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長崎市への原子爆弾投下による電力業界に対する影響

昭和20(1945)年8月6日に広島市へ原子爆弾が投下され、続いて8月9日には長崎市にも原子爆弾が投下され、長崎市だけで73,000人以上の死者を出した。当時長崎市は九州配電長崎支店の営業範囲であり、本稿では九配長崎支店の被害・復旧活動について記す。


(1)被害

 8月9日11時2分、アメリカ陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「ボックスカー」によって原子爆弾「ファットマン」が投下された。九州配電長崎支店では職員21名が殉職し、職員の家族77名が死亡した。長崎支店は爆心地から4km離れた長崎市五島町(現在の五島町電停付近、ドコモショップ長崎大波止店が所在)に立地していたこともあり、日本発送電中国支店、中国配電に比べると死者数は非常に少ない。

位置関係(送電線は現在のもの)

①発電設備

 長崎火力発電所(現在は九州電力稲佐寮が所在)が全壊の被害を受けた。長崎火力発電所は元々大正4(1915)年8月に九州電灯が出力1,000kWの自社発電所として運転開始したもので、東邦電力を経て九州配電の発電所として運用されていた。原爆投下当時の出力は6,000kW(常設3,000kW、緊急設置電源3,000kW)であった。

全壊した長崎火力発電所
長崎市北部から見た市中心部方面

②変電設備

浦上変電所(3,500kVA×3)、銭座変電所(3,000kVA×6)、竹ノ久保変電所(4,000kVA×7)が全壊の被害を受けた。浦上変電所は三菱重工業長崎兵器製作所(現在の文教町、長崎大学文教キャンパス)に、銭座変電所は三菱重工業長崎造船所幸町工場(現在の長崎スタジアムシティ)に、竹ノ久保変電所は浦上川を挟んだ向かいの三菱製鋼長崎製鋼所第1工場・第2工場(現在の長崎原爆病院周辺)に電力を供給していた。
 銭座変電所では、レンガ造りの建屋が崩壊し、数名の職員が下敷きとなった。竹ノ久保変電所(現在は九州電力竹の久保アパートが所在)は爆風の直撃を受け、北側の鉄柱・鉄枠が南部・西部に向けて倒壊し、内部は全壊の被害を受けた。他方、建屋は鉄筋コンクリート造で、ガラス破損以外の目立った被害は受けなかった。

被災した九州配電 竹ノ久保変電所

三菱長崎造船所および対岸地区(現在の旭町)に電力を供給していた飽の浦変電所は無事であったが、送電線の鉄塔倒壊により同変電所からの供給も途絶え、市内供給電源はゼロとなった。

③配電設備

 配電設備の被害は鉄塔4基倒壊、電柱焼失1413本、変圧器焼失434個であった。特に爆心地から1km以内の木柱は殆ど倒壊若しくは焼失、1-2kmでは80%の木柱が倒壊消失した。

④支店本部および人的被害

 九州配電長崎支店の屋上では、早朝から職員の竹やり訓練が行われていたが空襲警報が発令され中断、原爆投下時は対空監視所の建築工事中であった。作業中だった作業員8名のうち1名が地上に落下し死亡、2名が重傷を負った。
支店ビルは玄関のシャッターが折れ曲がり、ガラスが割れる被害を受けた。支店内で勤務していた社員も割れたガラスで負傷したり火傷を負い、中2階の宿直室が救護室に転用された。

九州配電長崎支店(昭和12年撮影)
東邦電力五島町支店ビルとして昭和11年12月に竣工した。戦時中は敵機対策で黒塗装であった。
平成6年に長崎電気ビルに移転するまで、九州電力長崎支店として活用された。

 職員21名の犠牲者のほとんどは、第5次長崎空襲(8月1日)により損傷した配電線・引き込み線の復旧工事を行うべく、三菱重工業長崎造船所幸町工場、三菱製鋼所、長崎医科大学へ出向いていた長崎電業局(注1)の職員であった。特に三菱製鋼長崎製鋼所周辺の高圧線被害が大きく復旧班が集中的に投入されていたが、三菱製鋼は爆心地に近く、人的被害が拡大した。

(2)復旧

①消火活動

 長崎支店では小川敬二支店長が指揮を執り、原爆投下直後に社屋付近で発生した火災の消火活動を行い、間もなく鎮火に成功した。銭座変電所から避難してきた平山社員の報告により、同変電所で下敷きになっている職員が取り残されていることが判明し、救助隊が派遣された。
 12時頃に長崎県庁から出火(注2)した火災は次第に火勢が激しくなり、14時頃には再度支店周辺に火災が押し寄せた。消防車は他の火災現場に駆け付けるべく通過する有様で、やむなく会計係長古賀三郎が社員57名で消防隊を組織し消火活動にあたった。多くの男性社員は戦時招集で不在であり、ほとんどは女性であった。
 倉庫屋上に設置した大貯水槽の水を活用し、手押しポンプやバケツリレーで消火活動に当たり、長崎県警察部の撤退命令を無視したポンプ車の応援もあり、23時には火災を鎮圧、五島町以南の延焼阻止に成功した。戦後撮影された航空写真では、五島町周辺は全く火災被害を受けておらず、九州配電社員の敢闘がよく分かる。

戦後撮影された五島町周辺の航空写真(赤丸は九州配電 長崎支店)
対岸地区(現在の旭町)から見た長崎駅方面

②復旧活動

 火災鎮圧に成功した九配職員は、休息を取る間もなく直ちに復旧活動に着手した。この頃になると陸軍長崎要塞司令部から応援の兵士が派遣されてきたが、どの兵士も関西出身の17-18歳程度の若い志願兵で土地勘はなく、戦場にも遺体にも慣れていなかった。
 長崎市南部地域に電力供給を行っていた江川変電所は被害を免れていた(川南工業香焼造船所は自家発電設備を保有し自給していた)。佐賀-諫早送電線を江川変電所へ引き込む工事が突貫作業で行われ、米軍機の機銃掃射を警戒しながら大浦、南山手、浪の平方面の線路巡視を実施、10日中に江川変電所から大浦松が枝橋(現在の大浦天主堂電停付近)の地域に対する電力供給を再開した。

長崎市南部の位置関係(送電線は現在のもの)

 翌11日には長崎駅至近のNHK長崎放送局への供給を再開、同日夕方には市内全域への仮送電を実現した。飽の浦変電所は陸軍と三菱重工業造船所の応援を得て1週間後に復旧したほか、海軍第二十一航空廠(大村)の資材提供を受け、9月10日午後には隣接町村を含む全被害地域への復旧を完了した。この過程では、前述の陸軍部隊に加え、長崎支店管内全営業所、九配佐賀支店や福岡本店、電気工事会社の支援が行われ、応援人員は延べ4,021名に上った。
 長崎市内の電力供給再開は広島に比べて迅速であったが、その最も大きな要因は、支店への火災被害を阻止したことで、復旧資材を保全できたことだと言われている。

③エピソード

 前述の通り、復旧活動には陸軍長崎要塞司令部も加わったが、少年兵たちは戦場経験がなかった。上空にP-38戦闘機が襲来する中、少年兵と九配作業員は配電線復旧作業をこなした。土台を作るべく焼け跡を掘り起こしていたところ、少年兵が遺体を掘り当てて真っ青になり動けなくなってしまい、九配作業員が「バカたれ!しっかりしろ!」と声をかける一幕もあったという。
 若く経験のない少年兵の派遣に、九配は陸軍と対立した。10日に長崎県庁防空本部で行われた復興会議の様子が記録に残っている。

そのころ立山町の防衛本部長(知事)を囲んで谷口要塞司令官、松浦連隊区司令官、Y憲兵分隊長ら、軍官民の首脳が集まって復旧対策会議がひらかれていた。小川が口火を切る。「兵隊の応援は実に有難い。有難いが、しかし…」次のことばを早くも予測して憲兵隊長の名物のヒゲがピクリと動いた。それにかまわず「あんなピヨピヨ兵隊に何ができる!」民間人としては異例の発言だった。「何を貴様!軍隊を侮辱するかっ」軍刀をわしづかみにしたY大尉の怒号「ブッタ切るぞ!外へ出ろ」本気で怒っている。今にも飛び出しそうな勢いだ。「侮辱ではない。見ろこの電灯を。軍は九配に対してよくやった、とねぎらうべきではないか。もっと役に立つ兵隊を寄越したらどうだ」と小川もやり返す。決死の覚悟である。憲兵にたてつけばどうなるかくらい分かっている。知っていて言わねばならなかったのだ。終始黙って聞いていた知事が最後の断を下した。「議長として憲兵隊長の退席を命ずる」一ツルの一声であった。
 命をかけた復旧作業は不眠不休で続けられた。11日夕方にはNHK放送局まで復旧、全市内に仮送電を開始した。荒涼たる原子野に点々と希望の灯がともる。地獄の暗黒に救いの灯がともる。復興の息吹きである。鬼の支店長が泣き出した。全九配社員が、そしてピヨピヨといわれた少年兵たちが涙を流して灯りを見つめる。「そりゃひどかった。焼け跡に乗り込むと黒コゲの被災者がぞろぞろ群がってくる。作業隊が携行した水を求めて悲痛なうめきを上げる。支店の長椅子にまどろんで10日間働き続けたことを懐かしく思い出す。資材倉庫を死守した各人の敢闘精神。家族の安否も構わず黙々と挺身した人たち。一言も不平をもらさなかった。あの頃の日本人はド根性があった」と小川は語る。

柳本見一著「激動の20年-長崎県の戦後史」(毎日新聞社発行)
戦後の九州電力長崎支店(1994年に現在地へ移転)

注1) 九州配電では戦時招集による人員不足対策で昭和19(1944)年に機構改正を行い、営業所を電業局に改めている。
注2) 当時の長崎県庁は明治44(1911)年に建てられたルネサンス様式の建物であった。熱線で屋根裏が燻り、職員は立山防空壕に駐在していたため、初期消火に失敗したことが火災の原因と考えられている。

焼失した長崎県庁舎

(3)出所

・九州配電株式会社「九州配電株式会社十年史」
・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」
・九州電力株式会社長崎支店「ながさきの電力史」
・長崎市Webサイト「ながさきの平和
・朝日新聞「ナガサキノート 第3789回
・長崎新聞「私の被爆ノート
・長崎文献社「米軍撮影 長崎被爆荒野―被爆70周年に問う「戦争と平和」」
・長崎大学大学院工学研究科研究報告「長崎市における戦後の戦災復興事業及び住宅地の変遷に関する研究
・諫早市Webサイト「子どもたちへの伝言
・長崎の原爆遺構を記録する会「原爆遺構 長崎の記憶」
・総務省Webサイト「国内各都市の戦災の状況

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