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一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(20)#戸田家の兄妹/親戚の仲

【映画のプロット】
▶︎父の死
屋敷の塀、ランの鉢。庭に写真機と椅子を据え、記念撮影の準備。
三姉妹がおしゃべりする。
"お父様とお母様は、いくつ違いになるの?"
"8つよ。"
"お父様、69?"
"そうすると、お母様、辰かしら。"
"そうよ。三回り目。''
"お父様の還暦の祝いから、もう8年になるかしら。"
"そうね、あの時あんた、これくらい(手で高さを示す。)。私はまだ、女学校。"
"お姉さん、あの時、リボンを付けてらしたわ。"
"よく覚えてるわね、つまんない。"
"だって、とてもお似合いだったし、素敵だったんですもの。私も女学校入って、ああいうの付けたいと、思っていたのよ。"
"それが、女学校を過ぎて、もうお嫁さんですもね。お母様の還暦も無理ないわ。"
"そうね。"
"和子さんが、一番にお嫁に行くとは、思わなかったわ。"
"母さんに、お兄さんがあるなんて、知らなかった。"
"付き合ったかしら?"
"付き合わないかも知れない。"
"こんにちわ。""いらっしゃい。"
"ご機嫌よう。"
長女の千鶴がやって来る。
"節ちゃん、いつ来ました。"
"ええ、さっき。"
"ああ、そう。"
"先日は。""ああ、和子さん、いいわね、その帯。"
"これ?こないだ大阪の支店の方が見えたの。その時のお土産よ。お姉さんのは?"
"これ?お母様のお下がり。お母様が22歳の時に、お締めになったのよ。"
"随分地味ねえ、昔は節ちゃんくらいで締めたのね。"
"写真屋さん、来てんのね。"
"お母さん、わざわざ九段からお呼びになったわ。"
"もう、皆さんいらした?"
"ええ、お揃いよ。"
"お姉様、一番後。"
"あ、そう。"
"ちょっとごめんなさい。お母さんに、ご挨拶して来よう。""和ちゃん、光ちゃんは?"
"お母様のとこ。"
"こんちわ。" 
"いらっしゃい。""暫く。"
"こないだ、どうでした。"
"いや、真っ直ぐ帰りましたよ。"
"ゴルフのバッグ持ってちゃ、どこにも行けないだろ。"
当主が孫の良吉と語る。
"それで、どうしたんだ。"
"2番、間違えちゃった。"
"私の妹は、3つ年下ですってのを、私は若い、妹は、3つ年下ですって書いちゃった。"
"そりゃあ、少し違ったなあ。"
"ねえ、おじいさま、ダメ?先生、少しお点くださるかしら?"
"ねえ、お母様、ダメ?"
"さあ?そうでしょう?"
"こんにちわ。"
"いらっしゃい。"
"よお。"
"お父様、暫く、ご無沙汰いたしております。"
"いや、こちらこそ。"
"お変わりもございませんで。"
"いや、ありがとう。"
"お母様、本日、おめでとうございます。"
"ありがとう。また、先日は、お祝いを色々いただいて。すぐ、仕立てて、来たんですよ。どう?みっちゃん、ノベルのようでしょ。"
"ねえ、お婆様、随分、若いんだなあ。"
"ええ、お婆様は、還暦といってね、61になって、今日から赤ちゃんになったんですよ。"
"これは、ほんのお印に。"
"おやまた、まいどいただいてばかり。"
"こちらは、お父様にも。"
"これは、これは。"
"還暦のお陰で、私までどうも。"
"みっちゃん、おばさんとこ、いらっしゃい。"
"皆様、お揃いになりました。"
"お父様、どうぞ、お庭の方へ。"
"あ、そう。自動車添えたんだね。"
"なあ、千鶴、写真を写してから、皆んなでご飯食べに行こうと、思ってな。お前、行ってくれるな。"
"お供いたします。"
"さあ、それじゃ、出掛けましょう。"
庭へ出る。
"お父さん、どうぞ。お母さん、こちらへ。お姉さん、どうぞあちらへ。"
"これでいいのかな。皆んな揃ったかな。あ、昌二郎は、どうした。"
"私が、見てまいります。"
節子(高峰三枝子)が、駆けていく。
"昌兄様。"
"昌兄様。まだ、そんなことしているの。皆さん、もう支度できて、待っていらっしゃるのよ。"
"そうか。"机に向かう昌二郎(佐分利信)が振り向く。
"早く、早く。"
"まあ、それじゃあ、おかしいわ。取り替えになったら。"
"これでいいだろ。"
“だって、皆さん、お洋服よ。"
"そうか。"
"もう、皆さん、お庭に出て、待っているのよ。"
"ネクタイどれ。"
"どれでもいい。"
"早くなさい。早く、早く。写真撮ったら、すぐ出掛けるのよ。皆んなで一緒に、お食事いただくの。"
"今日は、馬鹿に綺麗だね。"
"早くなさい。"
"誉めてんだぜ。"
"おじさん。"
"よお。"
"遅いなあ。早くしろよ。おじいさま、怒ってんぞ。"
"脅かすなよ。"
"ほんとだよ。おじさん、寝てたんだろ。"
"寝やしないよ。"
"おじさん、寝坊助だからなあ。"
"早くしろよ。早く。"
"こら。"
"もっと、慌てろよ。" 
"良ちゃん、行きましょう。"
"早くしろよ。早くしないと、おじさんだけ写してやんないぞ。"
"今すぐ、行くよ。"
庭。
"昌二郎は?"
"今すぐいらっしゃいます。"
"相変わらずね。"
"あ、来た、来た、来た。"
"おじさん。""早く、早く。"
"やあ。"
"昌兄さん、私の隣に。"
"これでいい訳だな。どうも、お待ちどう様。"
"真ん中の方、もうちょっと左に。"
"もう少し。恐れ入ります。"
"では、参ります。ちょっとこちらをご覧になって。"
"では、参ります。ありがとうございました。"
"どうもご苦労様。"
女中が、椅子を片付ける。
節子が、女中に言う。
"あ、そう。お父さんとお母さん、お帰りになって。"
"先程、お帰りになりました。"
"昌兄さんは?"
"一旦、お帰りになりましたが、また出掛けられました。"
"どこへ。"
"どちらでございますか。"
"ただ今。どうも遅くなりまして。"
"あれから、時子さんにお目にかかって、ぶらぶらしておりましたの。"
"お父さんは、あれから、すぐお帰りになって?"
"あれからホテルでお母さんとお茶を飲んで、ぶらぶら歩いて、日比谷公園まで行ってみたよ。"
"花壇の花が、とても綺麗でね。音楽堂で海軍さんの楽隊を聴いてきましたよ。"
"まあ、素敵。お父さんとお母さん、お揃いで、そんなことなさったの、何年振りかしら。"
"そう、母さんいつだっけ、この前、ショー観に行ったのは。" 
"あれは、あなた、震災の翌々年ですよ。"
"そうかなあ。それじゃあ大変だ。"
"それじゃあ、10何年振りですわ。"
"もう、そんなになるかな。今日は、愉快だった。揃って、一人も欠けず、丈夫で。長生きしないといけないよ。"
"お父さん、中程で出て来たご馳走、随分、おいしかったですわね。"
"どれが。"
"白い餡掛けのような。"
"お母さん、貝になさったの?"
"あれは、うまかった。"
"節子、夕飯は?"
"済みました。"
"お前、済んでから、後でいいよ。"
"では、ごめんください。"
"母さん。"
新聞を渡す。
"ああ、いい気持ちだ。顔が、ぽっとしているようだよ。"
"少し、飲み過ぎたんじゃ、ございません。"
"うん、今日は、酒がうまかった。なあ、母さん。人間は、年をとったで、また楽しみがあるもんだな。孫も、もう中学の2年だからな。なかなか面白い坊主だよ。"
"お父さん、また喜寿の祝いには、また孫も増えます。"
"眼鏡ないかい。おお。ああ、いい気持ちだ。酔ったよ。"''母さん、お冷一杯、くれんか。"
"タオル、お絞りいたしましょうか。" 
"ああ、いいね。"
"誰か。"
"コップにお冷、それからタオルお絞りして。"
"お父さん、どうかなさいまして。"
当主が横になり、苦しんでいる。
"どうかなすって。"
"うん、ちょいと、苦しい。"
"大丈夫ですか。お茶でも差し上げましょうか。"
"大したことはない。ちょっと放っておいてくれ。""母さん、ちょっと、帯緩めてくれんか。"
"お父さん、大丈夫ですか、大丈夫ですか。"
"誰か、誰か。節子。早く旦那様の床を伸べて。"
"お父様、急に、お加減悪いのよ。"
"またどうなさいました。"
"すぐに先生のとこ、電話して、すぐに来ていたたいて。"
"千代、急いで氷やって。"
12時過ぎ。進一郎と和子。
"はいはい、左様でございます。いらっしゃいます。え、少々お待ちくださいませ。もしもし、もしもし。"
"ただ今、麹町の御本宅から電話がございました。大旦那様、急にお加減が悪いんだそうです。急いでいらしていただきたいと、おっしゃってました。"
"お父様、どうなすったんでしょう。" 
"うん。"
"切れたの、電話。"
"なんですか、大変お急ぎのようで。"
"兎に角、車呼んでもらおう。"
"はい。"
"どうしたのかなあ。急に、悪いってんだから。''
"今日は、大変、お元気でいらしたのに。"
"ねえ、も一度、電話かけて。"
千鶴が電話に出る。
"もしもし、それで先生、なんておっしゃってるの?ふんふん、え?いつから?そりゃいけないのね。昌ちゃんは?え?いない?どこ行ってんの?方々聞いた?しょうがないわねえ。お父さんは、今は?ふん。そう。じゃ、今からすぐ行くわ。節ちゃん、落ち着くのよ。控えててらっしゃい。"
"私、今から出かけるよ。"
"着物、出してちょうだい。"
"お召し物は?" 
"今日、昼ので、いいわ。" 
"帯だけ変えようかな。" 
"そうね。""浅葱のにしてちょうだい。新しいの出してちょうだい。"
"はい。"
"ねえ、今日、帰って来られないかも知れないわ。""もしかしたら、電話して、喪服持って来るように、なるかも知れないけれど。そんなことないとは、思うけれど。深夜にして、よく見といてよ。良吉にもね、いつご用事あるか分からないから、出ないようにしといてね。"
綾子の家。
"あの、ただいま、麹町の御本宅から、電話ございまして、大旦那様が、急に、お加減が悪いんだそうで、お帰りになり次第、すぐ来られるよう、おっしゃってました。"
"いつ?" 
"たった今。"
"すぐ来いって言うの?"
"はあ。"
"どうなすったんでしょう。"
"だいぶ、お悪いようなご様子でした。"
"じゃあ、このまま出掛けましょうか。"
"まあ、上がろう。"
"おい、コーヒー淹れてくれ、濃くしてくれ。"
"今からだと、今夜、遅くなるな。夜明かしになるかもな。コーヒー飲んどくんだな。ああ、くたびれた。"
"ねえ、大丈夫かしら。"
"うん、69だからな。50にして天命を知り、60にして耳したがう、70にして心の欲する所に従って矩をこえず。"
当主は亡くなり、葬儀が催される。
進一郎の秘書が、助手を叱りつける。
"だから、君にあれ程、頼んどいたじゃないか。どしたんだよ。困るな、忘れてもらっちゃ。ほーお。"
叱られた男は、必死にメモをとる。
秘書は、進一郎の部屋を訪ねる。
"はい。ご苦労様。"
"お疲れでしょう。ちょっと横になると、いいかな。" 
"いや。"
"いや、まだまだこれからが大変。気の整理だけでも。明日、明後日。葬儀委員長には、竹原様にお願いするように。"
"これは、どうするの。"
"先程、あちらから電話がありまして、やはりこれの方がいいかと。"
二人はメモを見ながら、打合せする。
"新聞社は、5つくらい、関係会社は..."
"しかし、これは替えてもらおう。"
"あー、分かりました。明日、朝刊に出ます。"
"ご苦労様。あなたも、一つ、暇を見て、休んでください。暇もないだろうけど。"
"いやあ、私は。"
部屋を出た秘書は、節子に声をかける。
"お嬢さん、お疲れでしょう。"
"いえ。"
"こんなことになりまして、こう急に、亡くなるとは思いませんでした。"
"まあ、お大事に。お気をつけて。"
昌二郎が、帰って来る。
"お帰りなさい。"
"ただ今。" 
節子は、急に泣き出す。
"おい、泣くんじゃない。"
"泣くんじゃない。泣くなよ。"
"しかし、随分、急だったな。驚いたよ。新聞見て、驚いたよ。何時に亡くなったの?"
"午前1時36分。"
"何だ?"
"狭心症。"
"お父さん、若い時、お飲みになったからなあ。"
"お母さんは、大丈夫か。"
"いや、お父さんに線香上げよう。"
節子は、泣き続ける。
"泣くんじゃない。忘れるんだ。"
良吉が、昌二郎に話しかける。
"おじさん。お爺ちゃん、亡くなったんだね。僕、死んだ人、初めて見たよ。今まで、あっちで座ってたんだけど、足が痛くて、こっちに来ちゃった。後で、遊ぼう。"
昌二郎は、和子と千鶴がいる部屋に入る。
"ただいま。"
"まあ、昌ちゃん、どこ行ってたの。"
"ちょっと大阪まで。"
"あなた、呑気ね。"
"まさかこんなことになるとは、思わなかったよ。"
"いつもこれなんだから。断って行きゃいいじゃないの。"
"探したのよ。"
"そうかい、済みません。急に行きたくなったもんで。"
"困った人ね。何も、出張しなくてもいいじゃない、こんな時に。" 
"ところが、先週できなかったんだ。和歌山に電話かけて、大阪の予定でごろごろ変わる。何かあったのか。"
"何にも。"
"お父様も、何かおっしゃりたかったけれど、何しろずっとお苦しみだったから。"
"姉さん、それ何?"
"これ、噛んどくと眠くならない。"
"ちょっと見せてください。''
"和ちゃん、痩せたな。そりゃ、いかんな。"
"大丈夫よ。"
"無理すんな。"
"姉さん、どうです。"
"私は、昼間、ずっと寝といたから。"
"お母さんは、どうしてる。"
"さっき見てたら、寝てたけど。"
"そりゃ、良かった。"
"おい、皆んなと、代わりばんこで寝た方がいいぞ。"
"何か、ここに食うものないか?腹は減ってんだけどな。コーヒー淹れて。"
昌二郎は、母を見舞う。
"母さん、ただいま。"
"お帰り。"
"どうも済いませんでした。こんなことになるとは、思わなかったもんで。"
"お父さんには、小さい頃から、一番ご心配をおかけして、この大事な時に、僕だけお見送りもできないなんて。"
"どうもご心配おかけしっ放しで。もう少し生きてくだされば、良かったのに。ちょっと親孝行の真似事くらいできたでしょうに。残念です。"
進一郎の部屋。
"関係会社も色々あったろうが、生前中、一番、緊密にしていた十和田商事も、いよいよいけないことになって、それに、お父さんの保証で、相当額の手形が振り出してあって、僕も初めて聞いて、驚いたんだが、どうも、これも最近の話じゃなくて、かなり古い前からの関係で、それが、書き換えになって、今日に及んでいるのだがな。あー、今となっては、これは、徳義上、何とかしなければならない。まあ、全部が全部払い切れないとしても、少なくとも半分くらいは、何とかしなければいけない。お父さんは、経済界では、一つの存在ではあったのだろうけれど、どうもいたずらに顔が売れ過ぎとって、それが、この際、お別れになったんだけど。しかし、まあ、言ってみれば、戸田新太郎70年、はなはだ清廉潔白であった、という風に、満足してもらうんだなあ。で、差し当たり、鈴木君と相談したんだが、一切合切、つまり、この建物、地所、書画骨董そういった物を売って、整理をしようと思うんだ。まあ、こんな嫌な話で、皆さんの気持ちを煩わしてしまう。どうだい、何か意見はないかね。もっとも、あったにせよ、これは、どうしようにもないんだけれど。どうです、姉さん。"
"仕方がないじゃないの。" 
"龍さん、どう?"
"やはり仕方がないですよね。"
"昌二郎は?" 
"いいよ。"
"この家を売るとすると、お母さんや節ちゃん、どうするの。"
"そりゃまあ、東面、僕のうちに、来ていただくとして。" 
"もう間もないことだし、せめて、節ちゃんのお嫁入りまで、このままにしとけないの。"
"しかし、これは、早い方がいいんだよ。鈴木君どうだろ?"
"鵠沼に別荘がありましたよね。"
"ありゃ、もうだいぶ傷んでいるし、売るとしても、一町歩のことだから。"
"昌ちゃん、どうするの。"
"心配いりませんよ。どうです。整理できますか。"  
"それなんだ。どうだろ。"
"そりゃあのー、やり方次第で、十分できると思います。"
"で、ここに、書画骨董の目録がある。よく分からないけど、中には、だいぶいい物もあるらしい。36、シンナンピンシュウペイ花鳥。"
"シンナンピンですよ。"
"ああ、そうかね。36、シンナンピンシュウペイ花鳥。37、丸山応挙、二月三馬図。"
"なーに。"
"李太白が、滝を見ているところでしょうね。"
"38、酒井抱一、富士。これは、扇面台。39、尾形光琳、扇面、絶勝、雪に松。はい。143、色鍋島、水仙絵巻。"
▶︎天津へ
"昌二郎様に、会社からお電話でございます。"
"全部で862点。まあ、中にや、我楽多もある。"
"ねえ、その中に、下書きのないかしら。私、欲しいの。そういいんじょなくて、いいんだけど。"
"はい、もしもし。俺だ。は。すぐ行く。よし。"
"どうもこの度は、とんだことで、何と申し上げてよいか。旦那様には、色々と、ご贔屓にしていただきまして。随分、急だったんですね。"
"ああ。"
"旦那様、おいくつでいらっしゃるんで。"
"寿命だよ。69だよ。"
"でもまだ、そんなお年でも。"
"いやあ、人生70くらいまでだよ。" 
"そうじゃのう。" 
"女将さんも、あまりやらない方がいいぜ。"
"私なんか。" 
"一つ上げるか。"
"いえ、どうぞ、ごゆっくり。"
"女将さん。お酒。" 
"お前、いなかったんだってな。親父さんが、亡くなった時に。"
"いや。"
"嘘言え。大阪に鯛釣りに行ったって。"
"馬鹿なこと、言うなよ。
"皆んなが知っとるぞ。しかし、驚いただろ。"
"まず、驚いたな。"
"いい親父さんだったがのう。"
"でも、随分、怖い親父だったよ。"
"そうでもなかったじゃないか。"
"いやあ、怖くなくなった時には、ぽっくり。"
"なあ、親父さんが、始球式やったのを、見たことあるがな。神宮で。"
"ああ。"
"いきなり投げたと思ったら、ツーバウンドでな。"
"あの時は驚いたよ。"
"あの時は、前の日、俺を相手に、練習していったんだけどな。まあ、運動神経は、なかったな。"
"でも、弓ができたじゃないか。"
"あ、朝早く起きて、弓の稽古やってた。俺も早く起こされて、矢の拾いをやった。そんな時は、ご機嫌でな、にこにこしてな。"
"お前が、親父さんの本売ったことがあったな。"
"うん?"
"お前が、持ち出してきて、こんなに立派なヤツだったよ。" 
"ああ。ダイジェスト。"
"あん時は、俺、古本屋に行ってた。高く売れたな。"
"あの金、何に、行ったんだっけ。"
"何かの折に、飲んでた。"
"ああ、そうか。"
"それからお前、親父さんの望遠鏡持ち出しだな。"
"あのベニスの時計な。"
"もう時効だよ、その話。親父さんも知るまいて。"
"どうかな。""いやあ、それは、ご存知だったんだよ。ただ、お前に言わなかっただけだよ。"
"そうか。" 
"言っても始まらないと思っていたのかな。"
"そんなこともなかっただろうけど。"
"惜しかったな、親父さんだったらのう。"
"いい親父だった。"
"親父なんか苦手だけれど、いつまで経っても、生きててほしいもんだ。いいもんだよ。"
"おお、体は大事にせんといかんのう。"
"いかん。"
"死んじゃあ、もう酒飲めんからのう。"
"わしら無理かのう、60まで。"
"わしはどうか、あんたは大丈夫じゃろう。"
"何でね。"
"いうのお、昔から、憎まれっ子、世にはばかる。"
"それじゃあ、なるもんじゃのう、憎まれっ子に。""そうかのう。"
"どうしたんだい。"
昌二郎が、固まっている。
"どうしたんだい。"
"何でもないよ。"
"なあ、よう飲むんだな、親父いなきなっても、ちっとも悲しくないと思ったんだけど、詰まらないこと、思い出した。"
"いつか、このうちで、飯を食っておってな、それで、この部屋で、親父がここで、俺がそっちに座って、時候も今頃で、その時も、この盃だったよ。海外に行ったんだよ、そいつが親父の耳に留まるんだよ。その度に,親父は、顔を払うんだ。人間なんて、妙なところで泣けるもんだよ。"
"何かにつけ、泣けるもんだよ。"
"あ、俺、ひとあたり、向こうに行こうと思ってるんだ。"
"向こうってどこだい?"
"天津。天津の支店の方に回してもらおうと思っている。"
"いつ、そんな気になったんだい。"
"や、俺は、こないだから考えていたんだ。やってみたいんだ。俺には、もううちがないんだ。なんだっていいんだ。働いてみたいよ。やってみたいんだ。初めからやり直しだ。俺は、親父が死んだからっていうんじゃなしに、生きる道が、もともとあったよ。"
"もう決めたのか?"
"大体決まった。"
"いつ行くんだ。"
"まだ分からん。決まり次第、行きたい。"
"そうか、行くのか。一人か?"
"一人だよ。"
"いい男がの。"
"たんと食っとくんだ。向こうにないからのう。"
"もらおうかのう。熱いの。"
新太郎の骨董が、鑑定される。
"立派なもんですな。"
"どうでしょう。"
"627番、箱書きおまへんやろか。"
"あります。あります。" 
"そうですか、ちょっと見せておくんない。"
昌二郎も様子を見ている。
"龍さん、ちょっと支度があるから、よろしく頼みます。"
"ああ、どうぞ。"
"鈴木さん、お願いします。"
"ああ、どうぞ。"
昌二郎は、二階に上がり、千鶴に声をかける。
"できたか。"
昌二郎は、着替えを受け取り、スーツケースに詰める。
"これ、一緒に持っていったら、どうだろう。お父さんのだけど。向こうは、寒いって言うし、裏が付いてるから。" 
"いや、要らんでしょ、寒いったって、知れたもんですよ。"
"お前、折角、ちゃんとこうしてあるんだから。"
"じゃあ、いただいて行きましょう。"
"済みません。"
母が尋ねる。
"お前、切符の方は、もういいの?"
"え、もうちゃんと、買ってあんすよ。この間、汽車に乗った時は、のんびりと鯛釣りだったんすけど、今度は、大阪を通り越して、天津まで行くんですからねえ。分からんもんですよ。それも、同じ線路の上、走るんですがね。"
"ねえ、気を付けてね。向こうは、随分、気候が不順だと言うからね。"
"大丈夫ですよ。"
"生水なんか、飲んではなりませんよ。"
"お兄様、子どもみたい。大丈夫よ、お母様。"
"体だけは、くれぐれも頼みますよ。お願いしますよ。"
"大丈夫すよ。それより、お母さんこそ、気を付けてください。まあ、当分、お目にかかれないかも知れませんが。"
"ねえ、今度は、いつ会えるかしら。今度、皆んなに集まってもらう時は、あたしがお寺さん行く時かも知れないねえ。"
"そんな馬鹿なこと、ありませんよ。心細いこと、言ってちゃ、いけませんよ。お母さんには、これからまだまだ喜寿の祝いもあるんですから。米寿のお祝いだってあるんです。"
"そうだろうか。"
"そりゃありますよ。それは、きっとありますよ。なあ、おい。"
節子はうなずく。
"なきゃ困りますよ。遠いたって、飛行機乗れば、すぐに帰って来られるんだし。なまじ、京都辺りから、がたがた汽車で帰って来るより、早いくらいなもんですよ。"
"そうだろうか。"
"そうですよ。そんな心配いりませんよ。"
"お母さん、お風呂入ってらっしゃい。後で、ゆっくりご飯食べましょ。"
"ええ。" 
"行ってらっしゃいよ。"
"じゃあ、忘れ物ないようにね。節ちゃん、頼みますよ。"
"おい、それ取ってくれ。"
"はい。"
"なあ、節子。こないだの話、もうすっかり忘れるんだな。お前も楽しみにしているが、もう諦めてくれ。"  
節子が呆然としている。
"向こうから話を持ってきながら、親父が死んだからと言って、急に断ってくる縁談であれば、かえってまとまらない方がいいんだ。そんな馬鹿な不人情なところへ、よしんばまとまったとしても、俺は、お前をやりたくないんだ。な、忘れてくれ。お母さんも心配してるんだ。"
"あんな奴より、もっといい男がいくらでもいるんだ。俺が話してやるよ。まあ、少し色は黒いけど、がっちりして、親切で、見たとこ綺麗じゃないけど、俺のようなのどうだい。気に入らんか?どうだ、それだ。その調子で、笑ってろ。"
節子は、微笑む。
"こんなことでくよくよするな。おい、それ。"
"これから、兄さん向こうに行って、時々、手紙を出すが、お前もできるだけ、手紙を書いてくれ。色んなことを知らせてくれよ。お前も今までと違って、兄さんあっち行けば、これから何かにつけ、不自由なことが多いと思うんだ。辛抱してやってくれ。お母さんをよく慰めて、大事にしてあげてくれ。"
"兄さんは、うんと働いてみたくなったんだ。その代わり、お前も兄さんに負けないで、その分だけ、お母さんを大事にしてあげてくれ。お母さんも、これから何かにつけ、ご不自由なことが多いと思うんだ。"
節子は泣く。
"また泣く。泣くなよ。今、泣かれちゃ、兄さん、行きにくくなるからな。お母さん、大事にしてあげてくれ。お、頼むぞ、いいか、頼む。"
進一郎夫婦。
"そのお話、もうすっかり決まっちゃたの。"
"うん、差し当たり、うちへでも来ていただくしかしょうがあるまい。" 
"そう。お母様と節ちゃんがいらっしゃったら、どこに来ていただくの。"
"二階でも来ていただくかなあ。"
"じゃあ、私は?"
"応接間の横の8畳間まで行ってもらうかな。"
"タンスなんかは?"
"あれは、そのままでいいんじゃないか。"
"嫌よ。"
"じゃあ、下ろすさ。"
"千鶴子さんのお宅なら、広くていいのに。"
"そうもいかないよ。僕は、長男であるし、当分、ごてごてするだろうけれど、まあ、辛抱してもらうんだなあ。"
"でも、お母さんや節ちゃんにもしてもらわないと、私ばかり辛抱しても、しようのないことよ。""大変よ、節ちゃんの荷物だって沢山あるし。きよやだって一緒に来るでしょうし、お父さんのもと、九官鳥まで持ってらっしゃるわ。"
節子と母。布団を繕う。
"いい。"
"節ちゃん、引っ張ってちょうだい。もう一度。"
"ねえ、お母様、今朝、何でしたの?"
"うん?" 
"お姉様の小言。" 
"私、またしくじってしまってね、お庭のダリヤがあんまり綺麗なもんだから、一つ切って、仏様の花に上げたんだよ。"
"そう。そりゃいけないわ。だって、あのダリヤ、とっても大切にしていらっしゃるんですもの。"
"そうだってね、知らなかったもんだから。"
"あれは、何とかと言って、とても珍しいのよ。"
"とても綺麗だったもの。何も知らないって、困るもんだね。"
"母様、ちょっとそこ。"
女中が告げる。
"お嬢様、奥様がお呼びです。"
"はい。""お母様、針、ここよ。"
和子が、鏡に向かっている。
"お姉様、お出掛け?" 
"ええ、ちょいと。""お友達の神戸の谷本さんね、急でしょ、今、ご夫婦で東京に来ていらっしゃるのよ。"
"そう。"
"今から一丁目にかかって、昼からうちに来ていただくことになってんの。""だから、節ちゃん、お母様とどこか行ってて、ほしいのよ。一日いていただくと、ごたごたして、かえってお母様にご迷惑だったりすると思うのよ。そう遅くはならないわ。7時頃まで。"
"ええ。"
"ねえ、そうしてちょうだい。済みません。"
"あなた、どっちみちお出掛けでしょ。そしたら、ちょっと頼まれてくださらない。何か、果物、お菓子、届けさせてくれない。"
"ええ、いいわ。どんなもの。"
"お任せするわ。それから、サンドイッチもいたたこうかしら。"
"サンドイッチなら、私、こさえましょうか。"
"そうね。"
"母さんもお上手よ。"
"いいわ。行って来て、ちょうだい。ほかの方も見えるかも知れないから。9人分ほど。お願いします。済みません。"  
"それから、みっ君が学校から帰って来る。今日は、おやつ上げないでおくれ。絶対に何も上げないでちょうだい。ねえ、節ちゃん。お母様にもそう申し上げといて。お母さんからいただいて、あの子、お腹壊しているのよ。"
"そう。"
"じゃあ、行って来ます。"
"行ってらっしゃい。"
"ねえ、節ちゃん。九官鳥ね、あれ、二階に上げといてもらおうかしら。お話の途中、妙な声出されても困るから。""じゃあ、お願いしますわよ。" 
"行ってらっしゃい。"
節子は、新太郎の遺影を見上げる。
節子と母親は、連れだって出掛ける。
"ねえ、お母様。どこ行きましょう。"
"そうね。"
"どこがいいかしら。"
"そうね。"
"どう、日比谷公園は?それなら、上野動物園は?随分、いらっしゃらないでしょ。"
"あなた、行ってらっしゃい、久しぶりに、お暇が出たんだから。"
"ううん、私はいいの。お母様よ。"
"私は、忠さんの所へ行ってみようと思うんだけど。"
"そう。"
"あんたは銀座に御用があるんでしょ。"
"ええ。お母様とは別々ね。"
"ゆっくり遊んで来てらっしゃい。"
"じゃあ、時子さんに逢おうかしら。"
"ああ、それがいいよ。気を付けて行ってらっしゃい。"
"お母さんこそ、お気を付けなさってね。"
"うん。"
"上げましょうか。どう。"
"じゃあ、いただこうかしら。お姉さんのお使いなのに、お姉さん、下さらないのでね。ありがとう。済みません。"
"気を付けてね。"
"ええ。"
忠さんの家。
"こんにちわ。"
"いらっしゃいませ。"
"暫く。"
"奥様は?"
"奥様は、先程、お出掛けになりました。"
"おや、おい。"
"今日は、お茶のお稽古。"
"ああ、そうだっけね。"
"あの、お電話いたしましょうか?"
"いいのよ、皆さんお変わりない。"
"はい。" 
"お婆さん。"
良吉が挨拶する。
"お婆さん、一人?"
"ええ。今日は、学校は?"
"ないんだよ。"
"お婆さん、僕の部屋に来ないか。いい物見せてやらあ。おい、談合しちゃダメだぞ。"
"良ちゃん、大きくなったのね。ちょっと見ない間に。"
"あんたが一番、背が高いでしょ、学校で。"
"お婆さん、これ見てご覧よ。"
"なあに。"
"ね、見えるだろ、綺麗だろ。"
お婆さんは、顕微鏡を覗く。
"なんだか、ごちゃごちゃしたものが。"
"なんだか分かるかい。"
"ううん。"
"当ててご覧。"
"お婆さんには、難しいことは、分かりませんよ。"
"難しいことないよ。僕の鼻くそだよ。"
"まあ。"
"こうやって見ると、綺麗だろ。お婆さんの何か、見てあげようか。"
"ねえ、良ちゃん、今日、学校は?ねえ。"
"綺麗だな。"
"ねえ、うん。"
"今日、学校、休んだんだよ。お母さんには、黙っといてね。"
"どうして。" 
"昨日、帰りに喧嘩しちゃったんだよ。"
"まあ、いけないねえ。どうしたの。"
"僕のこと、電信柱って言うんだもん。やり返してやったんだよ。やらないと、やられちゃうんだよ。"
"そんなことで、学校休んじゃ、ダメじゃないの。そんな時には、先生に。"
"やだ。"
女中が、お茶を運んで来る。
"早く行けよ。" 
"どうぞ。"
"閉めてね。"
"ねえ、良ちゃん。ダメじゃないの、そんなことで、学校休んじゃ。"
"お婆さん、お母さんに言いつけるかい?"
"良ちゃん、またそんなことする?"
"言いつけるかい?"
"ううん。"
"げんまんしよう。約束しちゃったよ。ウソ吐いたら、こんな穴開けるよ。"
"その代わり、もうそんなことしちゃ、ダメですよ。あんたが悪いんだから、先生にそう言って、よく謝るんですよ。いいですね。"
"うん。ほんとに、言いつけちゃダメだよ。約束しちゃったよ。"
"大丈夫ですよ。もうしませんね。"
"お弁当、食べちゃお。"
"お婆さん、うまいよ。半分、上げよか?"
"うん。"
"僕、先、食べるよ。"
"よく、噛んでお上がんなさい。"
"うん。""ねえ、お婆さん、この鯖、顕微鏡で見てみようか。"
女中が、食事を持って来る。
"ダメじゃないか、来ちゃ。あっち行け。"
"ねえ、お婆さんおあがりよ、僕は先に食べた。"
"ねえ、お婆さん。今日は、ゆっくりして行っていいんだろ。"
"ええ。"
"僕と遊ぼうよ。お母さん、どうせ夜じゃないと、帰って来ないもん。"
"でもね、お婆さん、これから、お爺さんのお墓参りに行こうと思うのだけど。"
"行くの?僕も行かあ。"
"良ちゃんも、一緒に行ってくれる?そう。"
"うん。"
"じゃあ、お爺さんは、きっと喜んでくれますよ。お爺ちゃんは、良ちゃん、ほんとに好きだったもの。"
"うん、行こう、早く行こうよ。"
"ねえ、お婆さん、早くお上がりよ。"
"良ちゃんのお弁当、毎朝、誰がこしらえてくれるの?""お母さん?"
"ううん、すみや。"
"そう。"
"どうして、まずい?"
"おいしい。"
"お茶、次いでやらあ。"
"ありがと。" 
"次から、こっち、残しといてね。"
節子は、喫茶店に時子を連れ出す。 
"出していただいて、ご迷惑じゃなかった?"
"ううん。"
"お忙しい?"
"まあまあよ。"
"ねえ、お母さん、お変わりございません?"
"ええ、ありがと。"
"お母さんにも随分、お目にかからないけど。"
"よろしく言ってました。" 
"そう。""ねえ、毎日、何してらっしゃるの?"
"私?色んなことよ。お手伝い。お惣菜こしらえたり、お掃除したり。今日は、お母さんと二人、お布団に、綿を入れていたのよ。"
"まあ、そんなことしてらっしゃるの。"
"これが、なかなか大変なのよ。お洗濯だってするのよ。"
"まあ。" 
"ご覧なさい。今日、やっと暇が出たの。"
節子は、右手を差し出す。
"いいわね、あなたがそんなことなさるなんて。"
"だって、どういたしまして。いつまでも、お嬢さんじゃござんせん。感心でしょ。"
"来てんのよ、とっても。"
"ねえ、会社のお仕事って、大変?"
"ううん。"
"私にもできるかしら。"
"そりゃできてよ。"
"そうかしら、わたくし。"
"ねえ、なんだって、そんなこと。"
"何でもない。ちょっとそんな気がしたの。"
"私にもできるなら、どうかって。いやあね、笑ったりして、本気なのよ。"
"ねえ、お兄さんのおうち、うまく行ってるの?お母さんも、ご不自由されているんでなくって。お母様とあのお姉さんと、お合いになるかしら。"
"分かる?そんなこと。"
"じゃなくて。"
"そうなの。"
"ごめんなさい、こんなこと言って。私、ちょっとそんな気がしたの。"
"ねえ、どっちが悪いってじゃなしに、なんて言うのかしら、違うのよね、色んなことが。姉様とお母様と。"
"分かるわ。"
"ねえ、私、どうしたらいいのかしら、こんな時。このままでは、お母様とお姉様と、両方がお気の毒なのよ。"
"あなただって。"
"ううん、私はいいの。私が働いて、あなたみたいに、母と二人、離れて暮らせればと思って。どう?"  
"そうね。だけど、それはよく考えてみて、色んなことが違うのよ、あなたと私で。私の家なんか、お父さんがいる時分から、人に仕える身だし。あなたのおうちは、使う方の側よ。その間に大きな開きがあるのよ。あんたと私は、生まれながらに違うんだよ。大変な違いよ。それをあんた、いきなり私に身を落として、構わないの。"
"ううん、いけないことって言うんじゃなしに、そんな元気ある?随分いることよ、勇気が。"
"あるのよ、勇気が。"
"飛び込める?"
"ええ。" 
"ねえ、かえって、お母様にご心配をかけることになるんじゃない?"
"分かっていただけると、思うんだけど。"
"考えなさい。もう一度。そりゃ考え直した方がいいわ。"
"そうかしら。"
"ごめんなさい、言い過ぎて。"
"ううん。" 
"でも、お母さんもお気の毒ね。ねえ、何か食べない?"
"なあに。"
"何でも。私に奢らせて。"
"いいえ、私が持つわ。今日、お母さんからいただいて来たのよ。" 
"そう。"
"道の真ん中でいただいたの。誰か見てないかと思って、気恥ずかしかったわ。"
"そんなことを恥ずかしいと思っちゃ、そこが違うと言うのよ、あなたと私と。分かる?ねえ、何にしましょう。"
"そうね。安くておいしいもの。"
"そう、それよ。沢山あるの。これが大事よ。"
"これは?" 
"高い、高い。" 
"じゃあ、どれ?"
和子の家。夫人4人が車座で、話している。
"そう?でもいいじゃないの。"
"よかないよ。そりゃ何と言っても、東京よ。"
"そう?"
"でも、好きだわ。あの辺に、一度、住んでみたいわ。"
"そうね。"
"摩耶山だって、六甲だって、すぐそばだし。それでいて、海だって見えるし。"
"あ、美津子寝た?"
"先程、お休みになりました。"
"それに、お料理だって、向こうの方が、よっぽどおいしいのよ。"
"美津子さん、一人でお休みになるの?"
"ええ、とおから。"
"お利口だねえ。"
"見てご覧なさい、最近の銀座辺り。関西料理の店が増えたじゃない。"
"それだって、向こうでいただくようには、行かないわ。"
"そりゃそうね。"
節子が、帰って来る。  
"お帰りなさいませ。"
"お客様、まだいらっしゃるの?"
"はい。"
"お母さん、お帰りになって?どこ?"
"ただ今。" 
"お帰り。"
"遅くなりまして。お母さん、いつお帰りになって?"
"もう、2時間ほど前。"
"そう。私も、お客さんも帰って、お母さんお休みかと思って、急いで帰ってきたのよ。時子さんと、随分ぶらぶら歩いちゃって。時子さん、お母さんによろしくって。"
"そう。そりゃ良かったわね。"
"お母様は?"
"お姉さんの所行ったら、忠さんお留守で、良ちゃんが一緒に、お墓参り行ってくれてね、お花も、お線香も、お水も全部、一人で持ってくれて、それで私に言うのさ、お婆ちゃん、死んじゃダメだよって。"
"まあ、可愛い。"
"お帰りあそばせ。"
"ただ今。"
"お母様、お風呂いかがで、ございますか?"
"お母様、お入りになったら。"
"和子さんが、お入りになったら。"
"お母様、先に失礼して、お入りになったら。"
"でも、私、後にします。"
"お母様、お風呂より、お休みになりたいんじゃない?"
ベルが鳴る。
"お客様、お帰りかしら。もう、こんな時間かしら。お姉様、とてもご機嫌いいわ。どしてだか、お母さん、お分かりになる?"
"いいえ。"
"呼び鈴の押しなりで分かるんですって。かねやに聞いたのよ。"
"そう。"
"お帰り?"
"いいえ、お紅茶を入れました。"
"お湯沸いてる?"
"はい。"
"お茶碗、これでいいのね。"
ブザーが鳴る。
"お呼びよ。"
"どう?お姉さんのご機嫌。"
"はあ。"
"今の呼び鈴。"
ご夫人の部屋。
"まだいいじゃないの。もっとゆっくりしていかれたら、いいのに。どうせ、留守なんですもの。"
"でも、まだ当分いらっしゃるんでしょう。"
"またお目にかかれますわ。"
"そう?""お紅茶は?"
"ただ今、淹れておりますが。"
"もういいわ。お客様お帰りよ。お車、すぐ呼べる?"
"いいの。"
"聞いてご覧なさい。"
"いいのよ。""ほんとにいいのよ。"
"そう?"
"じゃ、いいの。"
"もっとゆっくりされていったら、いいのに。"
"またお目にかかれますもの。"
"そう。"
節子は、紅茶の盆を差し出すが、"お客様がお帰りになりますので、もういいんだそうでございます。"
"そう。"
ブザーが押され、女中は、座敷へ行く。
"お母さんもお一つ、いかが。"
"もう沢山。"
"そう。"
節子は、エプロンを外し、投げつける。
"節ちゃん。"
夫人連が、玄関で。
"旦那さん、いつお帰り?"
"明後日辺り。"
"では、金曜日くらい、午前中、電話しますわ。"
"では、遅くまで、やかましくしまして。"
"どういたしまして。"
"ご機嫌よう。"
節子と母親が、夕食をとる。
"あら、お帰りだったの?"
"遅くなりまして。"
"お風呂まだ?"
"はい、どうぞ。"
"お母様、お入りになって。""節ちゃん。"
"まだ。"
"ほら、どんどん先に入ってくれりゃいいのに。段々遅れちゃうわ。"
"ええ、でも、先にいただきたくなかったの。"
"湯上がり出しといて。じゃあ、お先に。"
"あの、お姉様、お先、休ませていただきますけど。"
"どうぞ、お先に。お休み。"
"お母様、これ、お気に召さなかったのかしら。高いのよ、これ。"
手がつけられなかったサンドイッチの皿を手に取る。
"こんなの時子さん、見たら、憤慨するわ。"
"まあ、お上品な召し上がり方。"
リンゴが、一切れ、食べられている。
"わざわざ銀座まで行って、買って来ることないわ。"
"人ごとじゃありませんよ、あなたもお気をつけなさい。"
"はい。"
"行儀の悪い人。"
"おいしいのよ、これ。"  
床で。
"疲れたよ、今日は。"
"母さん、揉んであげましょうか。"
"いいえ、いいのよ。"
"明日もいいお天気よ。またお洗濯して、髪を洗って、昌兄さんとこ、お手紙書いて。母さん、休みましょうか。"
"お休みなさい。"
"お休みなさい。"
"ねえ、お母様、今日ね、銀座にとてもいい衣装があって、よっぽど昌兄さんの所に送ろうと思ったわ。でもやめちゃったの。母さんに、もっといただいとけば、良かったと思って。"
"そうは行きませんよ。母さんだってありませんよ。"
"心細いのねえ。"
"そうですよ。"
"いただいたものだから、私、いい気になっちゃって、すっかり使おうと思ったのよ。"
"気前がいいのね。"
"お母様、お休みになれる?" 
"うん。"
"ねえ、お姉様の方へ言って、やめていただきましょうか?"
"いいよ。"
"だって、お母様、今日、お疲れなんですもの。きよやかなだって、朝早いのよ。"
"節ちゃん、どうするの。"
"ちょっと、お姉さんの所で、一言申し上げて来ます。"
"よしなさい。"
"いいのよ。"
"じゃあ、穏やかにおっしゃい。お願いするのよ。"
節子は、和子の部屋に入る。
"お姉様、誠に済みませんけど、やめていただけません。ピアノ。"
"なぜ?うるさい?"
"お母様、お休みになれないみたいですの。"
ピアノが止む。
"済みません。"
"どういたしまして。"
"お休みなさい。"
"ねえ、節ちゃん。そりゃもう、分かっていただいていると思うんだけども、お互い様じゃない。今なんかどっちかと言うと、私の方がいけないかも知れないけれど、私も随分、我慢してお母様に申し上げないこともあるのよ。同じうちにいて、ことごと口にするの嫌なんですもの。そんなことで、やって行けないわ。例えば、今日もよ、お客様のいる間にお帰りになったら、挨拶くらいしていただきたかったの。"
"でも、かえってお邪魔だと思って。"
"どうして。"
"だって、どっかに出て行けっておっしゃったじゃないですか。"
"ええ、言ったわよ。"
"だから。"
"いいえ、いなけりゃ居ないでいいの。誰に聞かれたって、お留守と言えるのよ。帰っていながら、ご挨拶もしないで、もし聞かれたら、どうするの。なんて言うの。それも、全然知らない方ならともかく、谷本さんよ、お母さんもご存知のはずよ。そうでしょ。誰だって自分のことは、悪いと思いたがらないものよ。でも、人のことだったら、すぐ目に付くの。目に付いたからと言って、そこんところは少しくらい、そこが辛抱よ。お互い様じゃないんじゃないかしら、一つ家に暮らしていたら。ねえ、そうでしょ。"
"ええ。"
"分かって?""じゃあ、お休みなさい。"
節子は、やり切れない思いで、父の遺影を眺める。
千鶴と進一郎。
"そりゃ困ったわね。"
"ああ。まあ、どっちがどっちって訳じゃなく、今まで溜まり合っていたものが、あたかも顔を合わせて、どうも何かにつけてね。"
"そうかも知れないわね。そりゃ、お互いご機嫌が、悪い時だってあるでしょうし。"
"そうなんですよ。それで、兄妹中、あっちこっち行っていただければ、お母さんの気分も変わるだろうし。"
"そうね。じゃ、いいわ。うちに来ていただくわ。"
"そうですか。じゃ、当面、そうしてください。"
"ただねえ、来ていただいて、賑やかになったで、良吉が勉強しなくなっても困るし、お母様が来たのをいいことに、私の言うこと聞かなくなっても困るし、それが心配なのよ。今だって、なかなか言うこと聞かないのよ。成績だって、あまり良くないの。"
"それは、お母さんにも節子にも、よく話すとして。"
"そうね。"
"そうしてくれませんか。またそれでなんなら、綾子の方にも話しして。"
"ええ、いいわ。忠やんも来るんでしょう。"
"多分、そうなるでしょう。荷物もほどほどありますよ。"
"また九官鳥、持ってらっしゃるんでしょうね。"
何にも知らない九官鳥。母親は、蘭に水をやる。
"ねえ、どういうお気持ちなの。勤めって、どこかの事務員になる積もり?どんなものになりたいの?"
"やめてちょうだい。そりゃあんたの友だちで、そんな人いるかも知れないけれど、そんな人と一緒の気持ちでやってもらっては、困るわ。あんたは、軽く考えているかも知れないけど、あんただけで、済む問題じゃないのよ。うちのことも考えてちょうだい。お父様のお名前も出ることよ。" 
"ねえ、あんたがそんなことして、世間の人は、私たちのことを、どう思う?一体、何て言うと思う?お父様がお亡くなりになって、そりゃ色んなことが不自由よ。だけど、あなたにまで働いてもらわないとならないことかしら。それ程、困っていない積もりよ。あんたは、余計なこと、しなくていいの。あなたは、まだお嫁入り前の大事な体よ。そんな考え、やめてちょうだい。よくて、分かって?"
"はい。"
"よく考えてよ。"
"私が買い物行って、あんたがどっか行って、毎度ありがとうございますなんて、嫌よ。そんなの。よしてよ。分かった?分かったわね。"
"誰か、誰か。"
"二階、よくお掃除しておいてちょうだい。"
"はい。"
"しげや、しげや。"
"はい。"
"着物、出してちょうだい。地味なのにしてね。それから、紋付きの羽織。"
"お出掛け?"
"ええ、ねえ、しげ。良吉、昨日、学校行った?"
"ねえ、お母様、良吉の学校からお手紙来たの。ここんとこずっと、学校行ってないらしいのよ。出席ならず、ご相談したきことが、ありそうらえば。"
"まあ、どうしたんでしょう。"
"なんか、休んでる様子、見えませんでした?"
"さあ、ねえ、こんなことがありましたよ。いつか、ここへ来たら、あんたがお留守で、良吉だけいたことがあって、日曜じゃなし、おかしいと思って訊いたら、前の日にお友達と喧嘩したとかで、学校行かないんだと、言ってましたけど。"
"そりゃいつ頃?"
"だいぶ前。まだあたしが、田園調布のお兄さんのとこへ、行ってた時分。"
"そんなことだったら、何で、言ってくださらないの。"
"その時、言ってくだすれば、こんなことになっていないかもしれませんのに。"
"そうだったねえ。言っとくんだったねえ。"
"今になって、困るじゃありませんか。"
"悪かったねえ。"
"悪かったでは、済みませんわ。"
"でも、その時、私が良吉と約束したもんだから。"
"どんな約束なさったの。"
''もう二度としないから、お婆さんも言いつけないでほしいって。" 
"そんなことって、ないじゃありませんか。良吉のことで、私に黙っているなんて、お母様、それは違うんじゃありません?どういうお考えか、知らないけれど、そりゃ言ってくれるのが、当たり前よ。そんな時は、うんと叱ってやらなくっちゃ。"
"あたしも、叱ったんだけど。"
"お叱りになってもダメよ、お母さん。またしたじゃありませんか。"
"どんな約束したって、相手は子どもじゃありませんか。そんなこと、本気で思っていらっしゃるの。お母さんの方が、よくご存知のはずじゃありませんか。何人も子どもを育てるなんて。"
"あたしが、ぼんやりしていて。"
"気を付けてくださらないと、こんなことがあったら、すぐに私に言ってくださらないと。私には、私のしつけ方があるんですから。私がいくら厳しくしたって、あなたがたが甘いんじゃ、どうにもならないじゃないですか。"
"そうだね、私のやり方が悪かったよ。これからは、気を付けますよ。"
"どうぞ。"
"もう、良吉には一切、構わないでちょうだい。"
▶︎鵠沼へ
女中が告げる。
"御隠居様と節子様が、いらっしゃいました。"
"そう。お通ししてあげて。"
次女が応対する。
"いらっしゃい。"
"暫く。"
"お姉さん、こんにちわ。"
"ご機嫌よう。"
"お母さん、お変わりはございません?"
"ありがと。"
"いつもお達者で、結構ですわ。"
"折角いらっしゃっていただいたのに、私、これから出掛けなければならないんですのよ。"
"そう。"
"ちょっと前に、お電話いただければ、良かったのに。"
"そう?そりゃいけなかったのね。"
"でも、いいんです。少しくらい遅れても。"
"節ちゃん、この頃、どうしているの?元気?"
"ねえ、綾さん。あの、ちょいとお願いがあってね。"
"何ですの?"
"私たちのことなんだけれど、あたしたち、鵠沼の別荘に行って、暮らしてみたいと思うんだけど。"
"どうしてですの?"
"どうしてってこともないけれど、鵠沼のうちの方も空いてるし、ちぃと住んでみたいと思ったもんだから。ねえ、どうかしら。"
"ううん。"
"ほんとなら、あんたとこ、ご厄介になるんだけど、お兄さんやお姉さんからもお許しが出てね、急に決めてしまったもんだから、勘弁しておくれ。"
"そう。お決めになってしまったんですの。何も鵠沼にいらっしゃらなくても、うちに部屋はありますものを。"
''ありがと。"
"節ちゃん、大丈夫?やってける?"
"ええ、やってみますわ。"
"不自由よ、色んなことが。"
"そう。うちにも来ていただけると思ってましたのに。でも、あそこなら便利ですし、時々遊びにも来ていただけますわね。それに、海も近いし、空気もいいし、かえっておよろしいかも知れませんわ。"
"ええ。"
"いついらっしゃるの?"
"なるべく早い方がいいと思ってるんだけど。"
"じゃあ、そのうちにまたお目にかかれますわね。"
"じゃあ、お母様、誠に勝手なんですけど。ゆっくりなすっていいんですよ。節ちゃん、お昼、好きなものを取っていただいて。よねに言っといてね。じゃあ。"
"行ってらっしゃい。""行ってらっしゃい。"
"ごめんなさい。"
"こちらでございます。"
"待った?"
"少し。"
"ごめんなさい。出掛けに、お客さんがあって。"
"誰?"
"お母様と節ちゃん。"
"何だって。"
綾子が、夫と待合せ。
"何だと思う?"
"いよいようちの番か。"
"ううん、今度、鵠沼の別荘にいらっしゃるんだって。"
"もう、決まったのか。"
"お決めになったらしいの。"
"そうかい、そりゃ馬鹿にうまく行ったもんだね。"
"でも、うちにだけ来ていただくの、嫌ね。"
"そら、うちに来ていただいても、同じさ。うまくいかないさ。で、どうしたんだ。"
"いずれお目にかかりますって、来ちゃったんだけど。なんだか出て来んのとても変だった。嫌な気持ち。"
"おい、何食べる。"
"そうね。"
女中が、部屋のふすまを開ける。
鵠沼。
"ねえ、奥様、私のお屋敷勤めで、一番最初に伸ばしたのが、節子様の産着でございましたが、その節子様が、おゆきが、6寸7分を召されるようになって。"
"そうね。"
"お綺麗になって。"
"節子様がお生まれになったのは、旦那様がお帰りあそばれまして、お嬢様ですと申し上げましたら、なんだまた女か、女じゃしようがねえとおっしゃって、でも、私が、うん、女がいませんでしたら、子どもを産めませんと申し上げたら、うん、なる程そうかと、おっしゃって、奥にお入りになりました。
"そうだったかね。""もう随分、古い話で。"
"早いもんですねえ。旦那様がお亡くなりになって、もう一年ですもの。"
"そうねえ。"
"私は、なんだか、3、4年経った気がしますよ。色んなことがあって、何だか落ち着きませんよ。"
"変わるもんでございます、一年で。"
"ほんとにね。"
"ご苦労さんでございます。"
"ご苦労さん。"
洗濯物を干し終えた節子に挨拶する。
"ねえ、お母様、何かありません?お腹空いちゃったわ。"
"まあ、あんたは。"
"だって、もうおやつよ、何かない?今日。" 
"さあ。"
"贅沢言わない。おいしいもの、沢山。"
"ここは、東京と違いますよ。"
"ねえ、見てよ。"
"こないだ時子さんからいただいた、懐中汁粉があるじゃないの。"
"ああ、そうね。それにして。"
"はい。"
"急いでよ。"
"ねえ、明日の晩から、時子さん、いらっしゃるかも知れないわ。"
"そうだね。もう土曜日かね。"
"お母さん、当てっこしましょうか、今度、時子さん、いらっしゃる時、着物かお洋服か。"
"さあねえ。"
"どっち?"
"お洋服かしら。"
"きっと着物よ。だって、こないだお上げしたの、こんどまでに仕上がるって言ってましたから。ちょうだい、何か。"
"それは、いらしてみなきゃ。"
"ねえ、お母様、昌兄さん、いらっしゃならないのかしら。一周忌。"
"そうだね。"
"いらっしゃるなら、もういらっしゃってるはずね。"
"昌兄さんも、お忙しいんでしょう。それに、遠い所だし、まあ、達者でいてくれれば、それでいいの。"
"でも、いらっしゃれば、いいのに。"
"そうもいかないんでしょう。"
"そうかしら。"
▶︎昌二郎の説教
新太郎の一周忌。昌二郎が、遅れてやって来る。
"今日は、良かった。無事に済んで。お天気も良かったし。"
"そうですね。夕べ、パラパラっと来たから、今日どうなるかと思ったんですけどね。"
"ねえ、降られたら大変だったわね。"
"昌二郎は、間に合わないかと思ったけど。"
"相変わらずね、あんた。いい加減、心配しちゃったわ。"
"いや、海が荒れたもんで、こんなはずじゃなかったんですよ。"
"でも、うまく済んで、仏さんもお喜びよ。"
"今日の今日は、丁寧でしたね。"
"ああ、参ったね。簡単にごく有難いとこだけって、言っといたんだが、どうも痺れが切れちゃって。"
"良ちゃんたら、大変。夫が休んでるのに、立てないの。あたしにつかまってやっと焼香したのよ。"
"昌ちゃん、どう、あっち?"
"どうって?"
"やってる。相変わらず鯛釣り。"
"ふん。それどころじゃ、ありませんよ。なかなか、忙しい。"
"そう。"
"一重さん、話があるんだ。しばらくあっち行っててくれないか。用があったら、手を叩く。"
女中たちが、下がる。
"ねえ、兄さん。"
"うん。"
"お母さんや節子が、何で鵠沼に住んでるんですか?"
"別にどうしてってことは、ないけど。"
"兄さんのうちにいないんです?"
"最初は、うちにいたんだよ。"
"それで、どうしたんです。"
"それで、姉さんの方に行かれたんだ。"
"姉さんは、どうしたんです?"
"どうもしないわ。いていただいたんです。"
"それで?"
"お母様は、勝手に鵠沼の方へ、いらしたのよ。"
"そんな馬鹿なことないでしょ。"
"昌さん、私がお願いしたんですよ。"
"お母さんは、黙ってらっしゃい。兎に角、お母さんが行きたいって言ったにせよ、黙って行かしとく方、ないじゃないですか。あの家を売るとき、地所だけの値段だと、兄さん言ったの、覚えてますよ。あの別荘が住むに耐えないなんて、兄さん知ってるじゃないですか。実は、帰って見て、驚いたんだが、お母さんや節子が、あんなとこにやられてるなんて、これだけ立派な兄妹が揃っているんだから、母さんは、何不自由なく暮らしていると思ったんだ。"
"それは、昌さん、色んな事情があったのよ。"
"どんな事情なんです。"
"そんなこと言ったって、あんた、こっちにいないでしょう。"
"それは、こっちに僕が、いる、いないの問題じゃない。あんた方の誠意の問題だ。まさか、お父さんが亡くなって、急に、お母さんが邪魔になった訳じゃあるまいし。どうです?姉さん。"
"僕は、何も知らないで、向こうに行って、安心してたけど、こりゃ確かに、皆んなをかいかぶり過ぎたことになる。そうと知ったら、お母さんや節子の面倒は、僕が見たんだ。たやすいことだ。僕にだって、できない相談じゃないんだ。例えば、食うや食わずの人間だって、親と子の仲は、もっと温かいはずなんだ。どれもこれも一つの腹から生まれながら、そのお母さんの面倒を見られないなんて。それも長い間じゃないんだ、たった1年経つか経たないかだ。そんなことで、何がお父さんの一周忌だ。何で、こんなことで、仏さんがお喜びになるもんか。あんまり、虫が良過ぎはしませんか。"
"綾子はどうした。どうして、来てもらわなかったんだ、言ってみろ。"
"そりゃ、うちにいらっしゃる前に、お母様の方で、鵠沼にいらっしゃるってお決めになったのよ。"
"なぜ、来ていただかなかったんだ。なぜ、お願いして、来ていただかなかったんだ。お願いしてでも、そうするのが、本当じゃないか。"
"それは、そうも思ったんですがね。"
"そしたら、なぜしない。そう思っただけでは、どうにもならないんだ。"
"でも。"
"何がでもだ。はっきり言いたまえ。君は、いつも口先だけだ。口先なんかどうだっていいんだ。誠意のあるなしだ。"
"そんな失礼な。"
"何が失礼だ。君は、帰ってよろしい。"
"しかし。"
"しかし、帰ってよろしい。綾子、ちょっと、ここ来い。" 
"座れ。お前も一緒に、帰れ。"
二人は、出て行く。
"いい夫婦だ。立派なもんだ。今晩、よく寝て、考えろ。"
"皆さんも帰りますか。"
"ええ。帰りますよ。"
千鶴が立つ。 
"お帰りなさい。"
"お先。"  
"送りませんよ。良吉によろしく。"
"どうです。兄さん。僕の言ってることに、間違いがありますか?間違いなけりゃ、兄さんにも帰ってもらいましょう。どうぞ、遠慮なく。"
進一郎夫婦が帰る。
"さよなら。ここの勘定は、お宅に取りに行きます。"
一同、うつむき、節子は、泣く。 
"泣くことありませんよ。あれくらい言ってやらなきゃ、効きませんよ。一年向こうに行ってると、よく分かるんですが、ああいうやつには、一つ食らわしておく方が、手っ取り早いんですよ。どうもお父さんの一周忌が、とんだことになってしまって。お父さんも、さぞ驚いておいででしょうけど。これで、皆んなが考え直して、仲良くなれば、いいじゃありませんか。そうなりゃ、お父さんだって、僕の乱暴を笑って許してくれると思うんです。"
"泣くことないですよ。これで、よくなる。お母さん、節子、母さん。"
昌二郎が、膳を母親の前に据える。
"さあ、母さん、食べましょう。節子。いや、あれでよくなりますよ。これで、きっと良くなりますよ。節子、泣くな。さあ、沢山、食べてください。お代わりは、沢山あるんだから。さあ、一ついただけな。革帯緩めて。"
"これは、うまい。母さん、これお上がりなさい。これとてもうまいですよ。向こうには、こんなうまいもの、ないからなあ。"
"節子、どうだ。お前も、どんどん食べて、太るんだなあ。うん、食べろ、食べろ。"
鵠沼の家。
"そりゃ僕がこちらに来て、一緒に住めりゃいいんですが、僕の向こうの仕事も段々、面白くなってきて、ここんとこ、一番大事な時なんで、ちょっと手放して、帰って来る訳にいかないんで。"
"ね、お母さんどうでしょう。思い切って、僕と向こうに行ってくれると、一番、有難いんですが。どうでしょう?"
"さあ。でも、私のような年寄りが。"
"そんなことなんか、ありませんよ。それは、100になって、富士山に登る人がいるし、腰が曲がって、善光寺参りする人もあるんですよ。しりゃあしませんよ。お母さんが、天津行っても、ちっともおかしくありませんよ。"
"そうだろうか?"
"そうですよ。節子だって、向こうに行けば、どこに勤めようと、文句を言う奴、いやしないよ。よく考えて、いいと思ったらどしどしやることだ。人が何と思おうと、構いやしないよ。体面だとか、体裁とか、世間体とか、そんなことじゃ何もできやしないよ。"
"ね、向こうに行ってご覧なさい。のんびりしてて、いいですよ。頭が使えなくなって、急に、天井が高くなった気がする。平気だよ。"
"ねえ、母さん。それに、兄さんだって、姉さんだって、すっかり分かって、謝りに来たぐらいだから、東京がいいんだったら、誰の所でも構いやしないけど、ねえ、僕のとこにも、来てくださいよ。そうしましょう。ね。そうじゃありませんか。"
"節子、お前、どうだ。"
"私は、平気よ。"
"そうだろ。" 
"そうしましょうよ。いいですよ。"
"あんたさえよければ。"
"決まりましたね。ひろ、お前はどうする。どうだ。"
"あの、およろしかったら、私もお供させていただきます。"
"皆んな、お前やお母さんのようなお年寄りが、不自由しないで、どんどん向こうに行ってくれれば、いいんだ。"
"決まりましたね。いいですね。"
"この九官鳥も、連れて行きましょう。こいつは、これ以上、黒くなる心配がありませんよ。"

"ねえ、お兄さま、ちょっとお話があるの。"
"何だよ。"
"ねえ、お兄さま、お嫁をもらいにならない?どう。ねえ、とてもいい方があるのだけれど。いかが。それとも、お兄さま、ほかに、誰かお好きな人があるの?いらっしゃる?"
"面目ないが、おらんよ。"
"じゃあ、聞いてちょうだい。とてもいい方よ。" 
"どこの人?"
"私の友だち。"
"いい女か?"
"とても綺麗な方。頭が良くて、素直で、優しくて。とてもいい方よ。"
"それは、大したもんだな。お前の友だちに、そんな人いたかい?誰だい。"
"時子さんよ。"
"ああ。あれか、あのおかめか。"
"まあ。"
"ねえ、どう。"
"あれじゃ、俺が可哀想だろ。"
"嘘おっしゃい、お兄さんには、過ぎるものよ。"
"俺は、面には自信ないよ。"
"時子さんなら、お母さんもお好きだし、お兄さんには、一番いいと思うんだけど。"
"お母さんも、お好きなのか?"
"ダメよ、お母さんのせいにしては。お兄さんよ。"
"ねえ、どう?うん。"
"そうでもない。"
"お嫌い?"
"うん、そうでもない。"
"じゃあ、どっち?"
"うん。お前に任せるよ。いいにしてくれ。''
"まあ、まさかそう怖い女があるまい。"
"まあ。じゃあ、いいわね。決めたわよ。決まりましたのよ。"
"おい、ちょっと待て。今度は、お前に話がある。まあ、座れ。"
"俺のことは、お前に任せたんだから、お前の方こそ、俺に任せなよ。人間、贅沢言っちゃ、きりがない。俺は、贅沢言わなかったんだから、お前も言うまいな。"
"えっ。"
"まあ、少し色は黒いが、がっちりしてて、親切で、見たとこ、あまり綺麗じゃないけど、俺のようなの、どうだ。嫌か?"
節子は、首を振る。
"そうか。そんなの向こうに行けば、一杯いるんだ。その中で、一番いいの、めっけてやる。分かったな。心配するな。安心しろ。"
節子は、昌二郎の帽子を拾い、壁に掛ける。
"おい、急に、お世辞使うな。"
"あら、時子さんよ、お母さん。いらっしゃい。"
"こんにちわ。"
"ねえ、お兄さん、いらっしゃったわ。"
"誰が?"
"時子さん。お話してくださる。後、会ってくださる。いいこと。"
"嫌だね。"
"どうして?"
"僕は、恥ずかしい。"
"嘘おっしゃい。"
"ほんとだよ。"
"会ってくださる。いいこと。"
"嫌だね、勘弁してくれよ。"
"いけません。私にお任せになったんですよ。そしたら、私の言うこと、聞くもんよ。よくて。"
"嫌、やっぱり恥ずかしいよ。"
"まあ、そんなお兄さんらしくない。いつもの元気で、お会いになれば、いいのよ。何でもないじゃないの。"
"いや、そうもいかんよ。それは、違うよ。人間、誰でも一つくらい、苦手があるもんだ。ジークフリートだって、背中に一つ持ってたんだ。俺だってあるさ。"
"ダメダメ。そんなこと。"
"おい、頼む。勘弁してくれよ。"
"いけません。いらっしゃならないと、こちらにお連れするわよ。"
"おい。"
"いつもいただいてばかり、おりまして。"
"いえ、詰まんないものだから。"
"こんちわ、よくいらしたわね。何時の汽車?"
"新橋1時7分。"
"混まなかった?"
"ううん。"
"こんな結構な物、いただいたんですよ。"
"あ、そう。どうもありがとう。済みません。''
"こちら、お兄さんへですって。"
"まあ、ありがとう。何?"
"お酒の肴。カラスミとこのわた。"
"まあ、素敵。きっと喜ぶわ。ちょっと上げて来よう。"  
兄はいない。
"ねえ、きよ。お兄さまは?"
"ただ今、裏から急いで、お出でになりました。"
"まあ。"
浜辺で遊ぶ少年。
【感想】
一族は、一つの系譜に連なる人々の集まりがゆえ、年齢も職業も多様で、親族間の関係も複雑である。戸田家は、資産家であるが、現当主が急死したのをきっかけに、斜陽する。
一族は、何かの折に集うが、作中出て来る母親の還暦祝いと当主の一周忌は、好対照である。後者において、次男の苛立ちが爆発し、不義理の兄妹たちを口汚く罵り、次々とその場から去らせる。佐分利信が、一周忌が終わった後の振る舞いの席で、狼藉を働き、兄妹に反省を促す異様な長尺のシーンが、本作のクライマックスである。

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