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「みんなの学校」から学ぶ(1):怒りや不満を乗り越えられるのが対話

2015年に出会った映画「みんなの学校」には、私たちひとり一人が社会で暮らしていくために大切なことがたくさん詰まっていました。そして、この事実を一人でも多くの方に伝えたいと思い立ち、映画の舞台となった小学校の初代校長である木村泰子さんとともに、書籍を企画したり、勉強会や合宿を開催してきました。いま、コロナ禍で学校も社会も企業もさまざまな問題を抱えています。私自身、モヤモヤを抱え生活するなかで、何か自分ができることはないかと考えていたところ、木村泰子さんとじっくり考える機会をいただくことになりました。改めていまこそ「みんなの学校から学べることは何か」というテーマで、これからシリーズでその対話をお届けします。

http://minna-movie.jp/


自分のなかの怒りやイライラを人のせいにしない

――この数年間、全国をマグロのように泳ぎ続けてきた泰子さんは、この「ステイホーム」をどう過ごしているんですか? さぞかしストレスだったのでは?

泰子さん:それが全く違和感もなく、とても充実してましたよ。不思議やろ? 世界がどうなろうと、私は人に振り回されずに生きていけるかも(笑)。こういう状況になり「見えるもの」や「感じること」がたくさんありました。これまでは、人との対話を通して自分をつくってきたけど、いまは自分と対話することで、すごく思考が豊かになって進化した実感があるかな。今まで大事にしてきたことのベースは変わらないけど、豊かな言葉がいっぱい見つかりました。

――意外でした……。社会の不条理や理不尽なことに、怒りというか、もやもやした感情を持たれてるのかなって思ってました。僕なんて、ニュースを見るたびに、怒りやイライラに支配されてました……。

泰子さん:すごくわかる。ものすごくわかるよ。テレビを見れば、コロナオンリー。そんな状況の中で、怒りやイライラを感じる以前に、自分がテレビを通して見聞きしている情報を、常に批判的に捉える自分は、私のなかにもいたし。そんなときは、怒りやイライラをそのまま放置せず「自分の言葉」に変えたらいい。

――そっか、自分を含め多くの人が、漠然とした怒りやイライラのまま思考を停めてしまっているところ、泰子さんの場合、その先があるんですね。感情を自分の言葉に変える! どうやって自分の言葉に変えているのか気になります。

泰子さん:この期間中、全国で講演やセミナーはすべて中止になったけど、オンラインの講演や対談、執筆依頼はあるから、まずそれぞれのテーマをA4のノートに書きます。そして、ニュースやインターネットなんかを見ていて何か思うことがあったら、白紙の部分に自分の言葉を羅列していく。他にもふと何か言葉が浮かんだことを忘れないように書き留めて置くんです。思考を停めない限り、どんどん余白が言葉で埋まってく。そうしたら、今度は言葉と言葉がつながっていき、まるで図のようなノートが出来上がります。外に出てアウトプットする機会が減った分、インプットしたことを自分の中にアウトプットするように変えてみたんだけど、これがすごく楽しくて。

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――泰子さんは自分と対話して過ごしてきたんですね。なんだか、思考を楽しんでいる泰子さんとは対称に、ただ怒ってイライラしてこの数カ月を過ごしてしまった自分が情けないです。

泰子さん:自分との対話って意外と楽しいよ。ニュース見て腹が立つっていうのは、しょせん人のせいにしているだけじゃない? 何のためにこれまで、「文句を意見に変える」って学んできたん。ちょっと会わないだけで、アカンなあもう(笑)。怒りをもって、それをぶつけるところもなく、自分がどんどんしんどくなっていく。それこそ人のせいにして。自ら招く不幸やね(笑)。

――やり直しです……。でも、これで苦しんでる人いっぱいいると思うんです。

泰子さん:だから、社会を変えるために教育の在り方が大事なんです。「人のせいにしない。文句を意見に変える」こういうことを、義務教育の最初の6年間に学ぶことが重要。幸せなんて誰も教えてくれない。自分が納得して生きていくしかない。そういうことを理屈ではなく空気として吸いながら育つなかで自分の言葉をつくっていく。だから、みんなの学校をつくらないといけない。そしてそれがみんなの社会につながるんです。

教育とは、子どもの良いところも悪いところも引き出すこと

――勇気を出して、教員歴45年の泰子さんに喧嘩を売るようなことを言います。教育が大事って言いますけど、このコロナ禍における大人の振る舞いを見ていると、教育って何をやってきたんだろうって思ってしまいます。自粛警察とか買い占めとか転売とか、はたまた政治家の行動とか……。

泰子さん:それはまさに賛同するよ。じゃあ、ちょっと聞くけど、教育っていう言葉を使わずに教育を語ってみて。

――いつものやつだ(汗)。なんだろう。他者と生きるために必要なことを身につけるとか……アドリブに弱いので(汗)。

泰子さん:そんなもんやろ(笑)。教育って言葉だけが独り歩きしているじゃないかな。教育って英語で何ていう?

――education。「引き出す」ですか?

泰子さん:そう。良いところも悪いところも子どもたちが持っているものを引き出していくのが教育。そう考えたら、教員の役割って、学びの主体である子どもからどれだけいろんなものを引き出せるかってこと。ところが、これまでの日本の教育は画一的で、子どもが30人いたら30人とも「違う存在」として見ないといけないのに、同じスーツケースに詰め込んできた。それは教育とは呼ばないって私は思っています。

――引き出すことが、教育ってことなんですね。しかも「悪いところも」っていうのにハッとさせられました。だって、先生って良いところばかりに着目して、悪いところは隠そうとするという印象だったから。これも自分の経験に限ったことですけど。

泰子さん:だから、優等生って言われてた子が、自ら命を絶ったり、親を殺めてしまう。先生が子どもの悪いところを学校で引き出さないようにするのは、保護者や地域の人、管理職、つまり社会全体がそう求めているから。良いところも悪いところも自分。悪いところはやり直しすればいい。それを引き出すのが教育。

――みんなの学校の映画やテレビを見た人は、この話を聞いたら、ますますみんなの学校の意義を感じるんじゃないかなって思いました。あと、「オンラインでいくらでも学べるんだから、学校なんて行かなくていい」っていう意見もあるけど、もし子どもたちがみんな同じで画一的であれば、行く意味がないかもしれないなって思ってしまいました。一人ひとりがあまりにも違うからこそ、学校は行く価値がある。それがまさにみんなの学校。この子の前ではいいところしか出せないけど、この子の前だったら悪いところも出せる。だから多様性が大事なのかな。

泰子さん:多様性って大人になってから尊重しようと思ったら、とってつけた多様性になってまう。事実、みんな苦しんでる。多くの企業がダイバーシティ推進ってやってるけど、空気じゃなく言葉で理解しようとしてたら、なんだか無理やりでも共生社会が大事だっていう姿勢でいないと、社会のなかで生きづらいでしょ? 理念だけが掲げられても実際隣に重度の障害者がいたら、どうやって自分から遠ざけるかってことばかり考えてしまうのが今の世の中。

子どもが自分の居場所を自分でつくれるようサポートを

――多様性と聞いて思い出したんですが、やっぱり僕たちはこの言葉をうまく理解できていないかなって思う話を先日聞きました。ある建築家の方が、多様性に対応するためのデザインについて、「誰でも使えるように」というアプローチをすると、かえって均質化してしまい、またマイノリティが生まれてしまう。だから、個別対応することが本当の意味でのユニバーサルデザインだとおっしゃっていました。

泰子さん:私はその言葉を使ったことないけど、もし使うなら、ユニバーサルデザインをするのは「自分」でしょう? 学校だったら子どもたち。バリアフリーと混同されてる気がしてる。とってつけたユニバーサルデザインやったら大きな間違い。難しい言葉はよくわからないけど、一人ひとり、その子が過ごしやすい居場所をその子がつくることを、社会は支援すればいいだけじゃないかな。

――その子が自分でつくることを、大人がサポートする。「自分がつくる 自分の学校」、まさにみんなの学校ですね!

泰子さん:みんなの学校のスタートは、「子どもは何のために学校に来る?」「先生に教えてもらうため?」そんな従来の学校の価値観の見直しから始まったけど、そこで行きついた答えは、子どもが「自分をつくる」ために学校に来る。そのために私たち教職員ができることは、教えるスキルを高めることじゃなくて、環境を整えること。つまり、子ども同士がトラブルを学びに変え、自分をつくれる空気をつくることが、私たちの仕事。これこそがみんなの学校のベース。もし常に教えてもらったり、やってもらっていたら、それが無くなったら人のせいにする大人になってしまうでしょう。

――子どもたちは学校に自分の居場所をつくっているんですね。

泰子さん:居場所をつくる主語って誰? 子どもですね。映画に出てた、セイちゃん。東大のシンポで話聞いたでしょう? 高校生になったセイちゃんがこのあいだ、教育雑誌に「僕はね、大空小学校に行って学んだことがあるんです。前の学校では僕のいうことをみんな聞いてくれなくて、学校に行けなかったけど、大空では僕を認めてくれる人がいて、その時、自分を認めて欲しかったら、まず僕が周りの言うことを聞いて、尊重しなければならないってことを学びました」と寄稿していましたよ。

――友達を尊重するって、言葉では分かってるけど、周りの友達とのかかわりの中で自分の言葉にしたセイちゃんはすごい。自分の居場所をつくるってことは、友達の居場所も認めないといけない。それが他者と共存する学び。「自分って誰?」「一人ひとりです」っていう映画の冒頭の全校道徳にシーンですね。

「学び方」を知っていれば、休校中だって困らない

――セイちゃんの話を聞いた後で、なんだか情けないですが、コロナ禍における大人の振る舞いを見て、いま子どもたちが大人に幻滅してるんじゃないかって、心配になっています。

泰子さん:いろいろな人と話をしているなかで、子どもたちはいま、「大人ってつまらんなあ」と思っていると思います。いっぱい幻滅してる。数カ月学校に行けず、家に閉じ込められてた子どもたちは、イライラする大人の姿をいっぱい見てきました。親だけではなくテレビやネットでも、人のせいにする大人の姿を目にしてきた。そんな状況からようやく解放されて学校に通えるようになったのに、肝心の学校は楽しくない。だって、行事なんかも中止され、授業の遅れを取り戻すことが一番の目的になっていたら、課題ばかりでそりゃ楽しくないでしょう。

――家にいると見られる大人は限られますよね。家族しか見れない。でも学校に行ったら地域の人含め、多様な大人に出会えますよね。

泰子さん:みんなの学校で、担任という制度をつくらずに、すべての大人が一人ひとりの子どもにかかわる空気をつくってきたのは、まさにそこ。少なくとも教職員が担任の枠をはずし、すべての子どもに関わることで、子どもたちは多様な大人に出会えるから。

――これまでみんなの学校の特徴の一つとして、担任制をやめて、担当制にしたって理解していましたが、今の話を聞いて、目的があってその手段としての担当制だったんだと改めて理解しました。

泰子さん:空気をつくるってそういうこと。いま本当に学校が授業の遅ればかりを気にしているけど、そういう空気をつくっていたら、3カ月くらい学校来てなくても、全く困りませんよ。学校が、知識やスキルじゃなくて、学び方を教えてさえいれば、子どもたちは自律して一人で学ぶ。いま、オンライン授業っていうけど、授業を進めるためのオンラインじゃなくて、子どもからの発信を受け取るものじゃないといけないって思う。この「学び方を学校で学ぶ」ってことこそ、休校という想定外を乗り切るために日常で付けるべき力じゃないかな。

違いを「格差」ではなく対等なものとして見る

――コロナ禍で、自粛警察って言葉が生まれてますが、その元になっている感情って、自分たちは我慢しているのに「ズルい」という感情ですよね。それでちょっと気になったのが、映画で子どもたちのありのままを見せてもらって、「あの子だけズルい。贔屓だ!」と思えるシーンがあると思うんですが、それでもそんな風に言っている子どもが見当たらないのはなぜですか?

泰子さん:自粛警察みたいなことは、小学校1,2年の時にはよく起きます。先生から、きちんと椅子に座って、手はお膝に、って教えられている子どもは、教室で立って騒いでいる子がいたら、「先生、なんでこの子は椅子に座らないの?」って当然言ってしまう。そこで先生が、「〇〇ちゃん! ちゃんと座りなさい!」って怒ってばかりいる姿を見せていたら、私が注意したから先生も注意したと、手柄を立てたという成功体験になり、大人になって自粛警察みたいな人が出てくるんじゃないかな。

――なるほど。その時先生はどうしたらいいんですか?

泰子さん:私も一人の子どもから教えてもらったんだけど、ある時、授業中に一人の子が好きなことやって過ごしていたら、難しい算数をやっていた子が、「なんであいつだけ、好きなことやって、俺は算数せなあかんの?」っていうから、私は、「算数やりたくないん? だったら、好きなことせいや」って伝えました。そうしたら「やった!」っていって好きなことし始めたんだけど、そのうち飽きて「先生、やっぱり算数やるわ」って戻ってきた。「なんか、自分もやっていいってわかったからそれでいいや」だそうです(笑)。つまり、ここでこの子らを分断するのではなく繋ぐのが私の役目。仮に「あの子はな、算数の授業難しいねん。あんたはできるやろ?」って言ってしまったら、その子は相手をそういう目で見てしまう。だから、違いを対等にすることが必要なんです。二人の子どもはそれぞれ違うけどそれは「格差」ではない。単なる違いで、しかもそれは対等な違い。こういう経験を小学校ですることがどれだけ大事なことかわかるでしょう。

――みんなの学校には、たくさんの対等な違いをもった子どもたちがいます。その違いが格差と見なされたら、悪い部分ばかりが引き出さられてしまうかも……。やっぱり子どもが主役にならないと教育になりえないってことがよくわかりました!

泰子さん:公平であることは、みんなが幸せになるためにとっても大事。それを子どもたちがどう捉えるか。学校には、子どもたちが喧嘩したり、こけてひっくり返っても、ケガしない土俵が必要。子どもが二人いたら、まず二人は違うんだって思わないと。そしてそれが対等になる土俵さえつくれたら、あとは子どもが自分で居場所つくります。

何でもつくり出せるのが他者との対話

泰子さん:いまアメリカは黒人差別で大変で、それに比べたら日本はマシって思う人がいるかもしれないけど、日本だって、障害者差別は一向に無くならないし、先生のいうことが聞けないと地域の学校に行かせてもらえず、排除され、時に死に追いやられるケースだってある。特別支援教育という名のもと、手厚い教育をっていうけど、当の子どもたちは安心できない。そうした子どもに手厚い教育をという視点ではなく、その周りの子どもをどう育てるかが大事。黒人差別問題も一緒で、黒人の側に焦点を当てても何の解決にもなりません。だって、差別問題って差別する側の問題だから。そこに焦点を当てなければ、無くなるはずありません。こうした問題意識がみんなの学校にはありました。

――人種差別にしても、障害者差別にしても、見た目の違いからくるものだと思うんですが、コロナ禍では、見た目は一緒なのに、医療従事者を親に持つ子どもが学校に来ないように言われるといった排除がありますよね。

泰子さん:その問題は、面白おかしく伝えようとするマスコミの伝え方にも問題があるケースがあります。私たちは、そうした報道を見聞きした時、それに対してどう考えたらいいか対話をしないといけません。「排除する人たちはけしからん」で終わっていたら解決などしません。そうやって悪者をつくって終わるのではなく、その周りの人間がどうかかわったらいいのか、そこをきちんと考えていかなければ。

――やっぱり対話って、怒りや不安を乗り越えるための手段として本当に大事なんですね。

泰子さん:怒りや違和感で終わってしまったら絶対ダメ。「やまゆり園」のような悲劇がまた起きかねません。自粛警察みたいに、責めて終わっていたら何も解決しません。常に「自分ならどうする?」と自分事にすることが大切です。もし本当にコロナに感染している可能性があれば、学校に来たら困るのも事実。であれば、オープンに対話して、家族がいまは行かせない方がいいと判断し、その時は、周りはその子が失われた機会をどうやって取り戻そうって考えればいい。それが周りの子にとって学びにつながるんです。どんなことでもできる。これが学び。何でもつくり出せるのが他者との対話。これはトップダウンでは到底つくれません。

――やっぱり、行きつくところは「学びは楽しい」ですね。今日は、学びとは何か、教育とは何かってところがクリアになりました。また来週もお願いします!

続く……



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