太平洋戦争による電力業界に対する影響
(1)戦時下の電力体制
①電力国家体制
昭和13年に成立した電力管理法、昭和17年に施行された配電統制令を受け、日本の電力体制は日本発送電と9配電会社に統合され、電力国家管理体制が完成した。
発電・送電機能を日本発送電(以下「日発」)が、配電・営業機能を北海道・東北・関東・中部・北陸・関西・中国・四国・九州の各配電会社が有していたものの、電圧階級による切り分けは明確なルールが存在せず、70kV送電線については日発・配電会社双方とも保有する状況であった。
以下図は中部配電の解散時送電系統図であるが、「送電」という言葉が活用されていたように、当時から送電と配電の区分は曖昧だった。
②日本発送電
日発は発足から解散まで、東京・小石川(現在はトヨタ東京ビル、後楽森ビルなどが立地)に本社および中央給電指令所を置いていた。日発中給の役割は現在の電力広域的運営推進機関広域運用センターに近く、地域間連系線の運用や融通に主眼が置かれていた。
日発中給・地方給の具体的業務は日本発送電社史技術編に詳しい。
日発には地方給電指令所、一般給電所も存在した。地方給は、北海道給電指令所(札幌市)、東北給電指令所(仙台市)、関東給電指令所(当初小石川、空襲後に世田谷に移転)、東海給電指令所(名古屋市)、北陸給電指令所(富山市)、近畿給電指令所(大阪市)、中國給電指令所(広島市)、四国給電指令所(新居浜市)、九州給電指令所(福岡市)の9か所が設置されており、地方給では今日の中央給電指令所業務(需給計画作成、電源Ⅱ等の電源への出力調整指令)を担当していた。
日本発送電は発電、需給バランス調整、配電会社への供給の他、大口産業用需要家に対する直販も行っていた。概ね、販売電力量の10-20%程度を占めていた。主な直販先は以下の通りである。
③9配電体制
配電会社には中央給電所と給電所・給電支所(注1)が設置されており、給電所と給電支所は日発の給電所や変電所と、融通量調整の連絡体制が構築されていた。
配電会社で特に課題となったのは軍の招集による人手不足であった。中部配電社史によると、陸海軍の招集により男性職員が減少し、中央給電所の担当者も半減する状況に直面した。
戦災による配電設備復旧業務は男性職員が担う必要があり、女性職員が給電業務を担当していたものの、やはりベテラン職員の不足は課題となり、中部配電は東海軍司令部と中央給電所員の兵役招集猶予について複数回協議を行った。
注1…中部配電の場合、長野・岐阜・津・静岡の4給電所、八帖・出川・七日町・浜松の4給電支所が設置されていた。
③植民地・占領地の電力体制
外地には朝鮮電業(株)(昭和18年に朝鮮水力電気(株)・朝鮮鴨緑江水力発電(株)・西鮮合同電気(株)・北鮮合同電気(株)・朝鮮送電(株)が合併して成立)、南鮮合同電気(株)、京城電気(株)、台湾電力(株)、東台湾電力(株)、樺太配電(株)、満州電業(株)、華北電業股份有限公司、蒙疆電業(株)、華中水電股份有限公司が存在し、日発や配電会社から多数の出向者が出ていた。
更に、日発、9配電会社、外地電力会社は、日本軍が占領した軍政下東南アジア(特に蘭領インドシナ、英領ビルマ)の電気事業の委託命令を陸海軍大臣から受け、職員を派遣して発電所開発・電気事業運営を行っており、招集の影響も深刻化し、戦時中の内地では社員が手薄であった。
また、商工省は満州電業および満州国経済部工務司の求めに応じ、内地/外地の電力会社と電源開発、産業配分、周波数統一、電気方式統一、技術者養成、電気銅対策等の課題を協調的に解決すべく、昭和17年7月に大東亜電力懇談会を開催した。構成者は、軍需省(当初は企画院と商工省)、日本発送電、朝鮮電業、満州電業、華北電業、蒙疆電業、華中水電、台湾電力であった。
(2)空襲対策
日本発送電では昭和18年から灯火管制をおこなっていたものの、本土空襲の懸念が高まりつつあった昭和19年5月に空襲対策実施要項を制定、本店に防衛部・各支店に防衛課を設置するなど発変電設備の防衛対策が本格化した。
水力発電所
全ての水力発電所は第1種・第2種防護発電所に分類され、特に重要な第1種防護発電所では建物・主要変圧器防護を重点的に実施した。
鋼鉄製鉄管が破壊された事態に備えて、全水力発電所も水害防止装置が設置されたほか、所員防護室(防空壕)が設置された。
また、三浦・大井・笠木・今渡・泰阜の各発電所には海軍からの要請で魚雷網設置の準備が進められた。実際に設置されたのは大井発電所のみであったが、同発電所対岸には陸軍高射部隊が配備された(作戦変更によって昭和19年末で撤退)。
火力発電所
火力発電所は工業地帯に立地していることから、日米開戦当初から空襲時の被害が懸念されており、昭和14年から特設防護隊を組織していた。空襲対策が本格化した昭和19年5月以降は各火力発電所に本格的な防空設備設置が進められた。
例えば、戸畑発電所ではタービン建屋毎に床面から天井まで達する厚さ450mmの鉄筋コンクリート防爆壁を設置した。相浦発電所では山腹に防空壕を設け、壕内に予備変圧器を保管する体制を設けた。
送電設備
敵機の攻撃に伴う主要送電系統の停止により、ブラックアウトに直面する事態を避けるべく、主要系統間の連絡線設置が急がれた。また、一部鉄塔には迷彩塗装が施された。
変電設備
全ての変電所が第1種・第2種・第3種防護変電所に分類された。特に重要とされた第1防護変電所には、配電盤室に暗幕・防護壁が設置され、建物には迷彩塗装が施された。
一般社会への影響(灯火管制)
昭和12(1937)年10月に施行された防空法により、灯火管制が法制度として定められ、昭和13年4月より支那事変(日中戦争)の激化に伴い灯火管制規則が実施され、本格的に灯火管制が開始された。電球下部だけ灯りを照らす灯火管制用が発売されたほか、電灯覆いが普及した。
(3)戦災被害
最も早く戦災被害に遭ったのは九州配電沖縄支店だった。沖縄では、戦前、沖縄電気・八重山電気・名護電燈・宮古電燈の4社が電気事業を営んでいたものの、昭和17年の配電統制令により、九州配電沖縄支店に統合されていた。
沖縄は地上戦に入る前年の昭和19年10月10日、米海軍第38任務部隊を中心とする空母機動部隊の戦爆連合による空襲を受けた。所謂「十・十空襲」である。沖縄の発電設備・変電設備は殆ど焼失してしまい、続く12日の石垣空襲で八重山地方の発変電設備も大打撃を受け、九配沖縄支店は機能をほぼ喪失した。本土では昭和19年11月から空襲が始まり、昭和20年1月27日の銀座空襲から本土空襲が本格化する。
①日本発送電本店・配電会社本支店の被害状況
東京では昭和20年3月10日の東京大空襲、5月25日の山手大空襲による被害が大きく、特に山手大空襲では日本発送電本社社屋が炎上し、消火活動に当たっていた職員が危うく焼死するところであった。
日本発送電関東支店は昭和15年7月23日に開設され、本店敷地内、最も東側に所在した。関東支店は新社屋を建設しており、昭和20年4月15日に移転する予定だったが、4月14日の城北大空襲で焼夷弾が直撃し、被災した。関東支店が引き続き活用した旧支店社屋も山手大空襲で焼夷弾の直撃を受け、被災した。関東支店は焼け跡(関東給電所)、和田堀変電所事務所、鶴見火力発電所事務所に分散移転、終戦後の9月に世田谷区池ノ上にあった関東支店技能者養成所に移転した。
新橋田村町に所在した関東配電本店(注2)は職員の消火活動により、炎上を免れた。
中部配電は3月19日の名古屋大空襲で本店(注3)が被災し、中央給電所も被害を受けた。中央給電所は直ちに予備設備に移ったがこちらも被災し、烏森変電所・六郷変電所・笠寺変電所に分散疎開した。
日本発送電名古屋支店は日本徴兵館(注4)に入居していたが、名古屋大空襲を生き残った。
関西配電本店が入居していた宇治電ビルディングは大阪大空襲を生き残り、昭和35年に旧関電ビルディングが完成するまで、関西電力本店として活用された。日本発送電大阪支店はダイビル本館に入居していたが、こちらも大阪大空襲を生き残った。
中国配電本店および日本発送電中国支店は8月6日の原子爆弾投下により全焼した。
九州配電は昭和19年4月に本店・福岡支店・福岡営業所を橋口町(注5)に移転したばかりであったが、6月19日の福岡大空襲で本店が全焼したほか、福岡・熊本・鹿児島の各支店が全焼した。
日本発送電九州支店(福岡市大名町)も福岡大空襲で全焼した。
注2 …現在の千代田区内幸町、アーバンネット内幸町ビルが立地している。配電統制令施行前は東京電燈本社であった。
注3 …現在の名古屋市中区、大津通電気ビルが立地
注4 …現在の名古屋市中区、大和生命ビルを経て広小路クロスタワーが立地
注5 …現在の中央区天神二丁目、天神ビルが立地
②発電所の被害状況
発電所では、火力発電所が集中的に被害を受け、全国の発電設備容量150万kWのうち、44%に相当する66万kWの供給力が空襲によって喪失した。
全国の発電所被害状況は別添の通りであるが、特に佐久発電所(水力)および尼崎第一・尼崎第二・鶴見・潮田の各火力発電所の被害は非常に大きいものであった。
佐久発電所(水力)
昭和20年7月30日、空母「ランドルフ」所属のカーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機13機が群馬県渋川市に襲来した。
午前7時25分頃、佐久発電所入口に250kg爆弾1発が着弾、タービン建屋、事務所本館、給電所等を破壊した。1号発電機は機銃掃射により3か所が貫通被害を受け、使用不能になった。また、大山発電所へ移送準備中の4号発電機、避雷器も被害を受けた。サージタンクには機銃掃射により100発被弾した。
潮田発電所(火力)
昭和20年7月13日に鶴見・川崎工業地帯にB-29爆撃機が50機、25日にもB-29爆撃機50機、8月1日にはB-29爆撃機150機が襲来し、焼夷弾攻撃・爆撃を行った。
川崎市川崎区白石町の潮田発電所(現在は東京電力パワーグリッド南川崎変電所)では、7月13日の空襲で爆弾27発着弾、25日に250kg爆弾39発着弾、8月1日は250kg爆弾39発が着弾した。特に7月13日の空襲では、所員が避難していた防空壕に直撃弾を受け、死者10名、負傷者3名を出した。
3回の空襲で貯炭場、社宅、冷却水の取水口に甚大な被害を受けたほか、建屋や石炭コンベアシステム等を破壊した。同発電所は、1号機は昭和22年2月18日まで、2号機は昭和22年8月まで、3号機は昭和22年7月まで運転を停止することになる。
鶴見火力発電所(火力)
潮田発電所と同じく3回にわたってB-29による空襲の被害を受け、120発の爆弾が着弾した。犠牲者は所員10名、所員家族11名であった。
発電所新館にも着弾したため、配電盤が全焼したほか、4号機ボイラ・発電機が使用不能になった。同発電所は昭和23年まで運転を停止した。
尼崎第一発電所(通称「尼一」/火力)
昭和20年6月15日に焼夷弾攻撃、7月19日、8月10日に爆弾被害を受けた。特に8月10日の攻撃は被害が大きく、屋外変電所、1号・2号ボイラ建屋、タービン建屋、事務棟本館が被害を受けた。1号タービン発電機・2号タービン発電機は爆弾の破片で中破し、1号・2号ボイラの側壁水管、2号ボイラの支柱、石炭粉砕ミルなどが破壊された。尼一が完全復旧するのは昭和26年1月のことである。
尼崎第二発電所(通称「尼二」/火力)
尼二は日本発送電が保有する発電所で最も大きな被害を受けた発電所であった。
尼一と同じく3度に渡って攻撃されたが、やはり8月10日の空襲では大きな被害を受けた。構内には500発の爆弾が着弾、事務棟本館だけで80発の直撃弾を受けた。ボイラの被害も甚大で、尼二に設置されたボイラ9基のうち、被害が軽微なボイラは1号・2号ボイラのみ。特に6・9号ボイラは本体をほぼ全て解体する必要があった。また、タービン発電機も甚大な被害を受け、4号機は潤滑油が火災を起こし、中破した。石炭コンベアは75%の被害を受けた。同発電所の完全復旧は昭和25年2月である。
③流通設備の被害状況
電力会社毎の設備別被害内訳を下記の通りまとめたが、最も被害額が大きいのは配電設備である。
特に、都市部空襲による配電設備焼損は甚大な影響を及ぼし、電力需要は激減した。
④給電運用への影響
前述の通り、元々日本発送電の給電運用は地域ごとに地方給電指令所が分立し、広域融通を日発中給が担う体制であったものの、度重なる空襲により通信・地域間連系共に阻害されるようになった。広域融通は困難となり、局地的給電へ転向(日本発送電社史に記載の表現のママ)していかざるを得ない状況に直面した。
給電所は地下壕に移転したものの、人員不足や度重なる停電・物資不足により、給電上必要な記録もこの間はほぼ記録されておらず、後日の聴取に頼らざるを得ない状況となった。
中央給電指令所は前述の日本発送電本店被災時に炎上した。その他給電指令所の被災状況は別添の通りである。
昭和30年代まで日本は水主火従の運用であり、供給力としては圧倒的に水力の比率が高かった。水力発電所で大きな被害を受けたのは佐久発電所のみであったことから、供給力の大半は維持され、昭和20年は一年間を通じて供給力はむしろ余剰であった。
(4)戦後の電力使用制限
前述の通り、火力発電設備への影響は甚大だったものの、水力発電設備はほぼ無傷であったこと、配電設備や需要家施設の焼損、産業用需要の低迷は電力余剰を生じさせ、一時期は盛んに電化が叫ばれた。
しかし、終戦後の需要立ち上がりは商工省電力局、日本発送電、各配電会社の予想を超えていた。火力発電所はGHQによる賠償指定や戦後の資材不足もあり、復旧が進まない状態が続いた点も致命的であった。日発や配電会社の技術者は戦時召集されており、重工メーカーの社員も外地の電力事業のため、軍属として現地派遣されていたため、復員まで時間がかかり、人員不足は明らかであった。
火力発電所の発電能力の推移は以下の通りである。
・昭和20年度末 85.7万kW
・昭和21年度末 88.2万kW
・昭和22年度末 106.4万kW
・昭和23年度末 131.6万kW(認可最大の半分)
昭和21年8月、とうとう一部産業用需要に対して電力制限を実施、続いて二次変電所において輪番で負荷遮断、即ち計画停電を実施することで何とか需給バランスを保つ厳しい状況が続いた。 同年11月19日から3日間、関西配電須磨寮において日発および七配電会社の担当者が集まって電力融通に関する協議、通称「須磨会談」が開催された。
この結果、昭和20年5月の山手空襲で損害を受け、この頃ようやく復旧なった日発中央給電指令所が司令塔となり、供給力配分計画を立て各地帯指令所と配電会社給電指令所に通告、電力融通を行う緊急広域融通が実施された。この需給の混乱は昭和22年冬に冬季渇水により水力発電所の供給力が大幅に減退することでピークに達し、以後問題の焦点は燃料不足、即ち石炭の入手困難に移っていった。
(5)出所
・日本発送電株式会社「日本発送電社史 綜合編・技術編・業務編」
・日本発送電関東支店十年史
・日本発送電株式会社「昭和17年11月1日現在 社員名簿」
・日本発送電株式会社「昭和18年8月1日現在 現業機関表」
・横浜市Webサイト「横浜市史資料室-写真でみる横浜大空襲」
・川崎市「川崎空襲・戦災の記録」
・渋川商工会議所Webサイト「渋川商工会議所ご案内」
・東京電燈株式会社「東京電燈株式会社五十年史」
・中部配電株式会社「中部配電社史」
・関西配電株式会社「関西配電社史」
・北陸配電株式会社「北陸配電史」
・中国配電株式会社「中国配電株式会社十年史」
・九州配電株式会社「九州配電株式会社十年史」
・満州電業史編集委員会「満州電業史」
・東京電力株式会社「関東の電気事業と東京電力 - 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡」
・関西電力株式会社「関西電力五十年史」
・中部電力株式会社「時の遺産:中部地方電気事業史料目録集」
・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」
・総務省Webサイト「国内各都市の戦災の状況」
(6)関連記事
・長崎市への原子爆弾投下による電力業界に対する影響
・広島市への原子爆弾投下による電力業界に対する影響
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