やりたくないことは、だいたい正しい。



絶対に選んではいけないことがある


自分がやりたいことは何か、と問われても、いまだに「はい、これです」とは答えられないでいます。
その代わりというか、自分がやりたくないと思うことは、だいたいやらないで生きてきました。



大学受験で浪人した時には、予備校に行かなかった。
新卒では就職活動をしなかった。
スーツを着る仕事はしたことがない。


振り返ってみると、その時々で「なんとなく、やりたくない」と思ったことは、そして実際にやらなかったことは、だいたいにおいて正しかったのだと気がつきました。


「やりたくない」と感じるのは、身体と心からのサインです。
「やりたくなくても、やらないといけない」と言います。
でも、実際には、やらないといけないことなんて、ほとんどないんです。


やりたくないことをやる最大の危害は、生きる力がすり減っていくことです。
「なんとなく、やる気が出ない」のは、「そんなことしていたら、生命力がなくなるよ」と、身体と心がメッセージを送っているのです。


アンリ・ベルグソンはフランスの哲学者です。
この人は「直観ってなに?」ということを考えてくれました。


一般的に直観は、「この人が運命の人だ!」と、正解を選ぶ力だと思われています。
ベルグソンは、直観の機能は「これは、間違っている」と知る能力だと言いました。
人間は、正解がどれかはわからないけども、間違いだけはわかる、とベルグソンは言っているのです。


なぜ人間には「正解を選ぶ能力」ではなく、「不正解を避ける能力」が与えられたのか?
それは、正解を選ぶよりも、間違いを回避する力の方が、生存確率を高めてくれるからです。


戦場を想像してみてください。
仲間とはぐれ、地図もコンパスもなく、自分がどこにいるのかもわからない。
食べ物も底を尽き、自軍の優勢・劣勢もわからず、助けが来るのか永遠に来ないのかの情報も与えられていない。


角を曲がった先には敵兵が隠れていて、1歩進んだ先でズドンと撃たれて死ぬかもしれない。
食べ物を探しにうっかり森に入ったら木の実なんてなくて、帰り道がわからなくて餓死するかもしれない。
喉の渇きに耐えられずに池の水を飲んだら、病原菌に侵されてもっと苦しむことになるかもしれない。


この時には、情報を元にした合理的な判断は不可能です。
曲がり角の先は曲がってみないと誰がいるか(いないか)はわからない。
森の中に食べ物があるか(ないか)は、森の中に入らないとわからない。
池の水に病原菌が存在しているかを確認するために、顕微鏡を使うことはできないのです。



その場に留まるのか、先へ進むのか、それとも後に退くのか。
ある行動を実施するべきか、見送るべきか。
その1つの選択肢が「死」に直結する状況で、それでも生き延びるための力が「直観」の正体なのです。


「曲がり角の先に、嫌な気配がする」
「ジャングルは自分が想定しているよりも深いかもしれない」
「この池の水は、なんとなく飲んじゃいけない気がする」


直観とは、「これだけは、絶対に選んではいけない」ことが、わかることだと言いました。
TVの芸能人格付け番組のように、それを選んでしまうと「写す価値なし」と判定される選択肢だけは、何があっても選んではいけないのです。


選んだら即死・即負けの選択肢を回避するために、「直観」はあるのです。
もっと平たく言えば、「死なない」ための能力です。
生きていれば、チャンスは続く。死んだらその先は、ノー・チャンスです。


ブラック企業がなくならないのは直観がなくなったから


現代日本では、戦争はありません。
第六感という言葉があるように、「直観」は五感と同じく感覚の1つです。
使われない感覚器官は退化していきます。



人間の聴覚や嗅覚は動物に比べて著しく鈍いです。
それ以上に退化してしまったのは、直観なのです。


若者たちは「自分が何をしたいのか、わからない」と言います。
当たり前なのです。
人間には「自分が何をしたいかを知る能力」は、備わっていないのだから。


それ以上に深刻なのは、「自分が何をしたくないのかすら、よくわからない」人が増えていることです。
やりたいことがわからなくても、死ぬことはありません。
でも、やってはいけないことを選ぶと、悲惨な結果につながります。


ブラック企業がなくならない理由の一つは、若い世代から「直観」という感覚器官を剥ぎ取ってきたことです。




「ここには近づかない方がいい」
「あの人だけは信じちゃいけない」
「この職場で続けていたら、いつか病む」


いいえ、若者たちは、実際にはわかっています。
わかった上で、「でも、エビデンスがない」とか「やめても他に仕事がない」と自分に言い聞かせて、直観の語りかける言葉を無視しているのです。


なぜなら、直観の正しさを証明する唯一の方法は、あえて「写す価値なし」の選択肢を選んでみて、実際に画面から消えることだからです。
「ほら、自分の直観は正しかった」と胸を張って言うためには、直観を無視するという倒錯した仕方以外に方法がないのです。


直観を磨くもの=芸術


「若者よ、戦場に行こう」と言っているのではありません。
平和に生きれるならば、それが1番好ましいです。
それでも、人生には「選択の時」が訪れます。


結婚、転職、出産、転居、親の介護……
選択を誤ることで、築き上げた平穏が「ガラガラと音もなく崩れ去る」瞬間が訪れかねない。
そういう選択を迫られる時が、間違いなくある。


感覚器官は使わないと退化すると言いました。
現代の日本の若者は(昔の人はよく知りません、ごめんなさい)、五感全てが退化している状況です。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。すべてが恐ろしいほど鈍感です。



嘘だと思うのであれば、試しに美術館に行ってみてください。
若い人々がやっていることは、SNSにアップするために有名な絵の前で自撮りするだけです。
じっくりと1枚の絵を見ながら、画家固有の筆致とか、画材の質感とか、色が与える印象とか、線の優美さとか、そういうことについて考えている人はいません。


音楽もそうです。
ポップ・ミュージックは、「メロディ(≒歌詞+リズム感)」しか聴かれません。
それ以外で聴かれる部分は、せいぜいがギター・ソロの上手い・下手です。
ベースの唸るような低音や、ドラムの精緻なパーカッションに耳を澄ませる人は、ほとんどいません。


クラシック音楽を聴く人が何を聞いているか? 
「内声」です。
主旋律の後ろで奏でられる、もう一つ(あるいはもう二つ、三つ)の旋律のことです。
10人の話を一度に聞けたという聖徳太子ではありませんが、複数の旋律を同時に聴き取ることができなければ、クラシック音楽は面白くないのです。



SNS映えが悪いとか、ポップ・ミュージックはけしからんとか、そう言いたのではありません。
芸術教育がなぜ必要なのかを、逆説的に理解してもらうための例にすぎません。


味覚や嗅覚に関して言えば、味の濃いファストフードばかり食べていると、素材本来の旨みや香りがわからなくなります。
芸術についても「簡単で美味しいものばかり食べていると、微細な味わいがわからなくなるよ」と言っているのです。


「やりたくないこと」の先に「やりたいこと」がある



「直観」に話を戻します。



「直観」を司る独立した感覚器官は存在しません。
視覚は目、聴覚は耳、嗅覚は鼻、味覚は舌、触覚は手、のように、「直観はここで感じるんだよ」という身体の部位はないのです。


直観とは、五感の総合のことです。
目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぎ取り、舌で味わい、手で触れた、そのすべての感覚を総合する能力です。



「曲がり角にほんの一瞬だけ人影が見えた気がする」
「森のざわめく音が怪しい」
「この池の見た目は綺麗だけどなんだか変な匂いがする」


五感で感じ取った情報を頼りにして、「絶対に選んではいけないこと」を知るための力。
これをやったら、生き延びる確率が低下する、それどころか即死に繋がること。
何が危険なのかすらわからない状況で、何が危険なのかを察知すること。
五感を駆使した「危機感知能力」、それが直観の正体です。


自分で選んでよかったこと、というお題なのに、「選んではいけないこと」の話をしてしまいました。


でも、「これは選ばないでくれ」という身体が発するシグナルに従い続けているうちに、結果的に「これをやりたかったんだ」というところに行き着くのではないかと思うのです。


直観が語りかける「やりたくないこと」こそが、最終的には「やりたいこと」に繋がるのです。


私は次の仕事も探さずに、仕事を辞めてしまいました。



業務自体はそれなりに楽しくやれていましたが、人手が足りないため労働環境がいささか過酷でした。
状況が変わることを願ってどうにか耐えていましたが、2週間の連勤が3セットも続きました。


ある日、「もうこれ以上はダメだ」と、辞職願を出しました。
正社員になって2ヶ月なので、当然職歴が付きます。
次の職を探すにも、退職日までにほとんど休みがありません。


結局、私は無職になりました。
親からは「早く次を見つけたほうがいい」と言われました。
当たり前です。


私は「まだ、就職してはいけない」と思いました。
今、ここで同じように再就職しても、私の人生は何も変わらない。
何かを変えなければ、私は私の人生を生きることはできないと、心の奥底から声が聞こえたのです。



海外旅行に行かなければならない、という閃きが私を貫きました。
外国には行ったことがありませんでした。
親は心配するし、お金はかかるし、行っている間にも履歴書にはブランクが付きます。


それでも、私はひとりで9日間フランスに行くことを決めました。
フランス語はおろか、英語すらまともに話せません。
現地についても水や食料の買い方すらわからず、「とにかく生き延びる」「無事に帰国する」ことが最優先です。


言葉が通じない、文化も違う、だれも助けてくれない国でたとえ10日間でも生活することは、戦場とは言わないまでも、まさしく「危機的状況」に違いはありません。


ろくに下調べも準備もせずに旅立ったので、観光計画はありません。
現地で出たところ勝負です。
交通費を節約するために、パリの街中を毎日30km歩き回りました。


そうやって自分の足だけを頼りに歩いていると、不思議なことが起きます。
まるで神様が呼んでいるかのように、自分が行くべき場所に連れて行かれるのです。
いいえ、自分が行った先がすべて「自分が行きたかった場所」になるのです。


パリ郊外のとある小さな街に、小さな教会があります。
中に入ると、だれもいませんでした。
私はひとり、異郷(異教)の神の前に立たされました。



私は「自分は、神様にここに来るように呼ばれて来たのだ」と悟りました。


私はキリスト教徒ではありません。はっきり言えば、無宗教です。
でも、神様を信じます。
呼ばれても呼ばれなくても、神はそこにいるからです。


英語では天職のことを ”Calling” すなわち「呼ぶこと」と表現します。
呼ぶのは誰か? もちろん、神様です。
「自分がやりたいこと」は、正確には「神様が私にやってほしいと望むこと」なのです。


Epiphany という言葉があります。これも英語です。
その意味は「直観的な真実の把握」です。
簡単に言えば、「天からの啓示」です。


Calling と Epiphany は、似た概念です。
どちらも根本的には「神の声を聴くこと」を意味しています。
直観とは、自分の内なる神の声を聴くことなのです。


実は「なんとなく、やりたくない」と感じるのは、Calling や Epiphany の一歩手前です。
どうやら人間は、「やりたくない」という直観を信じたその先にしか、「だれかが私を呼ぶ声」を聴くことができないようです。


先ほど、現代人は直観の機能が退化していると言いました。
直観は五感の総合器官であり、直観を鍛えるには五感を鍛えなければいけない。


しかし、最も大切なことは、直観を「信じる力」です。
心の奥底から「私の、私だけの、私のための神様」が語りかけるその小さな声を、微かな空気の震えを、大切に信じることです。


選ぶことは、信じること。



神様を信じない人にとっては、神は存在しません。
当然ながら、神の声も存在しません。


哲学者ニーチェは200年ほど前に、「神は死んだ」と言いました。
宗教としての神ではなく、私にとっての神様を信じれるかどうか。
現代は、個人が「それぞれの神」を信じれるかどうか、そういう時代に入っているのです。


河合隼雄先生は、日本が誇る世界的な臨床心理学の権威です。
文化庁の長官も務められ、高校国語の副教材にも載っている偉人です。
河合先生は1990年代にはすでに「21世紀はもう一度、宗教の時代になる」と言いました。


河合先生の予言通り、911以後に起きている世界各地の紛争は、宗教を抜きには語れません。


選ぶことは、何かを信じることです。
選ぶことは、限りなく信仰に近い行為です。
選ぶことについて考えるとき、経済学ではなく、本当は宗教を考えなければなりません。



世界的な作家が描くテーマは「愛と信仰」です。
ドストエフスキーの時代から、現代の村上春樹も、カズオ・イシグロも、みんなです。
何かを信じ、だれかを愛し、裏切られ、それでももう一度世界を信じて愛することができるか。


自分で選んでよかったこと。
私にとってそれは、「これは絶対にやらないで」と心と身体が発する微弱で不確かな信号を、疑いながらも信じたことです。



本当にこれでいいのか、自分は正しいのか、間違っているんじゃないか。
そうやって疑いながら、それでも信じて選んだこと。



その先で私は出会うべき人に出会い、向かうべき場所へと進むことができました。
そのことを、苦しみながらもがき続ける過去の自分に伝えたいのです。





#自分で選んでよかったこと

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