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「強者」という病 ポケモン〈雑魚キャラは迷惑〉発言への反論

〈マイナーは迷惑〉強者の驕りに反論する


動画が削除されているのでTwitterより
"ポケモンユナイト情報屋"様の画像を引用させて頂きました



今回は巷で話題になっている、ある人物がポケモンユナイトの動画で〈マイナーは迷惑だから使うな〉という趣旨の発言しをしたことについて、思ったことを書く。

当該の動画は現時点で削除されてしまっており、僕は残念ながら視聴することができなかったため、見ていないものについてあれこれ言うのは、本当はあまりやりたくはない。二次情報をもとに他人を批判するのはフェアではない。

しかし、視聴した方のコメントを見ていて、何となくいやな気分にさせられる内容だったことがわかる。

どうやらマイナーポケモンを使う人たちを対象に、マイナーなキャラクターを愛用する理由を聞き、それをもとに動画を作るというコンセプトだったようだが、実際にできた動画はマイナーポケモンを貶すことに終始し、挙句の果てに〈雑魚キャラは迷惑〉という趣旨の発言が出た、ということだそうだ。


他人に協力を求めておいて、自分の実績を盾にマウントをとるために利用した、というのが「胸糞ポイント」であるようだ。

僕はポケモンユナイトを最初期にプレイして面白いと思ったものの、見ず知らずの人たちとのチームプレイが性に合わないと感じたことや、ランクバトルに熱中し始めたこともあって、ほとんどエアプである。

それでも僕が今回の件に首を突っ込むのは、ユナイトに限らず、ポケモンにおいて(というかあらゆるゲームにおいてかもしれない)、強者は何を言っても許される、という考え方を持っている人が一定数存在するように感じているからである。あるいは、意見を言いたければ結果を出せ、というような発言をしばしば目にするたびに、「それは違うのでは」と言いたくなることがあるからだ。

”強者に逆らうな” ”お前が強くなってから言え” 「権力」と「権威」の履き違い

「強者が言うことは正しい」という命題が論理的には間違っていることは、立ち止まって考えてみればすぐにわかる。人間は誰にだって間違いはある。先入観や固定観念からは逃れ難く、どうしても自身の経験則から予測を立てたいものである。オオタニさんが二刀流に挑戦することを表明した時も、プロ野球界のOBからは「プロをなめるなよ」という否定的な見解が優勢だった(恥ずかしながら当時は僕も否定的であった)。

とはいえ、強者と言われるような人たちはそれに見合った実績を残しており、たゆまぬ努力を重ねて自らの才能を磨き上げたことには敬意を表する。以前の記事でも書いたけど、ポケモン対戦で強くなるためには、様々な要素を兼ね備える必要がある。

多くの時間をかけて身に着けた知識やスキルは称賛に値する。だからこそ、多くのプレイヤーが強者に対してリスペクトを払うのは自然なことであり、僕はそれ自体を否定するつもりは毛頭ない。

では、問題はどこにあるのか?

強者は誰よりも深い知識や洞察力を備えた、その世界における「権威」であると言えるが、彼らが「権力」を行使するとき、それは大きな誤りを引き起こし得る。

「権威」と「権力」はよく似た言葉だが、その意味するところは微妙に異なり、その差を理解しておくことが重要である。

たとえば「あの教授はこの道における権威である」という時、教授はその学問について余人の及ばぬレベルで知り尽くしており、その道を究めた人物であることを意味している。しかし、「あの教授はこの学問で権力を行使している」という時、教授は学界において高い地位にあり、何かしら実際的な影響を与えていることが強調される。

同じように「国家権力」という言葉は存在するが、「国家権威」という言葉は普通使わない。国家は権力を行使して税金を徴収したり、国民を戦争へ駆り出すことができる。しかし、それは政治家や官僚が税の仕組みや戦争について有識であることと同じではない。無知蒙昧な王様でも、王という権力を行使すれば国民の反対を押し切って税をむしり取り、必要とあらば戦地へ送り出すことができる。

だがこの時、国民は王に対して敬意を感じることはなく、最悪の場合は革命が起きて国家の崩壊に繋がりかねない。だからこそ国家は、「法」によって自らの「権力」に一定の歯止めをかけ、政治家や官僚の暴走を防ぐ仕組みを準備しているのである。

これで「権威」と「権力」の違いはご理解頂けたと思う。ここまで下ごしらえをしておけば、あとはささっと炒めるだけだ(編集後記:全然ささっとではなかった...)。

ポケモン対戦における強者はたしかに多くのプレイヤーの尊敬を集め影響を与える「権威」を発揮しうる存在であるが、決して他のプレイヤーに何かを強制することのできる「権力」者ではありえない。


どれほどそのゲームについて多くの知識を持ち、深い理解力を有し、他者の追随を及ばぬほど精通していたとしても、他のプレイヤーに対して自らの意見や考えを強制することはできない。それは「権力」の行使であり、実際のところ彼にはいかなる「権力」も付与されていない。当然ながら公の場において他者のプレイスタイルや価値観を、根拠なく感情的に否定することは、許される行為ではない。


ここまでが〈雑魚キャラ〉発言への僕の反論である。ここから先は僕の大好きな作品について考察するので、興味があればお付き合いください。

BWに隠された「真の強さ」の答え


BW作品において「真の強さとはなにか?」を
自問したチェレン



実は、強者の「権威」と「権力」については、ポケモン公式からBWという作品を通じてメッセージが送られている。以下ではNとチェレンという二人の人物について考察していこう。

Nはプラズマ団の王として、団員から崇拝されるいわばカリスマ的存在であった。Nは「ポケモンをトレーナーから解放する」ため、伝説のポケモンであるゼクロム/レシラムに認められ、イッシュ・チャンピオンのアデクを打ち破る。そして「ポケモンと人間はともに生きるためにパートナーとなりうる」という信念を掲げたトウヤ/トウコと戦い、敗れた結果、自らが何を信じるべきかを探す旅に出る。

N VSトウコ
ポケモンエボリューションズで描かれた


チェレンはBWにおける主人公とベルの幼馴染で、トウヤ/トウコとベルの3人でイッシュ地方をめぐる旅に出る人物である。彼は「強さ」を追い求めポケモンバトルの腕を磨き続けるが、旅の途中でチャンピオンのアデクから「強さとはなんだ?」と問われ、「真の強さ」について考えることになる。そしてトウヤ/トウコとNによるイッシュ地方の命運をかけた戦いの場に居合わせ、「真の強さ」の答えを垣間見ることになる。

チェレンは続編のBW2において、ジムリーダーとして再登場する。彼は「真の強さ」とは「人々とともに世界を脅かす”悪”に立ち向かう勇気と実力を持つこと」であると考え、「ともに世界を守るために後世を育てること」を自らの使命と考えたのではないだろうか。

チェレンは青くさいところが抜けきらないのが良いです


Nはチャンピオンの座につくことで、自らの信念を人々に押し付けようとした。それは「権力」を目指した戦いであった。

一方でチェレンは、世界を救った英雄であるトウヤ/トウコが姿を消した後、再び野望を実現すべく暗躍するゲーチス=プラズマ団に立ち向かう力を備えた人物を育成するため、ジムリーダーに就任する。チェレンは人々から慕われ目標となりうる「権威」を目指す。

最終的には、「権力」を欲したゲーチスを、「権威」であるチェレンや他のジムリーダーたちの指導を受けたキョウヘイ/メイが打ち負かすことで、プラズマ団の野望を打ち砕くことに成功する。

そして、Nに”命乞い”をしてまでイッシュを守ろうとしたアデクに代わって、新チャンピオンには若きアイリスが就任し、キョウヘイ/メイと戦うことになる。

それまでは「権力」を運用してきた大人たちが表舞台から身を引いて、「権威」として後進の指導にあたる、という図式へ変化するところで、BWの物語は終わりを迎える。

"純粋にして完全なる悪役"ってゲーチスくらいですよね


ポケモンジェネレーションズにてNを助けに来たトウヤ


「強い」は儚く、「強さ」は得難い。


「強い」という状態は、ある種の「病気」を引き起こす可能性がある。自らの力を過信し、「権威」と「権力」を履き違え、他者に対して傲慢に振る舞う、という症状が出てきたら、”ボクは強いビョウ”といって、それは無知蒙昧な王様と同じである。

あるいは、強者自身にそのような気がなくても、彼を取り巻く人々が、強者の御加護を盾にして、弱者に対して高圧的な言動を見せることもあり得る。いわば、強者を「王」と崇め、王に守られた自分も「教団」の一員として強い側に属する、と錯覚している状態である。

「強い」というのは一時的な状態であって、いつかは陰りを隠せなくなるものである。人間という生き物は老いに打ち勝つことはできず、思考力や判断力は衰え、全盛期の実力を発揮することは難しくなり、やがて新しい世代にその座を奪われることになる。

しかし「強さ」を目指す人には終わりがない。たとえどれほど素晴らしい実績を残して周囲の人々から「強い」と称えられても、自らが追い求める「強さ」に達することはない。それは他者や目に見える数字によって証明されるものではないからである。

「強さ」とは、”悪”が世界を吞み込もうとした時に立ち上がり、人々と協力して守り抜くことができた時に、人と人との間に生まれるものである。

世界を守るといっても、それは決して大げさなことではない。あなたが弱き者に手を差し伸べるその時、2人の間には間違いなく「強さ」が生まれている。

これは僕の高校生だったころの話だ。

僕が通学中にバスに乗ると、二人席で外国人が何やらオロオロとうろたえている姿が目に付いた。彼は黒い肌に筋肉質の鍛えられた体を高そうなスーツで覆い、隣に座っている女性を見ながらイライラしたような落ち着きのない身振りをしていた。

状況がわからない僕は、その外国人が女性に何かしらの理由で腹を立てて、手を上げるつもりなのかもしれない、と恐怖を感じた。周囲の大人たちは、気が付いていないようなふりをしていた。

だがよく見ていると、隣の女性は吐き気を催しているようで、男はどうしようか困っている、ということがわかってきた。それに気が付いた僕は慌てて鞄の中を漁りビニール袋を差し出すと、いかつい外国人の男は僕の手から袋をひったくるようにして受け取り、女性に渡した。それを見た通路の向こう側の女性がティッシュを渡していた。外国人の男は礼も言わずに吐き気を催した女性を必死になって介抱していた。

僕はバスを降りる時になって、外国人の男に肩を叩かれた。彼は拳を僕に向かって突き出し「Thank you」と一言だけ言った。僕は彼と拳を合わせて「My pleasure」とたどたどしい英語で応えた。

僕の考える「強さ」とは、こういうものだ。僕は決して「強い」人間ではない。初対面の人に話しかけるのは大の苦手であり、普段は他の人に席を譲ることでさえ緊張するので、あの時の大人たちと同じように見て見ぬふりをしてしまうことだってある。

それでも僕は「強さ」を追い求めている、と思う。見知らぬ土地で、言葉も通じない、理解も想像も及ばぬ他者がひと切れのパンを求めているのなら、その時にどうにかして手を差し出せる人間になりたいと思っている。

勇気だけでは他者を助けることはできない。知恵がなければ、与えるだけの財がなければ、ミイラ取りがミイラになるだけだ。

パンを持っているだけでは他者を救うことはできない。どれだけたくさんのパンを持っていても、怖気づいて他者に手渡すことができなければ、腐っていくだけだ。

手を差し出すことのできる勇気と、他者に迫る闇を振り払う力。この両者こそが「強さ」の正体ではないだろうか。

強者と強さ。やがてグレイシアが世界を救う。


今の強者と呼ばれるプレイヤーたちが、数年数十年たって「昔は強かった人」と呼ばれているのか、「あの人のようになりたい」といつまでも慕われているのか、それは時間が経ってみないとわからない。

しかし、できることなら、強者の方々には他者を守り得る強さを持っていてほしいと願ってしまう。強者には影響力があり、彼らにしか成しえないものごとがある。彼らの力があってこそ、ポケモンというコンテンツは25年以上も発展し続けてこれたのだから。


たとえばだけど、万年5桁の僕がいくら大規模なイベントやオフラインの大会を開きたいと思ったとしても、1人オフ会になるのが目に見えるでしょう?


僕はポケモンというコンテンツを愛する者の1人として、各々が何物によっても規制を受けることなく、好きなように楽しむことができるゲームにしていければ良いとささやかながら考えている。マイナーであろうが、環境に不適応だろうが、僕はグレイシアというポケモンが大好きで、それを誰かにとやかく言われたくはないから。

タキシードを着たグレイシア可愛すぎるだろ!?


まあ、ユナイトだとグレイシアはトップメタみたいだから、気が向いたらユナイトにも挑戦してみたいと思っている。


それにしても、文章を書いた後には余分な箇所を削り、表現を改めて推敲するようにしているのにも関わらず、書き出すとやたら長くなる長文体質はどうにかならないものですかね?


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