られる(故)和田慎二先生も参加され、美しいヒルダを描かれていました。そこに添えられた「人間のみにくい部分に傷つき 孤独を選んで悪魔の妹になるけれど 今度は人間のやさしさ力強さに傷つく」という言葉に感銘を受けたものです。

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