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無理しない、とは

ある朝、いつも通り駅のホームで電車を待っている時にふと思った。「今線路に飛び込んだら、仕事に行かなくて済むかな」と。

現にこの投稿をしている私は生きてる。息してる。心臓が動いてる。
だからこの言葉が実現することはなかったわけだが、踏みとどまった理由が「自分のせいで遅延させたくないから」という、生きたいでも死にたくないでもない、ただ人に迷惑をかけたくない気持ちで出来上がっていたことに我ながら恐怖を抱いた。
私に自殺願望はない。生きたい。全力で生きたい。だから大丈夫なんだ。

どうでもいいことだけど、私は今お腹が痛い。でも会社に向かうために電車に乗ってる。
この電車に乗ってる人間全員が、私が腹痛を我慢してることなんて知らないし、当然想像もしてないと思う。
会社に着いたとしても、私が言葉にしなければ誰も気づかないと思う。
言ったところで、どれくらい痛いのか伝わらないと思う。
『腹痛』と聞くと立派な体調不良と言ってもいいのかもしれないけど、それが顔に出ないほど、口に出さなければ誰も気づかないほどのものなら大したことは無いのではないか。体調不良とは言えないのではないか。

どうでもいいことだけど、私は前回のnoteから8ヶ月くらいの期間が空いている。久々過ぎて、noteのアイコンがどこにあるのかしばらくホーム画面を探し回ったくらい。
ということは、書くことがそんなにないということは、そこまで溜まったストレスがないのではないか。まだ出さなくていいほど余裕が残ってるのではないか。

全てのエピソードが、自分はまだ頑張りきれていいない証拠に見える。
頑張ったの基準が人によって違いすぎて、どこまでいけば「頑張りました!」って言っていいのか分からない。

職場の先輩が私に対して「無理しないで」と言った。言ってくださった。
無理するって何?無理しないって何?
私は今無理してる?
それとも甘ったれて現実から逃げようとしてるだけ?
私の『無理』はどこ?
「無理です」って言っていいのはどこから?
誰に?いつ?どんな風に言うの?

「頑張れそう?」って聞かれたら「頑張れます」しか返せないよね。
会社の行動指針、肯定的な言動をしましょう!に私は逸れてるんだろうか。否定的に生きてるんだろうか。

先輩には心から感謝してる。これは事実。
だから私が無理ですを宣言することによって、「私の教育が悪かった」とか「気づいてあげられなかった」とか思って欲しくない。

就職活動から支えてくれて、毎日お弁当を入れてくれる親に「仕事行きたくないよ」って言ったらどんな顔されるんだろう。


とりあえず今日も行かなきゃな、頑張らなきゃな。
私がもし本当に壊れる時が来ても、その時はその時だと思う。

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