きょうだい児、ヤングケアラー、そして精神疾患

いろいろな方のnoteを読んで、
私も綴ってみようと思う。


私は、所謂「きょうだい児」である。
3歳年上の兄は重度の知的障害と重度の自閉症を持ち
生まれてきた。
その下に生まれたのが私だ。

小さい頃の記憶はほとんどない。
ただ単に忘れているのか、それとも防衛反応として思い出さないようにしているのかは分からない。

ただ、断片的に覚えていることはいくつかある。

3歳の誕生日、初めてのディズニーランドに行った時
天気は雨で両親と兄、私、祖母の5人で車に乗り向かった。
兄は多動が酷く、兄を溺愛する祖母が一緒だったこともあり、私と母でトゥーンタウンのミニーの家のみを見てささやかなお土産を買い、すぐに帰った。

幼稚園の頃、私が行きたいという場所へ向かう際には、兄の車酔いが酷く何回も嘔吐し、目的地に向かわず帰宅した。

パニックを起こした兄にブチ切れた私は飛びかかり兄の頬に怪我をさせしこたま怒られた。
(なお、兄は私につばを飛ばすがそれは怒られなかった)

家には祖母がいるのに、幼稚園の延長保育に預けられていた。

幼児期は泣き虫ではあったものの、特に外で遊ぶことはなく家の中でひとり遊びをして過ごしていた。


小学校にあがると先生たちからは「○○くんの妹ね」と認識されるようになった。
私の母含め当事者の会で学校に掛け合い、
支援級を作っていたからだ。
もちろん兄はそこに在籍している。

学校では同学年の支援級の児童をサポートする役割が必然的に私になった。

3年になり、私に妹ができると両親から告げられた。

大泣きした。

姉になる不安からか、幼少期を子どもらしく過ごせていなかったからなのかは今でも分からない。

妹は早産で生まれた。18トリソミーという染色体異常だった。有名なのは21トリソミー、通称ダウン症である。

私は、特設のクラブ活動を行っていた。
そこでは○○くんの妹扱いではなく、
1人の部員として扱ってもらえていた。嬉しかった。

しかし、妹は県立医大の附属病院に入院しており
病状が危なくなると私に呼び出しがかかる。
いつものようにクラブ活動へ向かおうとすると、
顧問の先生に呼び止められ、帰るよう促された。
住んでいる場所から病院はかなり遠く、
車の中でランドセルを机にし、宿題をこなしていた。

妹は2ヶ月で死んだ。


その後、兄は卒業し支援学校へ行った。
お世話係は継続してやらされた。

運動だけはからっきしだったが、
勉強とクラブ活動は熱心に取り組んでいた。
テストでも90点以上が当たり前。
クラブでは部長になった。


東日本大震災が私たちを襲った。
原発のある県だったため、甲状腺の検査が行われるようになった。
その頃父は公務員であったため、家にいることは出来なかった。
震災の前に家を建て、祖母と別居していたのだが、
家に避難してきていた。
兄はもちろん戦力にならないため、私と母で給水所へ行ったり食糧の調達をした。

中学生になり、私は不登校になった。

ほんの些細なきっかけだった。

1学年160人ほどいたが、定期考査で1桁をとった。
さすがに1桁は褒めてもらえるだろうと思い両親に伝えた。

「あともうちょっとだったのにね〜笑」


私の心はそこで折れた。


今までずっと両親に認められるために努力をしてきたことに気づいた。


でも認めて貰えなかった。

私は努力をやめた。


SCにも通った。
しかし、その先生は兄を昔見ていた先生だった。
「お兄さん元気〜??」

ああ、またか。またなのか。


高校は地元ではなく少し離れた定時制に通った。
楽しかった。
誰も私の家族を知らない、私を見てくれる。
そんな環境が初めてだったからだ。

しかし高2の冬、鬱になった。
自傷行為、憂鬱感、希死念慮。
見かねた担任が母親に連絡し、初めて受診した。


小学生の頃から抜毛癖はあった。
中学生の頃からリストカットはしていた。

気づいていなかったのだ。


そこからは腫れ物に触るかのように優しくなった。


単位制の高校だったため、取れる単位を取り3年生をすごした。
4年生にあがるころ、父親は仕事を辞めた。


大学進学を諦めた瞬間だった。


しかし、担任と進路指導部長が私の学力をかってくれて、特待生で大学へと進学した。


4年間ほとんど単位を落とさずに卒業した。
社会福祉士の試験にも合格した。


親元を離れるため、少し遠い場所で就職をした。


楽しかった。


しかし鬱が再発し、無職、生活保護受給者となった。

こんなにあっさり通るんだと思ったが、
実家へ帰ることが困難だと判断されたらしい。

だいぶ長くなったので
次には家族へ抱く感情を綴りたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?