『ルパン三世 カリオストロの城』― 山田康雄氏追悼を込めて

※同人誌『Vanda』18号(1995年6月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は1995年当時のものです。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 本年3月、声優の山田康雄氏が死去された。死因は脳出血、享年六十二歳。代表作はやはり『ルパン三世』。折しも十年ぶりの劇場用新作が今夏公開予定中、山田氏が声をアテた予告編は既に全国に流れ、本編の録音に入る寸前だったという(※2021年的注:映画第5作『くたばれ!ノストラダムス』のこと)。通称『旧ルパン』と言われるTV第一作の放送から既に二十数年、その間ほぼ一貫してルパンの声を演じ続けて来た氏への追悼を込めて、今回は『ルパン』シリーズの最高傑作『ルパン三世 カリオストロの城』を取り上げよう。(私はシリーズの代表作は『旧ルパン』、最高が『カリオストロ』というスタンスです)。
 『カリオストロ』が劇場に登場したのは昭和54年(1979年)暮れ。今や言わずと知れた宮崎駿の劇場用初監督作品。と言っても当時、世間での注目度はまだ低く、一部の批評家には熱烈支持されたが興業的には不成功。その『カリオストロ』が注目を集めるのは、その後の美少女ブームの中でヒロイン・クラリスに絶大な人気が集中したのが契機だった。
 ことほど左様に『カリオストロ』の中でクラリスが占める位置は大きい。私にしてもクラリスはベスト・アニメ・ヒロインの座をヒルダと競い合っているし、タバコの銘柄クラリスやらパソコンソフト・クラリスワークスにドキッとする位なのだから。
 とにかく『カリオストロ』はクラリスから始めなくては話にならない。純粋にして無垢、清純にして可憐、対する側が齢を重ね、世俗にまみれるほど、その存在は気高く輝く。クラリスは光、ルパンは影。二人の出会いは彼女自身も覚えていない幼い頃。深手を負って倒れたルパンに、震える手で差し出された一杯の水。男が命を懸ける理由など、遠い日の一杯の水で十分なのだ。疑うことを知らない無垢な瞳と、無上の優しさがそこにあれば。そして十数年を経ての再会にも、少女はその心を失ってはいなかった。捕らわれの身の自分よりも侵入者の身を案じる優しさ。直感的な信頼。そしてただ優しいだけではない。守られているだけではない。花嫁衣装のまま自力で逃走を図る行動力、銃弾の雨から身を挺してルパンを庇う強さ、伯爵の脅しにも屈しない精神力。クラリスこそ究極のヒロイン、至高のプリンセス。
 そして彼女のために闘い抜くルパン。ここでのルパンは、神出鬼没の大怪盗でもなく、何でも出来るスーパーマンでもなく、崖から墜落すればだらしなくのびるし、銃で撃たれれば血も流す、当たり前の人間なのだ。ルパンの武器は体力と知恵。城のレーザーでワルサーを溶かされてしまうのは、これが地に足の着いた体力勝負の漫画映画であることの宣言だ。そんなルパンが自らの言葉通り「空を飛び、湖の水を飲み干す」活躍を見せる痛快さ、その感動。
 不二子はいい女。男に頼らず、むやみに色気を売り物にせず、自立している。ルパンとも馴れ合いの関係ではないのだ。男たちをサポートしつつ、自分の目的は手に入れるしっかり者。「捨てられたの?」クラリスの幼い質問に「まさか。捨てたの」と笑って答える不二子は、ほんとに素敵ないい女。
 銭形は好漢。『新ルパン』その他でのドジでマヌケなダメ警部がウソのよう。トレードマークのトレンチコートもきりりと着こなして、日本男児の心意気を背に信義に生きる、昭和ヒトケタ男。職務熱心、部下の信頼も厚く、男の悲哀も漂う。ルパンを追ってと見せかけて全世界にカリオストロ公国の秘密を公開してしまう際の一世一代の名演技。警部の率いる銭形突撃隊も皆、質実剛健、職務忠実な者揃い。彼ら全員、笑顔で公国を後にする。「なんと気持ちのいい連中だろう」。園丁の老人の最後のセリフ通りの、後味の良さ。一場の夢のよう。それはカリオストロに対抗する側だけのことではなく、伯爵に仕える執事頭ジョドー(永井一郎、好演)も、屈強な衛士隊もそう。東洋人を差別の目で見ていたグスタフも根は単純な大男だと判るし、暗殺隊カゲも覆面を脱いでみれば人の良さそうな城勤めのおっさんだ。全ての者が解放され浄化されてゆく心地良さ。クライマックスの大異変は、人を浄化し解放するのは水=自然であるという宮崎イズムに則った壮大さだ。
 悪の権化カリオストロ伯爵も、浄化こそされないものの、単純な悪役ではない。『未来少年コナン』の悪役レプカがこのままでは自滅するしかない国を背負って狂信に走ったように、伯爵も国際情勢の変化や年々劣化してゆく偽造技術への焦りが背後にある。伯爵が新しいニセ札をチェックする場面の真摯さを思い出してほしい。伯爵は決して、飛行艇の整備士の背中を踏み付けて降りて来る場面が象徴するような傲慢なだけの男ではないのだ。余談だけれど、このニセ札工房、アニメスタジオそのまま。伯爵の「やり直せ!納期も遅らせてはならん」の言葉は経験者にはグサッと来る。
 しかし何とよく出来た面白い映画だろう。開巻早々の明快なドタバタで観客の心を武装解除させ、宙に舞う札束と共に一気に自分のフィールド、古典的な冒険活劇の世界へ引き込んでしまう手腕の見事さ。変装や、怪しげで、でも納得してしまう小道具といった、いかにもルパン的な仕掛けの面白さ。何よりもヨーロッパの小国カリオストロ公国と、その中心にある城という舞台設定の妙と、その舞台を縦横無尽、上から下まで惜しまず丸ごと使い切って見せてくれる演出の力。空間的な広がりを持った舞台を登場人物の行動と共に紹介してゆく手際の良さ。各々の目的と意志を持った人物が絡み合って話が進んでゆく様といい、その構築力は正に職人芸。ルパンの最初の潜入と失敗、北の塔から地下牢の迷宮、ニセ札工房、礼拝堂、再び北の塔へという経緯そのものの面白さと、それがそっくりクライマックスに生かされている見事さ、一々説明されない細部を読み込んでいく楽しさは、正に知的エンターテイメント。
 そして重要なのは『カリオストロ』が純粋な娯楽作品に徹していること。言い換えれば社会性の薄さ。もちろん国家間の確執や裏稼業を持たねばやっていけない小国の悲哀といった要素もあるのだが、あくまで要素に過ぎず、娯楽に徹しているのだ。それはヒロイン・クラリスの立場にも影響する。クラリスは、自然と人間というテーマを背負ったナウシカや、普通の女の子を描くことを目指したキキたちとは違い、その時点での、あらまほしき人物としてのヒロインでいれば良いのだ。それは軽やかな自由さを生む。そして物語の本質は北の塔でルパン自身がなぞらえているように、悪い魔法使いが城に閉じ込めたお姫様を助ける物語。これぞエンターテイメン卜の王道。そしてそれは、何物にも囚われずにすむルパンという人物像だからこそ可能だったのかも知れないと、その後の宮崎さんの大作群を見るにつけ思う。言ってみれば『ルパン』ゆえの勝利。
 公開当時、この物語が『ルパン三世』の枠の中であることが私には不満だった。可憐な姫君と所詮は去って行かざるを得ない泥棒との、初めから叶うべくもない恋物語など、宮崎流漫画映画には似合わないのだと。でも、今は違う。『ルパン』の枠の中だからこそ、限られた時間の中で人物の説明に手間取ることもなく、奇抜な小道具や設定もさらりと使いこなし、現実に搦め捕られることなく、幾つもの『ルパン』像の中の際立つ番外編としての妙味を発揮し得たのではないか。結ばれぬ恋も『ローマの休日』と同様、結ばれぬゆえの佳作とも。それに残ったクラリスが背筋をスッと伸ばしたまま生きていけること、困った時にはルパンが地球の裏側からだって必ず駆けつけてくれることが判っているから、それでいい。
 秀れた映画を前にしては声優も張り切らざるを得ない。『新ルパン』では軽妙というよりも軽薄でさえあったルパンの山田康雄は『カリオストロ』に「こんな映画見たことない」と興奮。結果、最高のルパン像を作り上げている。軽妙酒脱で頭が切れて、そのくせ心の中にやり切れぬ寂しさを抱えているルパン。北の塔でクラリスに「この泥棒めに盗まれてやって下さい」と言う場面に溢れる男の真情。クリント・イーストウッドやジャン=ポール・ベルモンドを洋画吹替えの持ち役にする等、本来芸達者な山田康雄の真骨頂。それが『カリオストロ』なのだ。
 そして素晴らしいのがクラリス=島本須美の初々しい声。涼やかに澄み切って、気品があって、生まれながらのプリンセス・ヴォイス。本作への起用は『赤毛のアン』の主役を最後まで競ったオーディションの印象が宮崎さんに強く残っていたからという。後に島本さんは『小公女セーラ』の主人公で名作劇場に登場するが、それを聴く度に、この声で夢見る少女アン・シャーリーをやってほしかったなと思ってしまう。TVのアンは山田栄子さんで正解とは思うけれど。
 宮崎さんは『カリオストロ』を大棚ざらえと言う。それは否定すべくもないが、しかし、そこには真心がある。その後の成功を見知っている今からすると信じられないかも知れないが、当時、『カリオストロ』は初めて来た劇場用長編のチャンス、本来劇場作品を志向する宮崎さんにとっても、古くからの宮崎シンパにとっても、待ちに待った、又とない機会だった。これを逃しては後がないかも知れない、今こそ思いの全てを。今まで小出しにして来た要素と発想の集大成、そしてヒロインには、理想と願いの全てを託した十七歳のお姫様。その少女のために全身全霊をあげて闘うルパン。太陽の子である少年コナンよりも、「おじさま」と呼ばれる中年ルパンの方が自己を投影し易いのではないか。手管や計算ではなく、真心を込めて生み出され描き出された人物と物語。それ故に、北の塔での二人のやりとりは、真情あふるる名場面になり得ているのだ。
 『カリオストロ』は、毎日映画コンクールで、本命と見られたアニメ作家川本喜八郎氏の力作『火宅』を退けて、その年の最も優れたアニメーション作品に贈られる大藤賞に選ばれた。商業アニメとしては実に昭和38年(1963年)の『わんぱく王子の大蛇退治』以来のこと。1979年の公開当時、あれほどすごいと思った動きも美術も、十数年の時を経て、今ではやや甘く見えもする。その間の進歩の驚くべきこと。しかし全てはここから始まったのだ。
 『カリオストロ』は私個人にとっても忘れ難い作品。結局、これが縁で結婚したし、仲人は宮崎駿ご夫妻にお願いし、快諾していただいた。そしていつか聞いた「富沢さん(旧姓)がルパンやってくださいって言うから僕はあれを作ったんですよ」という宮崎さんの言葉。思い出す度に、この先一生生きていけるだけの元気が湧いて来る。『カリオストロ』は私の宝物。

初出:『Vanda』18号(1995年6月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※山田康雄氏の死去は1995年3月。文中にも注を記した映画第5作『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』は1995年4月公開、当時ものまねタレントだった栗田貫一が急遽ルパンの代役を務めた。文中に今夏とあるのは原稿執筆時の情報による。※文中の美少女ブームはロリコンブームともいい、1982年頃のこと。
※掲載誌『Vanda』はこの18号からそれまでの縦書きから横書き、左開きに一新。表紙も従来のイラストからレコードジャケットをあしらったものになり、音楽専門誌色を強めていく。内容も音楽、漫画、雑学から次の19号で音楽(洋楽)中心となり、佐野邦彦氏と共同で編集に携わってきた近藤恵氏は漫画中心の別冊『縦横(じゅうおう)』に新たな場を持つこととなる。

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