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終戦記念日にもう会えないであろう友人の事を思い出した。
20世紀末のユーゴスラビア戦線で兵役を終えたのち、肉が食べられなくなった男性とかつて親しく話していたことがある。
魚は食べる。菜食主義者ではないのだ。
食肉にされる家畜の断末魔は彼が過去体験したであろう人間のそれと酷似しているからなのかもしれない、ということだ。
彼が戦地で人を殺したのか、それは最後まで聞けなかったけど。
平和主義者であるに違いない、だけど「祖国のために武力をもって戦う事」に肯定的な彼女は戦禍の画面に映る惨状から悲惨さと同時に恍惚を感じる。
彼女は志願して紛争後のルワンダに赴任した。現地の窮困者を助けたい、という心の底からの願いと、死に最も近い場所で「死体を見ながら生きていたい」という相反する「渇望」からだった。
彼女のスティグマ。死体と愛し合いたいという誰にも言えない欲望。
渇望してやまない彼女のそれを実現する時は彼女自身の破滅の時でもある。
生と死は表裏一体。
私は彼女と平和の大切さ、戦争の話、「生と死」と「性」について話すのが好きだった。
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