書く場所があるという自由

昨日の夜のこと。noteを書こうにもあまりにも眠過ぎたので、30分ほどひと眠りしてからにしよう、とベッドの上に横たわったら一巻の終わり。朝になっていた。ここ半年で一番よく眠れたかもしれない。正直、今もまだ眠いくらいだ。今年一年分の疲れがどっと集まっているような気がする。

ということで、これを12月27日分としたい。する。


ひと月ほど毎日更新してきたが、最近、大したことを書けなくなってきている気がする。というのも、心が落ち着いてきているからだ。

精神的に不安定な時ほど、すらすらと言葉を綴ることが出来る。ほんと、ろくでもない人間だ。落ち着いている時に書くべき言葉など、思いつかない。


そもそもこの場所を選んだのは、新しいことを始めたかったから。物を書くというほどではないが、どうでもいい意味のない言葉を書き綴るのは好きだったし、正直に言えば、気を紛らわせたかった。

どうしても忘れられないものと向き合って、いつかここで言葉にすることで、それでようやく、自分の中で終わりに出来るような気がしていた。


しかしどうしてか最近、「そのこと」についての言葉がほとんど出なくなってきた。

いつか、この場所で「本当に語りたかったことを語ることが出来る」という自由が、何より心地よかったのかもしれない。そういう場所がある、という安心感かもしれない。


「いつか書ける、自分にはそんな場所があるんだから大丈夫」

「今書かなくたって、いつか書ければいいんだ」

「無理に書くことはない。それでも、書くことを選ぶことだってできる」

その自由を支えにして生きているうちに、語りたかったことも溶けて薄れて、語るほどのことでもなくなっていくような、そんな気がする。


自由が好きだ。可能性とか選択肢と言い換えられるかもしれない。好き勝手やりたいとかそういうわけじゃなく、「何かすることを選べるけど、別に何かを無理に選ぶ必要もない」という自由が好きだ。

時間指定の宅配便とかは(サービス云々の話ではなく、個人的な感覚として)あまり好きじゃない。たった二時間の指定時間でも、その間はいつ来客があるか分からない、家からは出られない、という「不自由さ」が息苦しくなる。かといって自由があり過ぎると、何をすればいいのかも分からない。少しくらいの不自由の中で自由にする、くらいがちょうど良いのだろうけど。面倒くさいね。


きちんと話す機会がなくなるのは、なんだか寂しい気がするけれど、きっとそれで良いんだろう。

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