10年後かに、しがない社会人から

いったい自分は何をしているのだろう。いつかの誰かの底を見た気になりたいだけなのかもしれない。そんなことを思う。

思えば去年の6月、10年ぶりの友人に会った時。自分が思春期に長いこと片思いしていた相手を「あんなのただのメンヘラだよ」とばっさり切って捨てたのが痛快だった。その友人は、考えはしっかりしている人間だと保証するし、なんならそいつはその相手としばらく交際していた。ただその時、お前がそう言うなら、きっとそうなんだろう、とひどく腑に落ちた。そんな経験を再現したいのかもしれない。浅はかだなぁ。白状すると、そいつには一種の尊敬の念を抱いていた、ずっと。自分にはできないことができたんだからね。



風呂場で無意識に歌を口ずさんでいた。「あのビルとビルを壊せば君の…」と歌ったところで、ふと背の低いマンションの並ぶ情景が浮かんだ。多分、伊勢崎線沿いの埼玉の景色だ。思い浮かべたのは、先ほど切って捨てられていた女性。「君」という言葉一つにまで記憶が宿っているのだから、不思議だなといつも思う。未練がましいだけでは?なんだか今日はやけに自分に対して当たりが強いな。


「君」という言葉で少し思い出した。『何十年後かに「君」と出会っていなかったアナタに向けた歌』という曲がある。RADWIMPSの祈跡に入っている曲。この曲の歌詞には、僕と君とアナタという三つの代名詞が出てくる。初めて聴いたのは確か高校1年生くらいの時だけれど、当時、この歌詞の意味がよく分かっていなかった。

最近になって、もしかしたら、とこの歌詞の意味が分かってきたような気がする。言うなれば、僕が高校生当時の自分で、アナタが今の自分、そして君が誰かかけがえのない人のことではないか。そう考えると、歌詞がしっくりきた。もしかしたら間違っているかもしれない。誰か野田さんに聞いてみてほしい。


あれから10年後のアナタから僕へ何か伝えられることがあるとすれば、そうだな。君を見つけることは出来たんだけどねー、と弱々しい言葉をかけることしかできない。

10年前の自分が今の自分を見たら、何を思うだろう。時々そんなことを考える。

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