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一人勝手に回顧シリーズ#マーティン・スコセッシ編(18)#私のイタリア映画旅行/映画史

【内容】
" "は、スコセッシの語り。
『』は、引用映画のセリフ。
浮き輪につかまり、河口を流される男。

モノクロ画面。スコセッシが、語る。
"1940年台後半に、父が、これと同じTVを買った。家族と囲んだ小さな画面で、私は、イタリア映画と出会った。映画の仕事を始めた頃は、私の生きる場所は、ハリウッドだと考えていた。しかし、私は、イタリア映画から、大きな影響を受けている。自分が、ハリウッド監督だと思った事はないが、イタリア人でもない。私の居場所は、2つの世界の中間にある。近頃のアメリカ映画ばかりもてはやされる風潮には、大変な危機感を抱いている。これから紹介する映画に出会ったから、映画監督としての今の私があると思う。"
"私の映画の思い出には、常に家族の姿がある。映画館には、父に連れられて行った事を覚えている。私が、今日、自己表現の手段に映画を選ぶのは、父と見た映画が、原点だろう。"
幼いスコセッシ。家族の写真。
"父は、NYで、アイロン職人をしていた。映画が、私と父の架け橋だった。"
"家のTVで、映画を見る時は、祖父母や両親のほか、時には、兄も一緒だった。当時のTVは、白黒で、ケーブルTVや衛星放送もなく、チャンネル数は、わずかだった。番組は、常に不足していた。"

『フランチェスコ。フランチェスコ。』
慌てて、女が部屋に入る。
『ファシストよ。囲まれている。』
"金曜の夜は、イタリア系の住民向けに、イタリア映画が、字幕付きで放映された。"
通りを逃げ惑う人々。行進する兵士。
"TVのない友人や親類も、我が家に観に来ていた。"
『神様』
兵士に、家から連れ出される住民。
"戦後のイタリア映画は、力強いイメージを発していた。"
"無防備都市(1945)ロベルト・ロッセリーニ"
住民の女は、掛けられた兵士の手を叩き、払う。
『フランチェスコ。』
フランチェスコが、兵士に連行される。
『ビーナ。ビーナ。ビーナ。』
『フランチェスコ。』
ビーナは、兵士と揉み合う。
『放せ。この野郎。』
ビーナは、フランチェスコを追う。
『フランチェスコ。フランチェスコ。』
ビーナは、兵士らを振り切り、フランチェスコを乗せたトラックを追って、通りを走る。
『ビーナ。来るな。』
ビーナは、撃たれて、倒れる。
『ママ。ママ。』
母親から、引き剥がされる子供。
『嫌だ。ママ。』
"激しく心を揺さぶられる場面では、祖父母が泣いていた。私の祖父母は、1910年にシチリア島から、渡米して来た。2人にとって、映画の中の出来事は。"
祖父母の肖像。
"他人事では、なかった。"
聖職者を伴い、男が、原っぱを歩む。タバコをふかす将校。
"私は、登場人物の中に、祖父母の顔を見出し、2人の祖国に思いをはせた。"
兵士の一団。男は、背もたれに向かい、椅子に括り付けられる。
『神の下に、アーメン。』
"私にとって、自分のルーツを、初めて意識した瞬間だった。"
子供たちが、柵の外に集まる。
"人々は、苦しんでいた。国を離れ、難を逃れた祖父母は、安堵と罪悪感を抱いていた。"
兵士たちが、狙いをつけ、一斉に撃つ。
"私は、そう感じた。"
弾は、外れる。
『撃て。Fire.』
『彼らを許したまえ。』
将校が、自ら、拳銃で撃つ。項垂れる子供たち。やがて、去って行く。
"私の世界は、自宅と教会、学校、近所の菓子屋が、すべてだった。それが、一気に広がった。"
"祖父母は、シチリア出身の移民だ。米国籍は、なかった。英語は、片言で、イタリア語を使っていた。父方は、パレルモ郊外ポリッツィの出身だ。母方も、パレルモ郊外チミーナの出だ。この2つの町の出身者は、エリザベス通りを挟んで、暮らしていた。NYに伝わる祖国の名残の習慣だ。祖父母は、アメリカ社会に溶け込まず、子供である私の父たちが、毎朝、外へ、働きに出掛けて、毎晩、エリザベス通りのアパートに戻って来た。"
スコセッシは、通りを見下ろすビルの上に立つ。
"このビルで、私は、育った。それぞれのビルが、村のようなもので、違うビルの者同士は、結婚もしなかった。"
大理石に刻まれたイタリア移民たちの名前。
"私は、長年、祖先の歴史や出身地の事を、調べて来た。父の故郷ポリッツィは、ベネディクト会修道士の本拠で、フリードリヒ2世に、ジェネローザと呼ばれた町だ。母の故郷チミーナは、人の数だけ教会が、あったそうだ。シチリアは、古代からの歴史を通じ、実に多くの民族の支配を受けて来た。"
シチリアの遺構。
"最後は、ナチとアメリカだ。そして、今がある。祖父母は、こうした歴史の中で、祖国を離れ、戻らなかった。"
人々に担がれ、運ばれるキリスト像。
"これは、チミーナの守護聖人チーロのお祭りだ。ただし、NYのエリザベス通りだ。このフィルムは、最近、いとこから、譲り受けた。私が、生まれる前、おじが撮ったものだ。この映像こそ、懐かしい私の世界だ。"
通りを行進する人々。
"昔の記憶が、甦る。父方の祖父母のアパートだ。いつも、部屋に、人が溢れていた。恐らく、結婚か先例か、何かのお祝いだろう。父方の祖母だ。祖父。母方の祖母。楽器を弾いているのが、父だ。私の知っている父より、若くて、スリムで、髪も多い。"
歩道両脇の露天商。
"父の両親が、当時、経営していた店だ。父方の祖父だ。店の話は、聞いていたが、見るのは初めてだ。母方の祖母が、袋を抱えて、歩いている。母が、生まれたビルだ。今では、貴重な映像だ。幼い私の世界は、祖父母たち、移民の手で作られたものだ。故郷の話を、直接、聞いた事はない。祖父母の姿と映画から、学んだだけだ。古代シチリアとは、映画を通して出会った。
"1860年(1934)アレッサンドロ・ブラゼッティ"
夜のシチリアの荒地。横たわる人々。
"シチリアには、祖父母のように、貧困に苦しんだ人が多い。移民が多いのは、そのためだ。"
地面に寝そべり、談笑する黒装束の女たち。
"古くから伝わる生き残りの教えがある。冷酷な教えだ。"
身を寄せ合う男女。
"『他人を信じる時は、2度考えろ。』。シチリアは、古代から、多くの国の支配を受けて来た。"
騎馬の武者。槍で、横たわる人を突く。
"こんな状況でも、頼れるのは、政府でも、警察でも、教会でもない。血のつながった家族だけだ。私は、家族と共に、イタリア映画を観て、育った。シチリアの映画は、特に好きだった。当時のイタリア映画は、プリントが悪かった。"
燃え上がる炎。流れる渓流。
"TV放映は、英語吹替版で、CMが入り、カットもされていた。しかし、私には、気にならなかった。これらの映画は、私を魅了し続けた。"
浮き輪につかまる男。
"初めて見たイタリア映画は、『戦火のかなた』だ。6歳の頃、TVで見た。"
浮き輪の男を見る川岸の土手を歩く人々。手漕ぎの船が繰り出す。
"戦火のかなた(1946)ロベルト・ロッセリーニ"
"6話から成るオムニバス形式で、連合軍のイタリア北上に沿って、話が進む。"
船は、川岸近くで、男を掬い上げ、船で運ぶ。
"中でも印象に残った物語は、『犠牲』がテーマだ。"
男は、息がなく、埋められる。
"幼い私には、分からなかったが、『自由』を求めての犠牲だった。"
墓標として、"パルチザン"の札が、掲げられる。
ナポリの街の風景。馬跳びをして、遊ぶ子供。
"『ナポリ編』には、ショックを受けた。"
しけもくを拾う子供。
"靴を盗み、闇市で売る少年たちの姿に、自分を重ね合わせた。"
『金、欲しいか?』
『欲しい。』
『見張りだ。サツが来たら、呼べ。カモがいた。』
"アメリカ兵をカモにして、気軽に盗みをしている。"
『見ろよ。この歯は、高いぜ。』
『上着は、空っぽだよ。』
黒人兵のボディチェックをしている。
『靴がある。』
"戦中戦後の混乱を生き抜く知恵を。"
『警察だよ。警察だよ。』
"少年たちは、身に付けている。騒ぎを起こし、ライバルを追い払う。"
少年が、黒人兵の手を引っ張り、雑踏を行く。

"当時の私の話をしよう。ハリウッドの封切り作は、ほぼ全部、観に行った。"
騎馬で、疾走するカウボーイ。
"特に好きだったのは、ロイ・ロジャースの西部劇だ。映像が、シンプルだった。ストーリーもだ。だが、これは、空想の物語だ。そこが、好きだった。今、思うと、西部劇と『戦火のかなた』を、同時に観ていたとは、驚きだ。『戦火のかなた』は、夢物語ではない。"
少年は、黒人兵を建物に、連れ込む。
『ジョー。行けよ。』
鎧武者の人形劇。
"少年が、酔った米兵を、人形劇に連れて行く。隠れるためだ。米兵は、やがて、白人の騎士が、黒人の騎士を、叩きのめす物語に、腹を立てる。黒人への偏見を感じたからだ。"
黒人兵は、舞台に上がり、暴れる。
『何するんだ。出て行ってくれ。』
"私にとって、人種問題に触れた映画や風景が本物に見える映画は、これが、初めてだった。"
『こっち、こっち。』
"これが、ネオレアリズモとは、当時は、知る由もなかった。"
少年は、瓦礫の街の中、黒人兵を連れ歩く。 
『帰りたくない。』
黒人兵が言う。
『俺の家は、掘っ建て小屋さ。ドアは、ブリキの缶で作った。家には、帰りたくない。嫌だよ。』
『ジョー。眠ったら、靴を貰うよ。』
"次は、『ナポリ編』のクライマックスだ。"
ジープで、街を走る黒人兵。
"泥酔した数日後、道で少年を見掛ける。"
走るトラックの荷台から、搬送物を落とそうとしている少年。
『Hey you. 』
『俺の靴を盗んだな。』
『寝たら、盗るって言ったろ。』
『家はどこだ?家は。』
『ないもん。』
『いいから、来るんだ。』
黒人兵は、少年をジープに乗せる。
"ナポリ郊外に向かう。"
『俺の靴を持って来い。』
"少年は、米兵に、古い靴を持って来る。"
『靴が違う。親に会わせろ。何足、盗んだ?』
"少年は、米兵を洞窟へ連れて行く。戦争で、家を失った人の住処だ。米兵は、初めて見る光景に、息を呑む。私もだ。"
『親は、どこだ?』
『何?』
米兵は、洞窟の人々を見る。
『両親は?』
『いないよ。死んだんだ。爆弾、どかんどかん。分かる?爆弾でさ。』
米兵は、駆け出し、去る。
"画像は劣悪だったが、心情は、十分に感じ取れた。これが、TV放送時の映像だ。暗くて、ほとんど見えない。それでも、物語の核心は、伝わった。"
水中で爆発。水柱が立つ。
"アメリカ公開版では、地図で、物語の舞台が紹介された。第1話『シチリア編』は、私の家族には、一番、重要だった。"
シチリアの村に、侵攻する兵士たち。
"皆、食い入るように、画面を見ていた。"
『行くぞ。』
公会堂から、女が出て来る。
『あんたたち、誰だい?ここで、何を?』
"この女性の声を聞いて、祖父母たちは、感激していた。お国言葉のせいだ。"
ぞろぞろ人が、出て来る。
『アメリカ人か?』
"米兵が到着したが、敵はいない。いるのは村人だけだ。"
『息子の事、ご存知ないですか?』
公会堂の中に、住民が集まっている。
"米兵が話すイタリア語は、シチリア系2世のおじの訛りと似ていた。"
『大丈夫。我々は、味方です。何か、変わった事は?』
"おじの方が、上手だ。"
『イタリア語ですね。』
『父が、シチリアのジェラで。』
『わしも、ジェラの出じゃ。』
老人が、会話に加わる。
『苗字は?』
『マスカリ。』
『変だな。』
『その後、父は、渡米しました。』
『ジェラに、そんな奴はいない。騙されないぞ。』
リーダー風の男が言う。
『出鱈目だ。』
『地雷は、どこだ?』
"米兵は、地雷原を抜ける必要があった。" 
『道が、分かるって?』
"案内できるのは、カルメラという娘だけだ。"
カルメラが、米兵に訴える。
『捜しに、行きたいんです。皆が、出してくれません。連れて行ってください。』
『行っては、いけないわ。』
『行かないで。』 
"一行は、無事、地雷原を抜ける。"
『やったぞ。』
"カルメラは、米兵と見張りに残る。"
『怖いのか。』
"米兵のジョーは、イタリア語を話せない。"
『ファシストか?そうだろ。』
"娘は、英語を話せない。"
『明るくしないで。』
『君は、ファシストじゃない。』
"娘は、米兵に、ライターの火を、手で隠せと訴える。"
『すぐ、銃を向ける。皆、同じね。』
『2時間は、あるんだぞ。喧嘩は、よそう。笑ってくれ。』
『パイザン、スパゲッテイ、バンビーニ、マンジャーレ、ムッソリーニ。"
『君は、英語を話さないの?やってみよう。僕は、ジョーだ。』
『ジョー。』
『なかなかいいぞ。OK. Now I''ll try this. ジョー=男、カルメラ=女。"
『おんな。』
『よし、上出来だ。僕たち、友達。』
『Friend.』
『いい娘だ。』
"2人は、打ち解ける。"
『母は、庭で、トマトを育てている。妹と僕は、ブランコで遊んだ。Hey look. 』
"迂闊にも。"
『実物は、もっと美人だ。』
"油断する。"
『僕に似ている。』
『妹さん。』
弾が、何か当たり、金属音がする。
腹這い、銃を構えるドイツ兵たち。
"カルメラは、戸を閉めて、撃たれたジョーを隠す。"
ドイツ兵が、カルメラに誰何する。
『逃げて来たのか?』
『怖くて。』
"様子を見に来たドイツ兵の気を引こうとする。"
『さては、逢引きだろう。』
『やめて。』
『来ないなんて、馬鹿だよな。図星だろう?』
"ジョーの具合を見に行くと、彼は、死んでいた。"
『ジョー。』
カルメラは、ジョーの銃を取り、梯子を上る。地上に出たカルメラは、ドイツ兵を、銃で撃つ。
『軍曹。銃声が。ジョーかも。』
"ジョーを見つけた米兵は、カルメラの仕業だと考える。"
『あのイタリア女め。』
"カルメラは、ドイツ兵に殺され、崖に投げ捨てられていた。米兵は、知らない。彼女に、命を救われた事を。だが、観客は知っている。"

"ファビオラ(1947)アレッサンドロ・ブラゼッティ"
"同じ頃、別のイタリア映画も見た。それが、『ファビオラ』だ。初めて見た史劇だ。"
古代ローマの閲兵式。
"物語は、非常に複雑だった。再編集と吹替えが、それを助長していた。"
コロセアムに、放たれるライオンたち。
"主題は、ローマ帝国とキリスト教の対立だ。"
武装した武者の対決。
"だが、私が、目を見張ったのは、アメリカ映画とは違うスタイルだった。手の込んだ作りの豪華なセットには、アメリカ映画にない厚みがあった。"
コロセアムを闊歩する一団の武人たち。輿で運ばれる貴人。
"それも、当然だ。イタリアとアメリカでは、文化と歴史の豊かさが、違う。アメリカが、牧場で拳銃の決闘なら、イタリアは、競技場で剣の決闘だ。アメリカの職人の想像力を超えている。イタリア人には、自然な発想だ。"
"同じ頃、TVで、別の映画を見た。中世を舞台にした『鉄の王冠』だ。"
大きな建物の扉が、幾重にも閉まる。
"当時は、気付かなかったが、どちらも、アレッサンドロ・ブラゼッティ監督作だ。"
"鉄の王冠(1941)アレッサンドロ・ブラゼッティ"
"『ファビオラ』より、更に筋が複雑だが、あまりに夢中で、気にならなかった。"
王宮の中。
"伝説から抜け出した夢の世界だった。"
ベッドに横たわる婦人。
"セットや衣装の美しさが、子供の夢をかき立てた。
妃が、起き上がる。
"『戦火のかなた』は、現実の世界だ。"
騎馬の一団が、広場を輪になって巡る。
"『鉄の王冠』は、おとぎの世界だ。だが、史劇よりも、生き生きとしていた。子供の眼には、2作とも、本物のように映った。ただ、『鉄の王冠』には、グリム童話と同じ怖さも感じられた。"
貴人とその子供たち。鳥の巣を見つける。
『お城に持って帰りたい。』
『もっと鳴かせようか?』
『えっ?』
『針を使うんだ。目を突くのさ。』
『それで、鳴くの?』
『やめて。』
『ずっと大きい声で、鳴くぞ。』
『目を、針で突くなんて、酷いよ。』
父親は、怒って、鳥の巣を放り出す。
『そんな悪者のパパなんか、大嫌いだよ。』
子供は、貴人の腰に取り付き、父親は、鞭を振り上げるが、夫人が制する。
『何だ。母親の積もりか。』
少女が、ベッドで目覚める。貴人が、やって来る。剣を抜く。
"だが、幼い私の想像力をかき立てたのは、古代ローマだった。それが、高じて教会の歴史に興味を持ち、ローマ帝国を描いたコミックを集め始めた。ラテン語の本からも、絵を切り抜いた、挙句には、自分で、絵コンテを描き始めた。絵コンテとは、知らずに、頭に描いた史劇映画を、絵にしていた。"

大柄な王。立ち上がり、手を前に出し、大きく口を開ける。
"後になって見たイタリア無声映画は、衝撃的だった。"
"カビリア(1914)ジョヴァンニ・パストローネ"
宮殿に、群衆が集まる。
"『カビリア』は、カルタゴを舞台にした歴史映画だ。"
火山の噴火。壊れる宮殿。
"D.W.グリフィスの『イントレランス』に、影響を与えた。"
横たわる王女の胸に、尖った爪の手が迫る。
"私は、この映画の表現力に驚いた。"
宮殿を後にする王たちの列。
"『戦火のかなた』と同じくらい、衝撃的だった。"
雪原を歩く。
"違いは、物語の舞台が、古代の世界だった点だ。歴史ある国にしか、作れない迫真の映像だ。"
船を浮かべる。海路で避難する。
"まるで、古代ローマの報道映像を見ているようだった。幼い私は、イタリア映画の両極に出会い、心に焼き付けた。エピックとネオレアリズモだ。"
"映画は、時代の産物だ。だが、ネオレアリズモには、それ以上の意義があった。1945年、終戦時、イタリアの映画産業は、壊滅していた。映像機材は、ドイツ軍に没収され、倉庫にされたスタジオは、爆撃を受けた。ドイツ撤退後は、難民キャンプとなった。"
トラックの幌から、降りる人々。
"イタリアの映画人は、丸裸も同然だった。そして、国の再生が、必要だった。なぜ、壊滅状態の映画界が、国家の再生に寄与できたのか?"
小舟が、溜まる。
"揺れる大地(1947)ルキノ・ヴィスコンティ"
"なぜ、ファシズムと戦争に打ちのめされた人々を、代弁できたのか。"
湾岸道路に打ち寄せる波。
『トレッツアでは、教会の鐘が鳴ると、海の男の家族たちは、不安に胸が締め付けられる。』
海岸の岩場に、3人の姿。
"映画には、間違いなく世界を変える力がある。"
海を遠望する妻たち。
"そして、人々に力を与える。ネオレアリズモが、いい例だ。ネオレアリズモは、単なるジャンルや様式ではない。荒廃したイタリアから生まれた英雄的行為。イタリアの現状を、世界に伝える運動だ。ドキュメンタリーとフィクションの壁を除き、映画制作の技法を変化させた。"
漁師の家。無事の帰還に、家族は、安堵する。
『息子よ』
『待っていたよ。』
『ちゃんと帰って来るさ。"
"このような映画の数々が、イタリア人の人間性を世界に訴える祈りとなった。真実を書くより、なかったのだ。"
通りを歩く親子。
"自転車泥棒(1947)ヴィットリオ・デ・シーカ"
"ネオリアリズは、苦肉の産物でもあった。セットや資金がないため、ロケを行い、素人を起用した。"
父の後を追い、通りを歩く子供。
"登場人物や場所は、風景と一体化していた。実際は、セットもプロの俳優も使ったが、重要なのは、リアリティだった。"
ビルに立て掛けられた自転車を見やる父。
"例えば、この男は、長いこと失業していた。ようやく見つけた仕事に必要な道具が、自転車だ。"
頭を抱え、うずくまる子供。
"それを初日に、盗まれる。男は、翌日、自転車を探して、息子とローマ中を歩き回る。"
『これで、電車に乗って、先に行け。早く行くんだ。』
"思い余った男は、暴挙に出る。"
自転車に飛び乗り、逃げる。
『泥棒だ。誰か、そいつを捕まえてくれ。』
父は、多数の追っ手に追われる。
"ネオレアリズモが生まれたのは、必然だ。"
捕まえられる父。それを見ている息子。
"そうした映画を、モラルと魂が、求めていたのだ。"
取り囲まれ、小突かれる父。男たちの輪に、入って行く息子。
『パパ、パパ、パパ、パパ。』
放免され、とぼとぼ歩く親子。父は、泣く。
"事物をありのまま、描く事への欲求は、今の私たちにもある。戦後のイタリア映画にとって、ネオレアリズモは、美しく堅固な木となった種子のようなものだ。私にとって、映画史上に輝く偉業である。"
FINE
"ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンティ。脚本は、セルジュ・アミディやフェデリィコ・フェリーニ、スーゾ・チェッキ=ダミーコ、チェーザレ・ザヴァッティーニ。彼らが作った映画が、『無防備都市』、『戦火のかなた』、『自転車泥棒』、『揺れる大地』だ。これらの映画は、世界中に影響を及ぼした。フランスのヌーヴェル・ヴァーグ、ブラジルのシネマ・ノーヴァ、現在では、イランや台湾の監督たち。アメリカでは、インディ映画の監督に、その影響が見られる。ネオレアリズモの生みの親は、ロッセリーニと言える。1906年ローマ生まれ。"
幼いロッセリーニの写真。
"父親は、ローマ初の近代的映画館の経営者だ。幼い頃から、映画に親しみ、多くの作品を見た。特に、キング・ヴィダーの『群衆』と『ハレルヤ』に、大きな影響を受けた。この2本は、大変な名作で、多くの映画人に、影響を与えた。ロッセリーニは、26歳で、父の死を機に、映画関連の職を得た。映画に関わった当初から、ドキュメンタリー志向だった。"
"海中の幻想/脚本・監督ロベルト・ロッセリーニ"
"初期の作品に、動物を扱った短編ドキュメンタリーがある。"
水の中。小魚や蛸。
"カメラマンのマリオ・バーヴァは、後に、ホラーの名監督となった。正反対の2人が、一緒に働いていたとは、面白い。"

戦艦の砲撃。
"白い船(1941)ロベルト・ロッセリーニ"
"ロッセリーニの初の長編は、『白い船』だ。彼は、ファシスト政権下で、ほかに3作品ほど手掛けた。『飛行士の帰還』や『十字架の人』、『欲望』だ。これらは、スタジオ・システムで作られたメロドラマで、型にはまっていた。ロッセリーニは、解放前から、新しい映画の構想を持っていた。"
ドイツ兵に、部屋に連れ込まれる聖職者たち。
"映画を作るには、まず、資金集めが必要だ。デ・シーカは、言った。『ネオレアリズモは、意図して始めたものではない。』作りたい映画が、まずあったのだ。『映画を完成させる金がない。』1945年、ロッセリーニに、こう言われたデ・シーカは、どんな映画かと、聞いた。"
ドイツの将校。
炎で、拷問。
"彼は、ファシストに処刑された神父の物語だと答えた。その映画のタイトルが、『無防備都市』だ。"
拷問で、意識を失った男を見る神父。
"無防備都市(1945)ロベルト・ロッセリーニ"
"英語名は、『オープン・シティ』。"
『あれを見ろ。君の教える隣人愛だよ。』
憔悴し切った拷問を受けた男。
『さぞ、満足だろう。仲間をかばって、馬鹿な奴だ。最後の1人まで、潰してやる。』
『よく頑張ったな。』
"ネオレアリズモの原点は、『無防備都市』だ。フェリーニは、ロッセリーニを『偉大なる父』と呼んだ。『無防備都市』と『戦火のかなた』は、不朽の名作だ。だが、それ以降の作品は、知名度が低い。知っている人の評価も高くない。1953年の『イタリア旅行』を例に取ろう。"
人波に押され、叫ぶバーグマン。
"イタリア旅行(1953)ロベルト・ロッセリーニ"
"私が、学生時代に初めて見た時は、即座に、感動を覚えた。"
追いかける夫。
"だが、私と同感でない人も多い。彼の作品は、確かにとっつきにくい。だが、じっくり付き合えば、味わい深く、感動的だ。"
再会し、抱き合う夫妻。
"ロッセリーニは、歳と共に、冒険的になった数少ない監督だ。50年台〜70年台の作品も、初期に負けず劣らず、情熱的だ。60歳で撮った『ルイ14世の執権』は、新しい方向性を示していた。ロッセリーニは、後年、『無防備都市』を嫌った。それも当然だ。新しい映画を作るたび、比較の対象になるからだ。新作の評価が下回れば、いまいましくもなる。それでも、『無防備都市』は傑作だ。歴史と映画の類い稀な巡り合わせだ。"
窓から、外の戦火を眺める女。地下壕に逃れる人々。
"『無防備都市』は、世界を席巻した。最初に、フランスで火が点き、アメリカ、イタリアに広がった。"
『皆、殺してやる。』
松葉杖の少年が言う。
『何を言う?』
神父らが止める。
『よこしなさい。』
"ライフ誌は、当時、『イタリアが品位を取り戻す手助けをした作品』と評した。
向かいのビルに、住民を連行するドイツ兵の姿。
ドイツ兵に、連れ出されるレジスタンス。
『ビーナ。ビーナ。』
拷問された男の顔に触れる。
"『無防備都市』は、イタリアの大使となった。登場人物は、普通の人々だ。牧師や妊婦、レジスタンスの闘志、子供。全員が、異常な状況下で、英雄となる。"
処刑された牧師を確かめるドイツ兵。項垂れる子供たち。
"これは、占領による犠牲の話で、『戦火のかなた』は、解放を巡る犠牲の物語だ。"
川を流される浮き輪のレジスタンス。
"『最終話が、最も昇華されたネオリアリズモの形だ。』そう言う人もいる。劇的な演出を廃し、出来事が、淡々とつづられる。"
土手から、川を見やる人々。
"勇気ある人々が、絶望的な状況に、陥って行く。ロッセリーニは、脚本に固執しなかった。あらゆる可能性を、取り込む姿勢を示した。"
『また1人死んだ。』
男が、川の方を指差す。
『俺が行く。』
『ドイツ兵に注意しろ。』
『構うもんか。』
『援護する。』
"パルチザンと米英の兵の一隊が、ドイツ軍に囲まれ、孤立する。"
ドイツ兵は、見張り櫓の上から、発砲。葦原から、パルチザンが撃つ。
浮き輪の死体を、助け上げ、船で運ぶ。
"彼らは、助けは来ないと知る。"
『本部は、何と?』
『全作戦を停止せよとの通達だ。パルチザンは、帰還だ。』
『川に、また1人。』
『彼らが戦うのは、自分の命のためだ。』
『後は?』
『我々は、孤立したと伝えた。』
『弾薬も食料もない丸腰だと、言ったのか?』
『全部、言った。答えは、全活動を停止だ。』
引きずり、運ばれる男の遺体。
『どういう積もりだ。"
『あの家だ。』
遠くに家が見える。
"空腹のあまり、人家を訪ねる。"
『やあ、よく来たね。』
『やあ。』
『どうだい?』
『昨日、ドイツ兵が来た。』
『放っておくさ。それより、米兵をかくまっている。』
『ああ。』
『煙を見られると、まずいんだ。』
『料理ができんな。』
『まして、外には出れん。何かあるか?』
『少しなら、あるぞ。』
『食って行け。"
『外に、1人、アメリカ人がいる。』
『呼んでやれ。』

『蚊に食われているぞ。』
幼児の顔を見て、言う。
『薬をやろう。』
"米兵が、家族に返礼をする。"
『顔にね。気をつけて。少しで、いい。』
"家族が、兵士に食事を用意する。"
川に浸けた籠から、魚をすくう。
"粥と鰻だ。カメラの前で、鰻を釣り上げて、捌く。日常の残虐だ。次に起こる事を、暗示させる。"
『アラン、アラン。大変だ。』
『あの家を銃撃すると?』
『見られたか。畜生。ドイツ兵め。』
『船には、気をつけろよ。』
『あっちだ。』
"兵をかくまったために、一家は、殺される。"
生き残り、泣き叫ぶ幼児。
湿原の銃撃戦。
"ロッセリーニが、模索していたのは、新しい物語の手法だ。芸術的な装飾を施さず、ありのままを描き出す。"
パルチザンの1人は、銃で自害する。
"私は、この明解なビジョンに、天啓を得た。"
弾の切れた銃を放り出す。
"批評家のアンドレ・バザンは、これを、『事実の演出』と評した。捕まったパルチザンが、連合軍兵士と別にされる。ドイツ兵は、パルチザンに、戦争捕虜の待遇を与えない。"
『彼らをどうする積もりだ。"
米兵が尋ねる。
『パルチザンを守る国際法は、ない。』
『イタリア軍の兵士は?』
『政府軍と認めない。』
『処置は?』
『本部の指示待ちだ。』
毛布にくるまり、床に寝そべる捕虜たち。
『こんな事、しているなんてな。』
『漏らしちまった。』
パルチザンは、船の胴体のへりに並べられ、海に突き落とされる。米兵が、船に向かって駆け出すが、銃で撃たれる。
『これが、1944年の冬の出来事だった。春先に、戦争は、終わった。』
FINE
『1947年、ベルリンで撮影されたこの映画は、現実を忠実に、映し出している。大きな町の半分が、破壊され、300万人もが、焼き出され、絶望の淵をさまよっていた。』
"1947年、ロッセリーニは、『ドイツ零年』を製作。"
"ドイツ零年(1947)ロベルト・ロッセリーニ"
"『戦争3部作』の最終作だ。戦後の廃墟に生きる少年エドムントの物語だ。"
露天で、牛を解体。人がたかる。
"エドムントには、何もない。荒廃した世界を、生き抜く事が、すべてだ。葛藤が取り巻く中、彼は、恐ろしい行為に出る。病気の父親を殺したのだ。"
廃墟の中のエドムント。父を思っての事だが、殺してしまうと、激しく絶望する。『ドイツ零年』は、先の2作より、客観的だ。悲惨な現実を描くためには、客観的である必要があったのだ。文化が、自己崩壊した戦後のドイツを見つめ、罪深い世界に生きる無垢な子供を描いた。"
エドムントは、廃墟の上の方から、飛び降りる。通行人の女が覗き込む。
"『ドイツ零年』は、深い哀れみの映画だ。エドムントの死は、孤独な犠牲だ。犠牲こそが、3部作を貫くテーマだろう。ロッセリーニは、欧州諸国に向けて、かつての敵国に、同情と寛容の念を持つよう、訴えた。当事、これほどの勇気を、誰が持っていただろうか。ロッセリーニは、続いて、毛色の違う『奇蹟』を撮った。
海岸沿いの山道を歩く男。脚本のフェリーニが、放浪者の役を演じた。"
"奇蹟(1948)ロベルト・ロッセリーニ"
"アンナ・マニャーニが秀逸だった。知的障害を持つ信仰厚い羊飼いの娘の役だ。"
『まあ、神様。どちらへ?待ってください。お話を。まあ、嬉しいわ。こんな素敵な事。私は、幸せ者ね。』
『私は、死んだのね。一緒に、天国へ連れて行ってください。』
"この時期の作品に、共通のテーマは、信仰だ。戦争が、信仰に、どう影響するか、問いたかったのだろう。"
『村では、気づかれなかった。皆には、資格がないのね。私と違って。私みたいな馬鹿は、天国へ行けないって。私に?"
女は、ワインをラッパ飲みする。
"娘は、男が、聖人だと信じ込む。"
『それで、神様。"
"男は、女の誤解につけ入る。"
『天国だわ。地上の天国。馬鹿も、神の恩寵を受けましたよ。ああ、気分が悪くなって来たわ。ああ。』
寝てしまった女の顔を、山羊が舐める。
"女は、妊娠に気づかない。"
村で、作業中に、倒れる。
『あんた、妊娠しているのよ。』
"彼女は、自分が、神の子を宿したと信じる。"
『やめてよ。』
女たちの手を払う。
『神の恩寵よ。』
"そして、追放される。村人は、まったく同情せず。』
『まあ、何様の積もりかしら?』
"女を蔑む。"
洗面器を頭に、被らされる。
『似合うわよ。』
"彼女の『奇蹟』を笑い物にする。"
村人に囃し立てられ、走って逃げる。
"しかし、奇蹟が起こる。子供の誕生だ。生命の奇蹟だ。"
『赤ちゃん、私の赤ちゃん。』
"『奇蹟』は、シンプルな中に、重要なメッセージがある。罪と言うものの本質を語っているのだ。人は、本来、罪深い存在だ。ロッセリーニは、贖罪こそ、宗教の意義だと考えた。彼女の人間性に比べれば、罪は、無に等しい。そう語りかけている。"
女は、汗をかき、陣痛の痛みに耐える。
"この作品は、当時、大きな社会問題となったなった。『奇蹟』が公開されると、NYの枢機卿やカトリックの監視団体が、神を冒瀆する映画として、上映に圧力をかけた。配給業者は、この件で、最高裁まで争い、1952年5月26日、勝訴を勝ち取った。最高裁は、映画に言論の自由を認め、神の冒瀆は、ないとした。私も、数々の検閲を受けた。この判決の意義は、大きい。1年後、『ストロンボリ』が、更に大きな物議を醸した。"
第1部終了。

"『ストロンボリ』は、劇場で見た最初のイタリア映画だ。"
"ストロンボリ(1949)ロベルト・ロッセリーニ"
"7歳だったが、スキャンダラスな感じを受けた。劇場に、それが漂っていた。両親が噂する内容を、耳にしてもいた。ロッセリーニとイングリッド・バーグマンの関係は、その当時の大スキャンダルだった。彼らは、アメリカ中から非難を浴びた。教会だけでなく、国中からだ。"
有刺鉄線越しに、バーグマンに愛をささやく男。
『君が好きだ。』
"この作品は、『奇蹟』と同様、1人の女の物語だ。ネオレアリズモともかけ離れた作品だと、酷評された。"
『今晩は。』
"主演が、大スターバーグマンだったことで、評価は、一層下がった。ネオレアリズモにも背いたとされた。真価は、認められず、『ストロンボリ』で、彼の欧米での評価は、下がった。"
『私の事、何も知らないくせに。2、3度会っただけで、結婚したいですって?』
『そうさ。』
"50年の年月が流れた今、この映画を、先入観なしに鑑賞する事ができる。バーグマン演じるリトアニア難民カーリンは、難民キャンプで足留めされる。ドイツ兵と恋に落ち、祖国に帰れなくなったのだ。アルゼンチンへのビザ申請は、却下され、行き場を失う。"
『職業は?』
『ありません。』
"彼女を救ったのは、捕虜となっていた漁師だった。"
2人は、結婚する。
"2人の住処となるのは。"
船に揺られる2人。
『火山だ。』
"ストロンボリ。シチリアの孤島だ。"
『活火山なの?』
『ああ、溶岩が、海の中へ落ちて行くだろ。』
"彼女は、ここもまた別の地獄に過ぎないと悟る。"
『人気のない島ね。』
『僕らの土地だ。』
"ロッセリーニの描くカーリンは、こうだ。"
『やめてよ。』
"戦争を生き抜き、戦争で傷つき、人間らしい感覚を失った女。"
『どうでもいいわ。葡萄もあなたの土地も。遠く離れた場所に行きたい。島を出て行った人たちみたいに。』
『いいか。俺の故郷だ。女房だろ。一緒に暮らすんだ。』
"毎朝、夫は、仲間と漁に出て行く。ある日、海岸へ行った彼女に、男が近づき、獲物を取ってみせる。"
バーグマンは、のけぞり、海に尻餅をつく。
"彼女には、何の気もないが、島の人々にとっては、考えられない行為なのだ。彼女は、それに気づかない。"
『寝取られ男。』
"幼い私には、あまり理解できなかったが、この場面は、できた。"
『寝取られ男。』
"兄が、教えてくれた。この島は、閉鎖的で、狭い世界なのだ。人々は、抜け出せない。"
男は、強ばった顔で、帰宅する。
『テーブルに食事があるわ。』
『どうしたの?』
男は、バーグマンに暴行する。
『私が、何かしたとでも?』
"男の面目を潰す事など、許されない世界だ。彼女は、絶望し、島を出ようと決心する。"
『とても優しいのね。』
"彼女は、神父を訪ねる。彼は、移住を手助けすると言う。彼女は、確かめようとする。"
『繊細で、経験豊かなお方ですのね。』
『私は、ただの神父です。』
"この場面を見て、身振りから、タブーを犯していると感じた。"
『あなたといると、安らぐの。』
『私は、島の神父に過ぎない。』
『でも、あなたは。』
『私は、神父だ。できるのは、祈りや懺悔の手助けだ。あなたには、深く同情するよ。神が、導いてくださる。落ち着いて、瞑想しなさい。考えるんだ。』
"マグロ漁の場面は、作品の中心と言える。人々の生活の核が、理解できて来る。祈り、そして、待つ事。"
『マグロが来たようだ。』
バーグマンも船に乗っている。
"数千年前の食料集めの儀式を見ているかのようだ。まるで、先史時代のようだ。それは、次の世代へと受け継がれていく。"
労働歌を歌いながら、網を引く漁師たち。
"食は、神聖な行為であり、仲間と共に、食料を調達する。食料は、神の贈り物なのだ。この場面は、長い。ゆっくりとした音楽のようだ。"
網の中に、飛沫が立つ。マグロが、次々と揚げられる。バーグマンは、飛沫を被る。
漁師たちは、感謝の祈りを捧げる。
『漁は、気に入った?』
『気分が悪いわ。』
『どうした?』
『具合が悪いの。』
『Why?』 
『それって。Maybe?』
『ええ、3か月よ。赤ちゃんが出来たの。』
『カーリン。おお、神よ。嬉しいよ。』
海中から、白煙が上がる。
"火山が、噴火し始めると、人々は、ボートで避難する。島人にとっては、日常だ。しかし、限界に達したカーリンは、耐えられない。"
『出して。開けてよ。アントニオ。』
"島から出るには、火山を越え、反対岸のボートに乗るしかない。"
バーグマンは、鞄を持ち、山を越える。
"バーグマン主演のため、RKOが、『ストロンボリ』を製作。経営者のハワード・ヒューズは、この作品を理解していなかった。25分をカットし、最後にナレーションを入れた。観客に、カーリンは、夫の元へ戻ったと印象づけたのだ。ロッセリーニ版の結末は、明確ではない。"
火山の噴火。目を覆うバーグマン。
"ロッセリーニは、言う。『彼女に、涙が残っているか』を知る事が、重要なのだ。"
『死んでしまいたい。でも、そんな勇気もない。』
"それだけじゃない。"
バーグマンは、荒地に休む。
"試練を耐え抜いた女が、ここにいる。お腹の子供も、育っている。彼女は、新たな自分に、目覚めるのだ。夫の事は、問題ではない。この作品が描くのは、我々も、幾度か経験する旅なのだから。苦しみを受け入れ、乗り越えるのだ。"
『何て、美しいの。』
"そして、安らぎを得る。『ドイツ零年』のテーマは、信仰の喪失だ。『ストロンボリ』では、ある女の信仰の目覚め。"
"続いて、ロッセリーニが描いたのは、信仰を貫く事だ。"
"神の道化師、フランチェスコ(1950)ロベルト・ロッセリーニ"
粗末な貫頭衣をまとい、雨の中に佇むフランチェスコと弟子たち。
"『神の道化師、フランチェスコ』は、14世紀の書物を映画化した。世界的惨劇の余波の中、聖人フランチェスコの無償の愛は、現実感を持っていた。聖人の描き方に、類を見ない作品だ。親近感がある。"
牛を連れた貧しそうな男。
『誰もいねえのか。』
"温かいのだ。"
『兄弟よ。何か。』
『おお、美しい。』
『ご用は?』
『先生に話が。』
『私が聞こう。』
『お供をさせてほしい。』
『牛は、どうする?』
『皆さんに、やろうと思って。』
『じいちゃん。気が狂ったのか?』
家族や近所の人が、止める。
『牛は、駄目だ。やらねえぞ。』
『牛は、要らない。彼を預かるよ。』
『ああ、どうぞ。』
『ここでは、皆、働くんだ。』
『はい。』
『家族は、死んだと思いなさい。』
『死んだ。』
『慎ましく説き、働く。』
『説く。働く。何でもする。』
『家族を捨てて、辛くないか?』
『全部、捨てる。』
『何か、望みでも?』
『先生みたいになりたい。』
『私だよ。』
男は、フランチェスコに抱きつく。
『来ましたよ。』
『さあ。』
"この作品は、50年頃に、ローマ近郊の山地で撮影された。"
『皆、新しい兄弟だ。』
『名前は?』
『ジョヴァンニ。』
"演じているのは、本物の修道士たち。映画は、聖人と使徒にまつわる挿話で、構成されている。"
上半身裸の男が、コロニーに来る。
『誰かな?』
『どうした?』
『震えているぞ。』
"寓話のような物語だ。"
『何があった?』
『物乞いに、服を上げました。』
『服は、いけない。』
『困っている人を助けろと。』
『これからは、許可なく、服を恵むではないぞ。』
"フランチェスコの描かれ方は、ほかの映画の聖人とは、違う。"
『火が消えている。』
『ジネプロ。』
"ロッセリーニが、描いたのは、善良であろうともがく人間の姿だ。"
『ああ、火だ。美しい。』
炎が、ジネプロの着衣の裾に着く。
『危ない。』
"フランチェスコは、美しきもののため生きる。"
ほかの使徒が、着衣を剥ぎ取る。
『どうして?』
『火も兄弟。なぜに恐れる?火は美しく、強い。愛すべきもの。昼は太陽。夜は火。神の偉業だよ。』
『でも、火は、危険です。』
『兄弟に、悪い事をするかね?』
"信心深いフランチェスコたちの行為は、時に奇妙だ。この場面で、使徒たちは、説教に出掛けて行く。"
『ジネプロの服を変えてやりなさい。夕飯を作ってくれる。』
『そうします。』
"ジネプロは、食事係になり、がっかりしている。仲間が、布教に行くのに、居残りだからだ。彼は、素晴らしい考えを思いつく。2週間分の食料を鍋に放り込み、一度に調理してしまう。"
鍋を、斜面を転がして運ぶ。
"『これで、布教に行ける』と考えたのだ。"
『手伝ってくれ。』
"最年長で、新入りの修道士は、新人深いが、役に立たない。"
『これは、違う。木をくべて。』
"薪を火ではなく、鍋に入れるなど、救いようがない男なのだ。"
『違うよ。鍋には、野菜だよ。』
『野菜か。』
『放せよ。放せ。どうする気だよ。』
『何事だい?』
『おお、フランチェスコ。』
『何だ?』
『15日分のスープを、一遍に作ったんです。脳にいいスープです。』
フランチェスコは、頭を抱える。
『鶏を入れたから、精もつく。これで、食事を気にせず、伝道ができます。』
『フランチェスコ。』
老人の使徒が、抱きつく。
『ジネプロ、こっちへ。』
『伝道に、行ってよろしい。以後、私の許可を得る事。饒舌な者ほど、物を知らない。伝道は、言葉より、行いで示すもの。』
『フランチェスコ。』
"この聖人は、息も絶え絶えだ。風邪を引き、空腹だ。時折、彼は、ほかの人々の苦しみに、圧倒される。私が、一番美しいと思うのは、ハンセン病患者に出会う場面だ。"
杖を突き、佇む患者。フランチェスコは、目を覆う。フランチェスコは、患者の横に並ぶ。手を取るが、患者は、先々歩く。
"これほど感動的に、思いやりを描いた作品を、私は、知らない。触れ合う事への恐れをも、描いている。"
患者の正面に回り、ハグする。
顔を覆った後、歩き去る患者を見送る。
フランチェスコは、地面に崩れ落ち、泣く。
"最後に、使徒たちは、布教のため、仲間との別れを決心する。それぞれが、自分の道を歩んで行くのである。彼らの進む方向の決め方が、私は、好きだ。"
『兄弟たちよ。別れの時が、来た。皆、一人で、伝道へ行くのだ。』
『どこへ向かえば?』
『神の意のままに。』
『神の意が、分かりません。』
『それでは、皆、その場で、回ってみなさい。子供のように、目が回って、倒れるまで、止まらずに。』
使徒たちは、各自、回る。そして、倒れる。
老使徒に声を掛ける。
『まだ大丈夫か?』
『はい。』
『まだ?』
『はい。』
『どうだ?』
『目が回った。』
『さあ、おいで。』
別の使徒が、受け止める。
『目が回る。』
『君は、どこへ向いて、倒れた?』
『シエナです。』
『君は、どこだ?』
『フィレンツェ。』
『ディノは?』
『アレッツォ。』
『君は?』
『ピサです。』
『ルキノは?』
『スポレートへ。』
『君は?』
『フォリーニョ。』
『ジョヴァンニ。君は?』
『えっと、あの小鳥のいる方だな。』
使徒たちは、笑う。
『神の示す道を、きっと教えてくれるだろう。さあ、皆。各地で、平和を説きなさい。』
"戦後のヨーロッパに、フランチェスコが、生きていたら、どうなっただろう。人は、彼を聖人と思うだろうか?"
"ヨーロッパ1951年(1951)ロベルト・ロッセリーニ"
車を走らすバーグマン。
"ロッセリーニは、次の作品で、それを問い、聖人の描き方を変えた。人々が、聖人の存在を信じない世の中に、聖人が生まれる過程を描いた。『ヨーロッパ1951年』だ。バーグマン演じる英国人女性アイリーン。夫と息子とローマで、快適に暮らしている。"
『宿題は?』
『No.』
『まあ、こっちへ来て。』
"でも、何かが違う。"
『話があるんだ。』
『ちゃんと聞いてよ。』
『聞いてるでしょう。』
『そっち、見ていて。』
"2人は、空襲を生き抜いた。深い絆で、結ばれている。"
『誰か、来たみたい。ジョージ。』
"今や、日常に戻った。"
『支度するわ。』
"ミシェルは、アイリーンの気を惹こうとする。"
『いつまでも甘えて、ママをがっかりさせないで。』
ミシェルは、紐で、首を締める真似をする。
『ミシェル。ママは?』
『ここよ。』
ミシェルを寝かしつけるバーグマン。
『赤ちゃんじゃ、ないでしょ。』
『眠くないよ。ここにいて。』
『お客さんがいるから、無理よ。』
『もういいよ。ママなんて。』
『ミシェル。』
『まるで裸じゃないか。』
『私とミシェルは、5年も、空襲から、逃げ回っていたのよ。』
『奥様。坊ちゃんが、怪我を。階段から落ちて。』
"少年は、平和な世界で、生きる術を知らない。"
『可愛い坊や。パパが帰還した時、覚えている?』
『あれから、ママが遠くなった。』
バーグマンは泣く。
『今、一緒じゃない。いつも、そばにいるわ。』

『ジョージ。あなた。どうしたの。入れてちょうだい。何が起こったの?』
『あの子は、死んだんだ。』
『ミシェル。』

『何か食べたかい?』
"息子の死で、アイリーンは、心を引き裂かれる。"
『後で、食べるわ。』
"生きる意味を失うのだ。"
『寝てないし、10日もろくに食べていない。』
『なぜ、こんな運命が?』
"最初に、救いの手を差し伸べたのは、従兄のアンドレだ。"
『運命じゃないなら、私のせいよ。』
"マルクス主義者の彼の教育で、彼女は、世の不幸を知る。"
『君は、思うのか。『親が貧乏で、薬が買えない子供は、死ぬしかない。』と?残念だが、それが現実だ。助けを求められたがね。』
『教えてくれたら、私が助けたのに。何をしてあげたら?』
"ここから、変化が起こる。自分では気づかないが、アイリーンは、変化して行く。病気の子の両親に会う。"
『何か?』
『金が出来た。』
『ああ、神様。』
『この金で、薬も治療代も、賄えるだろう。要るものがあれば、連絡くれ。』
『息子の命の恩人です。狭い家でしょう?6人家族です。でも、ブルーノがいないと、広く感じる。』
『大変だったわね。』
"でも、彼女の家族は、心配している。"
『自分が、誰か忘れないで。』
『家族の名に、泥を塗っているとでも?私を監視している事、知っているのよ。』
『自分の立場を自覚したまえ。』
『説明させて。自分の道を、見つけたいだけです。分かってください。』
"例の家庭を訪れると、何やら祝っている。"
『よくなっただろう。』
"ブルーノが戻って来たのだ。彼女は、仲間を大切にする人々の温かさを味わう。この小さなスラムのコミュニティーで、隣に住む娼婦は、周りから軽蔑されている。恐らく、アイリーンは、息子のような少年と、過ごしたいのだ。一家族を助けた事が、きっかけとなる。彼女は、息子を救えなかった。だから、助けてやりたいのだ。"
ローラースケートなどで遊ぶ子供たち。
"ロッセリーニは、彼女の変化を、そのままに、客観的に描く。観客は、彼女の感情の変化を、間近に追う事ができる。"
『あなた、可愛いわね。お嬢ちゃん。』
"アイリーンは、多くの時間を、スラムで過ごす。孤児を、実の子3人と共に育てる女性を訪ねたりもする。あだ名は、パゾロット(スズメ)。ジュリエッタ・マシーナが演じている。"
『仕事を見つけてきたの。』
『私のために?』
『水曜からよ。』
『どうしても、水曜日なの?その話、引き受けられない。』
『どうして?』
『若い男と出会ったのよ。』
"人助けを強く望むアイリーンを利用するのは、簡単。"
『私、間違っていない。』
『でも、仕事は?』
『きっと、何とかなるわ。』
"彼女は、代わりに仕事に行く。工場に踏み入ると、アイリーンには、未知の世界があった。生活のためだけに耐える退屈で苦痛な労働。その日、帰宅すると、そこは、別世界だった。"
『アイリーン。』
『今日の約束は?』
『すっかり忘れていたわ。ごめんなさい。』
『いい加減にしろ。』
『もう少しだから。お願い。我慢してよ。』
『きちんと話をしよう。気まぐれは、許してきた。君の言い訳も、聞いてやった。』
"夫には、理解できないのだ。"
『我慢の限界だ。』
"浮気を疑っている。"
『俺には、分かっている。すべて、男を喜ばすためだな。』
『冗談でしょ。』
"彼女は、夫の元を離れ、スラムに住むようになる。快適な生活を捨てるのだ。人のためになれるなら、それでいい。"
『苦しいわ。』
『どうしたの?』
"アイリーンが世話するも、娼婦は、結核で死んでしまう。行動がエスカレートし、やがて警察とトラブルを起こす。"
『父親じゃないの。』
『捕まらないように逃げて。自首するのよ。自分の意志に従うの。急いで。』
親に、拳銃を向けた少年を送り出す。
『それしかないのよ。』
"警察は、彼女を疑う。"
『君を、マンテラテ通りに、送るしかなくなってしまう。』
『マンテランテ通りとは?』
『女性刑務所さ。』
"警察は、なぜ彼女が、スラムで娼婦と暮らすのか、知りたがる。"
『あの女性は、不幸なんです。』
『そうだが、ほかに理由は?』
『私には、説明し切れません。分からないのかも。』
"彼女の夫に、残された道は、一つ。"
車に乗るバーグマン夫妻。
『なぜ、検査が必要なの?』
『医者に勧められた。』
『私は、元気よ。』
『分かっているさ。』
『奥さん、こちらへ。少し、お待ちを。』
精神を病んだ女性患者。
『すぐ、戻るからね。』
"彼女は、どこにいるのかを知る。』
『夫は、どこに?』
『すぐ来ます。』
『夫は来ないの?』
『心配しないで。』
『ここが私の部屋?』
窓から、夫が帰って行くのが、見える。
精神病棟の生活が、始まる。
"彼女は、理解する。居場所は、関係ないと。助けを求める人は、いる。どこにでも。"
ベッドの女に語りかける。
『1人じゃない。Don't worry. そばにいるから。私がいるから。そばにいてあげる。』
"医者たちは、彼女の計画や考えを抑圧する。"
『聖職者になりたいと?』
『No.』
『政治結社のメンバーかね?』
『No.』
『君の理想は、何だ?』
『私の理想は、人から必要とされる事。』
"医者は、家に戻りたいかと、問い続ける。"
『いいえ。家に戻ったら、自分も他人も、救えないもの。元の私に、戻りたいんです。たやすくは、ないけれど。悲しみを分け合いたいのです。痛みも分かち合いたい。彼らと暮らし、自分自身を救いたい。自分だけ、救われたくはないわ。彼らといると、一体感を得られるの。何はなくとも、人との絆がある。これが、私の気持ち。"
バーグマンは、部屋を出る。
『部屋に連れて行って。』
『Good bye.』
夫に別れを告げる。
"批判的に描かれた人物は、いない。アイリーンの家族も、彼女の夫も。医者さえもだ。社会には、ルールがあり、それが、狂気を定義する事を表現している。この作品の描く悲しい現実だ。"
スラムの仲間たちが、病室の窓に立つバーグマンを見上げる。
"『今や、人々は、共同体ではなく、社会に生きる。社会の中心は、法律だが、共同体を一つにするのは、愛だ。』ロッセリーニが、この作品を1963年に語った時の言葉だ。それは、現代にも通じる。『ヨーロッパ1951年』を見る時、作品の欠点は、見過ごすべきだ。公式版である英語版の脇役の吹き替えは、酷い。当時のロッセリーニ作品の問題点だ。映画制作は、困難になり、条件は悪化する。だが、彼は、撮りたい作品を制作した。『ヨーロッパ1951年』は、力強い作品だ。ロッセリーニは、事実を撮ったが、ヴィットリオ・デ・シーカは、巧みに感情を撮ったと言える。"
"殿方は嘘吐き(1932)マリオ・カメリーニ"
ダンスする男女。
"デ・シーカは、監督になる前、スターだった。珍しい事に、父親が、ショービジネス界に入る事を、勧めたのだ。30年代後半、彼は、イタリアのケーリー・グラントと呼ばれた。"
"ナポリのそよ風(1937)マリオ・カメリーニ"
"これは、『白い電話』時代の作品で、MGM映画のイタリア版と言える。"
列車の窓から、女を見やる。
"マリオ・カメリーニ監督と組んだライトコメディーは、デ・シーカをスターにした。"
『こんばんは。』
『どうも。』
"『花嫁たちが、僕のために、花婿を捨てた。』後に、彼は、振り返った。30年代後半、監督を始めたデ・シーカは、好んで子供を撮った。子供たちの視点に、共感していたのだ。"
"靴みがき(1946)ヴィットリオ・デ・シーカ"
"この『靴みがき』は、1946年の優れた作品だ。戦後ローマの路上で生きる少年。ジュゼッペとパスクアーレ。"
『もう1時半だぞ。』
"靴を磨くだけではなく、生きるためには、何でもやる。"
『メシもまだなんだ。』
『これは?』
『仲間さ。』
『仲間がいるのか。』
『俺の弟だ。』
"盗品の毛布を、手にしたため、彼らは逮捕され、少年院に送られる。子供にとって、この世の地獄だ。"
『このヤスリは?』
『さあね。』
少年は、頬をぶたれる。
『誰のだ。』
『神に誓って。』
別の子が、ぶたれる。
『見た事ない。』

『先生。先生。』
『何だ。』
『トイレに。』
『バケツを使え。』
『でも、後始末は?』
『臭うのは、中だけだ。』
"状況は、酷い有様。最悪なのは、裏切りを強いられる事だ。大人びているとは言え、彼らは、子供だ。簡単に、大人に操られてしまう。"
『何も知りません。』
『もうやめてくれ。全部、誓います。』
『それで?』
『パンツァという男とジュゼッペの兄貴です。』

『マッジにそそのかされたと、言え。』
『何で?』
『何も知らないお前を、マッジが騙したと。』
『2人とも、兄さんに騙されたんだ。』
『それじゃ、兄さんの刑は、5年で確定だぞ。』
『嘘を吐くの?』
『懺悔でもしな。裁判は、これでいい。』
『マッジ・パスクアーレ、懲役2年6か月、罰金2,000リラ。ジュゼッペ、懲役1年と罰金1,000リラ。公判を終わる。』
『ジュゼッペ、ジュゼッペ。』
『自由世界ニュース』
"『靴みがき』を、最初にTVで見て、この場面に、一番、感動した。"
『マッカーサー元帥率いる太平洋戦役は、勝利も間近。』
"私と同じ年頃の少年らが、ニュース映画を見ていて、戦争の映像より海の映像に、釘付けになる。"
『ほら見て。海だよ。』
"スクリーンの海は、どんな事をしても、手に入らないものの象徴だろう。『パンと恋と夢』に出ていたハンサムな俳優が、『靴みがき』の監督と知った時は、とても驚いた。"
映写機が燃え、逃げ惑う人々。
騎馬の少年を、ほかの少年が見上げる。
『下りろ。』
"オーソン・ウェルズは、『真似できない作品』と言った。とてもリアルなのだ。"
少年が1人、逃げ出す。残った少年は、殴りつけられる。水辺に落ち、気を失う。
"デ・シーカは、子供との間に、壁を作らない。"
『ジュゼッペ、ジュゼッペ。』
"彼らの悲惨な人生を、理解している。"
『ジュゼッペ、ジュゼッペ。』
事切れている。
"『無防備都市』や『靴みがき』と同様、『自転車泥棒』も、まず海外で人気を得た。"
広告貼りの男の自転車が、持ち去られる。
『泥棒、泥棒。』
"50〜60年代を通して、この作品は、ネオレアリズモの頂点として、世界から認められた秀作だ。2人が強く受けたチャップリンの影響は、ロッセリーニよりデ・シーカの作品に、容易に見て取れる。"
雨の中、自転車を探す親子。
"感情の描き方が、的確なのだ。"
"自転車泥棒(1947)ヴィットリオ・デ・シーカ"
"『自転車泥棒』は、状況を、静かに追って行く作品だ。父と子が、ローマで、自転車を探し回る。"
『どうした。』
『転んだの。』
『拭きなさい。』
"注目すべきは、苦境に立とうとも、立派であろうとする父の姿と。"
『何している。ほら早く。』
"父を守らねばならないと目覚める息子の姿だ。"
『じいさんを追うぞ。』
"やがて、彼らは泥棒から、自転車を買った男を突き止める。男の方が貧しいと分かる瞬間は、驚きだ。"
『食べてからでも?』
『ええ、でも、私も行きます。』
『炊き出しに来たんだから。』
"無料食堂のボランティアの金持ちが来て、男を教会から、追い出す。"
『こちらへ。』
"父親は、憤るあまり、酷い事をしてしまう。"
『炊き出しに戻って来るよ。』
『うるさいんだよ。』
父は、子の頬を張る。
『おい。』
『もう嫌だ。』
『さあ、行こう。行くぞ。』
『嫌だ。』
『行かないのか?』
『行かない。』
『ブルーノ。来なさい。何て子だ。来いよ。』
『なぜぶつの?』
『悪い子だからだ。さあ、来い。』
『嫌だ。1人で行ってよ。』
『来るんだ。まったく。』
『帰ったら、ママに言う。』
『勝手にしろ。』
"デ・シーカは、父と子の複雑な感情を、巧みに描く。"
『着なさい。日差しが強い。上着を。ほら。』
"どちらも折れないが、愛情から、すぐに和解する。"
『ピザを食べるか?』
レストランに入る。
『チーズ揚げパン、どうだ。』
『揚げパンとワイン。』
"素朴な事を、そのままに描くのは、難しい。わざとらしくなくするのは、至難の技だ。"
子が、裕福そうな家族のテーブルを覗く。
『あんな食事するにはな、一杯、稼がなきゃならん。いいから、食べなさい。美味いか?』
盗んだ自転車で、逃げる父。
取り囲まれ、小突き回される父。
『たった1台、持っていたもんなんだ。』
『パパ。パパ。』
『刑務所へ行け。』
追及が止み、並んで歩く親子。
"『自転車泥棒』を表現するなら、『素朴である事の力強さ』だ。正に、稀有な映画だ。『自転車泥棒』と同様の秀作が、またもザヴァッティーニと組んだ1952年の『ウンベルトD』。ネオレアリズモの極限とも言える。素朴な題材が生んだ傑作だ。"
『どうぞ。』
『月末には、立ち退いて貰いますよ。』
『Ha ha. ふん。』
"物語的要素は、『戦火のかなた』の『ポー川』の挿話より、簡素だ。"
『年金を上げろ。』
『脅しの積もりか。』
"為す術なく立ち尽くすとは、どういう事かを描いている。貧困に喘ぐ時、自尊心など、重荷に過ぎない。
『ウンベルトD』
"デ・シーカの父ウンベルトへの献辞で、この映画は、幕を開ける。"
『"この映画を、父に捧げる。"ヴィットリオ・デ・シーカ』
"ウンベルトDは、年金暮らしの元公務員だ。"
扉を開けると、男女が、引き出しを荒らしている。
"主演のカルロ・バティスティは、大学教授で。"
『私の部屋に人が。』
"デ・シーカとは、道端で出会った。"
『あれは、誰なんだ。』
『静かにしてください。友人ですわ。すぐ出ます。あなた、月末に立ち退きでしょう。』
『20年来の住民に対して、よくも。』
『じゃ、家賃を払って。』
『払うさ。ちゃんと払うさ。』
『怒鳴らないで。』
『とんだ赤っ恥だ。』
"プロの演技では、これほどリアルにはならない。ウンベルトDは、無料食堂で食事をする。愛犬のフライクにも、食べ物が必要だ。"
『明日は、犬と一緒に叩き出すわよ。叩き出すからね。』
『大丈夫。口だけさ。』
"彼は、尊厳を失うに連れて、寂しさに襲われる。彼には、愛犬しかいない。彼が、病院に担ぎ込まれた時、大家が、犬を逃してしまう。彼は、下宿先のメイドに、怒りをぶつける。"
『私の犬は?』
『奥様が、逃しました。』
『見てなかったのか。』
『私が、知らない間に。』
『死んでいたら、どうしてくれる。』
"彼は、必死に探し回る。ペットに愛情を注ぐ人物を描けば、共感を得やすい。"
『ここで、殺すんですか。』
屠殺場の官吏は、うなずく。
"しかし、この作品は、別だ。押し付けがましくならずに、本物の悲哀を描く。"
新しく運び込まれる犬たちと、愛犬を探すウンベルトD。
『フライク。フライク。』

『家族7人。お恵みを。』
『家族7人。7人です。どうぞお恵みを。』
『どうも。』
"老人は、すべてを売り払い、悲しい選択をする。チャップリン作品との関連性が明白な場面だ。音を消せば、まるで無声映画だ。"
犬を連れ、石造りの柱のある建物の前に休む。片手を前に出し、物乞いの練習をする。男が立ち止まり、コインを渡そうとするが、ウンベルトは、手の平を返す。犬に、逆さまに帽子を咥えさせ、離れて見守る。
『じっとして。』
知人が前を通る。
『フライクじゃないか。』
『どうもお久しぶりです。』
『フライクが見えたので。ここで何を?』
『この恰好が、好きらしくて。』
『可愛いですな。』

『ウンベルトさん。ケーキをどうぞ。』
『いや、いい。』
"メイドだけが、ウンベルトDを気遣う。唯一の話し相手だ。"
『どうかしました?』
『疲れたよ。』
『大家さんの事で?』
『色々だよ。』
"やがて彼は、生きる拠り所を失う。"
窓から、路面電車を眺める。軌道敷、犬を見つめる。
"当時の文化大臣ジュリオ・アンドレオッティは、この作品を見て、ネオレアリズモに反対する公開書簡を出した。もっと楽観的であれと言うのだ。この作品は、率直に、基本的な人間のあり方を描く。今、思えば、当時の批判など馬鹿げたものだ。人生を捨てる決心をし、彼は、愛犬の引き取り手を探す。"
『凶暴そうだな。』
『いいえ。悪さはしません。』
『さあ。何匹いるのかね。』
"彼は、犬を預かる夫婦を訪ねる。"
『そうか。旅行に出るので、預けたいんだが。』
『何日間だ?』
『すぐだ。』
"金がない彼は、なけなしの持ち物を渡そうとする。"
『皆、預けるだけ。誰も、引き取りに来ない。』
『その時は?』
『保健所送りさ。』
『散歩なんかは?』
『人手はあるけど、有料だよ。』
『居場所があるだけ、ありがたいだろう。』
『そうは、思えん。やっぱりやめとこう。』

『走らないで。』
"彼は、公園で知り合った少女に、犬をやろうとする。"
『ダニエラ。本当に、犬が好きなのかい?本当に?』
『はい。』
『だったら、君にあげよう。』
『まさか。』
『ダニエラ。駄目よ。赤ちゃんみたいね、ほら。』
"しかし、乳母が許さない。"
『歩きなさい。』
傲然と立ち尽くすウンベルト。
"そこで、彼は、こっそり姿を消そうとする。"
主人を追う犬。茂みに隠れるウンベルト。犬に見つかる。
遮断機をくぐり、踏切に入ったウンベルト。列車が、通過し、犬を落とす。
『フライク。フライク。フライク。』
犬は、踏切から離れてお座りしている。
『フライク。フライク。』
犬は、公園に駆けて行く。
『フライク。お出で。』
『フライク。お出で。』
犬は、逃げて行く。木の陰に隠れる。
『フライク。』
松笠を手に、呼ぶ。
『フライク。フライク。』
『フライク。ボールだよ。お出で。ほら、こっち。お出で。さあ。そう。こっちだ。ほら、立って。』
松笠を投げる。
『お出で。来い。ほら。』
『いいか、これだよ。フライク。ちんちん。』
『そうだ。そうだ。いいぞ。フライク。いいぞ。Bravo. 走れ。フライク。』
"『ウンベルトD』も、人間の日常を描いた作品だ。彼の父と私たちへのデ・シーカからの贈り物だ。"
PART2終了

"『ウンベルトD』後のデ・シーカ作品には、ゆとりが感じられる。初期の作品では、使命感に燃えていた。勿論、後期も見事な作品ばかりだ。『屋根』、『ふたりの女』、『悲しみの青春』などだ。だが、50年代以降は、コメディが秀逸だ。彼は、ナポリ的な笑いに回帰した。これは、『ナポリの黄金』からのシーン。"
家の前で、ピザ生地を伸ばす女。夫らしき男が、注意する。
『何よ。』
『胸を隠せ。』
"ナポリの黄金(1954)ヴィットリオ・デ・シーカ"
"イタリア映画ならではの笑いと悲劇の融合が素晴らしい。"
荷物を脇に挟んだ男が、通りかかる。
『ピッピさん。どうです?奥さんの具合は?』
『具合?悪いよ。とても。』
"笑いと悲劇が、表裏一体となっていて。"
『可哀想に。』
"簡単にひっくり返る。"
『このピザをくれ。』
『はい。』
"個人的にも影響を受けたし、私が目指すものでもある。"
『じゃ。』
"この男は、病気の妻を10年間、ずっと看病している。"
『ピッピさん。』
妻が呼び止める。
『希望をお捨てにならないで。あの方なら、大丈夫ですわ。』
『どうも。心優しき神のご加護を。祈りましょう。』
"演じているのは、パオラ・ストッパだ。彼の目当ては、ピザと美女からの同情だ。美女役は、ソフィア・ローレン。"
『指輪は?エメラルドだぞ。どこだ?今朝は、指にあったぞ。』
『帰った時もあったわ。本当よ。生地の中に、落ちたのかも。』
『何てこった。』
"実は、彼女は、日曜の密会で、浮気相手の家に、指輪を忘れて来たのだ。"
『ミサが、終わった。もう行かなくちゃ。』
若い男と抱き合うソフィア・ローレン。
"しかし、彼女は、夫が指輪を探す手助けをする羽目に。ストッパの家を訪ねると、妻が死んだところだった。"
『すぐに来てください。早く、早く。』
"彼は、混乱している。"
ナイフを持った手を、男たちに、押さえられている。
"フリかも知れない。"
『どうして?』
ストッパは、ナイフを落とし、頭を抱える。
『あれを。気の毒に。』
『死なせてくれよ。』
『馬鹿な事を。』
"ここで、デ・シーカは、コメディと悲劇の間を、自在に行き来する。"
ストッパは、やや落ち着きを取り戻し、語る。
『あの状況で、あんな顔。耐えられない。どれだけ涙したか。ああ。沢山、泣いていた。畜生。』
『ピッピさん。』
飛び出そうとして、制止される。
『止めてください。』
壁に、頭をぶつける。
ソフィア・ローレンが、声を掛ける。
『悲哀に閉ざされない純朴な心。聖母マリア様のご保護を。』
『ピザ。』
旦那が、ストッパの手を取りながら、言う。
『無理よ。』
『今朝ですね。女房が、ピザに、多分、お宅に渡したピザに、多分ですけどね。』
ストッパが立ち上がる。
『そうだ。ピザだ。あれの臨終の時、私は、ピザを食べていた。』
ストッパは、部屋の中を走り回る。
『ピッピさん。』
『死なせてくれ。』
ベランダに出て、柵を跨ぐ。
"ここは、見ものだ。彼は、飛び降りようとするが、友達が来ているかどうか、ちらっと確認する。もう一度見てみよう。この振り向き方は、実に微妙で、的確だ。やり過ぎは詰まらないし、足りないと気づかない。"
また飛び降りようとする。
"『ナポリの黄金』では、様々なタイプのコメディが、楽しめる。そして、この第4エピソードだ。"
老人たちに囲まれ、パスタを食べるストッパ。男が、召使に、コートを着せられる。
"行ってらっしゃいませ。"
"デ・シーカ本人が、貴族を演じている。落ちぶれたギャンブラーだ。"
『1万貸してくれ。』
『夫人に叱られます。』
『内緒にするさ。』
『どうせ、戻って来ませんし。』
『倍にして返す。いや、5万になるかも知れんのだ。私は、賭け事に強い。』
『まだいらっしゃいます。』
別の召使が言う。夫人が現れる。
『散歩に出掛けるよ。』
『ジョバンニ。』
"彼のギャンブル狂いは、重症だ。運もなく、金も尽きている。差止め命令も受けている。家族からもあきられ、すっかり子供扱いだ。"
ジョバンニは、召使にボディチェックされる。ポケットから、金属の置物が出て来る。妻は、呆れる。
"しかし、それでも彼は、最後の威厳を保っている。誰も、相手しないため、ドアマンの息子とゲームをする事に。"
『用意しろ。』
『またですか?毎日ですよ。』
『何が悪い。私は、主だぞ。夫人は、昨日、倒れた。』
"だが、息子は、無関心だ。"
『伯爵がお待ちだ。分かってくれ。うちは、奉公人なんだよ。』
ドアマンは、息子に詫びる。息子を、伯爵の元に、届ける。
『もう、嫌なんだよ。』
『悪いな。』
『毎日、毎日。』
伯爵とドアマンの息子は、カードで対戦する。
『何する?そうだ。これを。いいだろ。"
伯爵は、サングラスを取り出す。かける。
『どうだ?』
息子は、うんざりする。
"気が進まない子供。"
『君は、何を賭ける?』
"しかし、彼は、運を手にした天性のギャンブラーだった。子供は、天賦の才能を発揮する。"
『では、スコーパ。9だ。』
"だが、子供は、ただ外で友達と遊びたいと思っている。これは、TVでも放送された。両親や近所の人たちは、この話が、大好きだった。"
『スコーパ。』
"私が、8〜9歳の頃、シチリア語しか話せない連中が、よくカードをやっていた。"
『笑いが、込み上げるね。これは。』
"負けた者は、大声で叫び、カードを投げ、悪態をついた。忘れられない。"
『何がおかしい?どんな手だ。』
『4と5で、9だよ。はい。2回戦。』
『いいか、今のは、なかった事にする。眼鏡なんか、詰まらんしな。今度は、屋敷だ。屋敷全部を賭けるぞ。よし、次は、7だ。さあ、やるぞ。』
『はいはい。』
『こんな事、信じられんよ。』
『出来過ぎかな。』
『これが、運でなくて、何なんだ。』
『カードが、人を選ぶのさ。』
『私が、怒ると知っていて、その言い草か。本当に、馬鹿者だな。こうなったら、屋敷に土地もつけてやる。畑に、果樹園に...』
『もういいよ。』
『全部出す。やろう。』
"近所の理容師は、カード好きで、私が、髪を刈りに行くと、ゲームが終わるまで、待たされた。"
『宿無しにしてやるからな。チビ男爵め。』
"彼が負けると、大変だった。呪いの言葉を吐き、カードは、宙を舞う。そして、震えながら、『次、椅子に座れ。』と言った。"
『スコーパ。』
『おかしいじゃないか。さっき捨てたのに。運がいいからって、恥を知らん。』
『強いだけだよ。』
『私が弱いと?私が下手だとでも?』
『いいから、やろう。』
『やるよ。』
『スコーパ。』
『まただ。何様の積もりなんだ。私は、動揺せんぞ。屋敷と土地に、後、上着も付ける。さあ、やれ。』
"デ・シーカ本人も、実生活で、ギャンブラーだった。手持ちのカードが、酷い時には、呪いの言葉を吐いていた筈だ。"
『何で、そんなにツイとるんだ。答えなさい。さあ、言ってみろ。"僕は、運がいいんです。"』
『違うもん。』
『違うだと?ジェンナーロ。認めなさい。聞こえているか?よく考えろ。』
『いい子だ。はいと、答えなさい。運がいいんだ。勝つんだから。』
いつの間にか入って来た父親が言う。
『息子には、きっと運の神が憑いて。』
『ああ、よろずの神が、全部だな。こんなツキを、私は、見た事がない。そのうえ、人を馬鹿にしおって。自惚れにも、程がある。』
『伯爵。上着を。眼鏡も。』
『要らん。もう全部、奴のものだ。やるよ。私は、紳士だからな。はいと、言ってくれよ。』

"デ・シーカ、ロッセリーニと並び、ルキノ・ヴィスコンティがいる。"
水路をまたぐ橋を渡る男女。
"人間として、芸術家として、彼が、ほかの2人と違う点は、名前と身分から、判断できる。彼は、貴族出身だった。ナポレオンから、爵位を与えられた旧家だ。祖先は、シャルルマーニュ帝の義理の父である。"
『いつ、誰なの?』
『分かりません。奥様を探してみえたのです。』
『出掛けます。傘を。』
『伯爵には、何と?』
『何とでも、言いなさい。私は、構いません。告げ口しても。言いなさい。』
"ヴィスコンティは、本物の貴族だ。しかし、複雑だった。この北イタリア貴族は、芸術、伝統、歴史を、熟知していた。"
"夏の嵐(1954)ルキノ・ヴィスコンティ"
"また共産党員でもあった。"
建物の回廊を、一歩一歩確かめるように歩くシルクハットの男。
"彼が、監督になった経緯は、その作品同様に、興味深いものである。母親から、音楽と演劇を学び、子供の頃から、オペラを愛した。ほかの監督のように、働く必要がなかった。30歳頃まで、目標のなかった彼は、芸術をかじりながら、競走馬の飼育に、熱心だった。1936年、ココ・シャネルが、彼をジャン・ルノワールに紹介する。ヴィスコンティは、ルノワール監督の下で、映画製作について、学んだ。また監督の人間性にも、大きな影響を受けた。『彼といると、自分の心が、開いていく。』"
"どん底(1936)ジャン・ルノワール"
大きな屋敷の中。
『こんばんは。』
『バロンさん。一つご忠告が。』
『どうぞ。』
『ギャンブルは、もう。』
『それは、無理というものです。』
『今夜は、サシで勝負を。』
『望むところです。』
"マキシム・ゴーリキー原作のルノワール版『どん底』では、ルイ・ジューヴェが、破産した男爵を演じている。この場面は、ヴィスコンティの後の作品を予感させる。ヨーロッパ貴族の身命を賭けた道楽が描かれている。友人は、癖を知っている。彼が、勝てば、タバコに火を点ける。負ければ、火は点けない。"
男爵は、マッチの火を消す。ヴァイオリンが、奏でられる。
"ヴィスコンティの政治活動は、この時代に始まる。これは、人民戦線中のものだ。左翼的な思想は、決して、彼から離れなかった。彼の作品と同じだが、芸術、政治、歴史が関連している。"
犬を連れ、歩く男。腰から下が映る。
"『郵便配達は二度ベルを鳴らす』をルノワールが、ヴィスコンティの最初の映画として、推薦した。"
"郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)ルキノ・ヴィスコンティ"
男が、誰もいないバーカウンターを、拳でノックする。男は、奥の方へ入って行く。
"この原作の初の映画化だ。"
女が、テーブルに腰掛け、鼻歌を歌っている。
『食事は、できるか?』
男の顔が、アップになる。
『食事は、できるのか?』
道路沿いの道を、男が歩く。
"労働階級の生活や苦悩を描けるこの原作を、彼も気に入っていた。メロドラマは、表向きだ。"
室内に、上半身裸の肥満体の男。
"ファシスト政府が、削除した場面も、かなり多かった。"
男は、腹の汗をタオルで拭い、女も、背中の汗を拭く。
『もっとだ。ちょっと、掻いてくれ。おい、ジーノ。結婚は、いいだろう。』
酒場で、グラスをあおるバーの女。
"この作品は、ネオレアリズモの先駆けと、考えられている。"
室内で、揉み合う男女。
『何も。』
『見せろ。』
『なぜ?』
『見たいんだ。』
女が、ダッシュボードに置かれたものを掴む。
『貸せよ。』
『駄目よ。』
"様式化された現実描写により、生々しい感応性が、生み出されている。"
男は、女をベッドの上に押し倒し、手にした懐中時計を奪おうとする。いつしか、キスをしている。
車の運転席と助手席で、寄り添う2人。
『遠くへ行こう。』
"ヴィスコンティが、映画化権を買わなかったため、映画は、長い間、封印されていた。"
トラックに、幅寄せされる車。崖を転落し、下の沼に沈む。男は、気を失った女を救い上げる。
"私が、この作品を見た時、ヴィスコンティの才能が、既に、そこにあるのを感じた。細部への目配りと自在なカメラ・コントロール。そして、何より、オペラ的な振付けと感情だ。"
女を、崖の上まで、抱えて上がるが、女は、息を吹き返さない。
"終戦直前、抵抗運動に加わったため、逮捕されてしまうが。"
マシンガンの銃撃を浴びる男。
"連合国の侵攻後、自由になる。1944年、他の監督たちと映画を製作する。『栄光の日々』だ。
『くたばれ。ファシスト。』
叫びながら、兵士に運ばれる女。
"ナチ支配下におけるパルチザンの闘争とファシストへの報復が、描かれている。激動の時代を記録した見事な作品だ。現実の映像の中に、再現映像も、混じっている。"
揉み合う人並み。男が、小突かれている。
"実際のリンチ場面も撮った。ファシスト協力者の衝撃的な死刑も、撮影した。"
原っぱに連れられ、椅子に座らされる男。
"当時のイタリアをじかに、映し出した作品だ。次の作品では、現実を素材にして、更なる高みに昇華させた。『無防備都市』、『自転車泥棒』などに加え、『揺れる大地』も、ネオレアリズモの代表作だ。
"揺れる大地(1947)ルキノ・ヴィスコンティ"
海の漁に出る漁師たち。
"これは、ヴィスコンティの2作目で、異色の作品だ。"
水揚げされた魚が、撒かれる。
"1947年、シチリア訪問後、この作品は作られた。"
『ぐずぐずするな。今こそ、立ち上がるんだ。見ていろ。』
岩場に立った男が、両天秤のはかりを、海に投げ入れる。
"彼は、共産党出資で撮る筈のドキュメンタリーっはなく、この劇作品を選んだ。"
海に入る男たち。
"ジョヴァンニ・ヴェルガの原作を基に、脚本も書いた。"
駆け付ける警官たち。
"当初3部作の予定で、『揺れる大地』は、第1部の筈だった。"
『だから、駄目なんだ。』
『なぜ、分からない。』
"シチリアの漁師たちが、網元の支配から、逃れようとする様子が描かれた。"
『俺たちに、俺たち自身に、それを証明しよう。』
網を背負い込む漁師たち。
"ヴィスコンティは、現実感を重視した。撮影を、漁村で行うだけでなく、プロの俳優も、ほとんど使わなかった。"
海に漕ぎ出す男たち。
"現地の漁師たちを起用し、方言のままに喋らせた。"
『俺らには、俺らのやり方が。』
『でかい口叩くお前らに、何ができるんだ。』
"素人との仕事で、苦労した筈だ。だから、現地の人のぎこちない場面もあるが、彼らが、映画を良くしてもいる。本物の漁師の姿を、カメラは映し出しているからだ。"
『釣れたぞ。』
"彼らには、網や櫂を操る腕と、生身の経験がある。"
『アントニオにとっては、正に、天の恵みだ。』
"生きていくための生活が、どんなものか知っている。外部からの搾取とも、実際に戦っている。"
魚を一輪車で運ぶ男。
『いいよな。金持ちは、好きな女を娶って、どこでも行ける。』
海に向かって、岩場を走る男女。
"作品自体は、左翼的だが、耳障りなメッセージは、ない。記憶に刻まれるのは、映像。その情感と詩情だ。"
岩場に寝そべり、見つめ合う男女。
"ヴィスコンティが描いたのは、進歩と欲望のために、破壊される生活様式。ここには、愛や希望。そして、死も存在する。"
ベッドに横たわる年老いた男。
"ほかにも、注目すべき点がある。彼は、この現実性に、演劇の要素を加え、オペラの荘厳さも表現した。"
『災いというもの、それは、止められない。』
『祖父が、病に臥した。大きな病院がある。カターニャへ運ぶ。』
"この作品で、アシスタントだったフランチェスコ・ロージと、フランコ・ゼフィレッリは、後に、対照的な監督になっている。"
横風の中を小走りに行く女。岩に砕ける波。
"自然の力が、すべてを決する。水平線に、嵐が現れると、破滅は間近い。"
海を見下ろす岩場に立ち、船の帰りを待つ妻たち。
『すべてを失った。網、マスト、櫂、帆も。』
"夢は、砕ける。そして、網元が待ち構えている。"
『ドジ踏んだな。もう仕事は、やれない。』
『これが、お前のやった事だ。おのれを恨むんだな。』
"最悪の状況だ。"
『家は、銀行に取られたわ。』
"家族にも影響が及び、結婚の夢も破綻する。"
『お別れだな。あの窓は、もう閉まったきりか?辛いよ。』
『これが、神の思し召しなら、神は、試練を与える。』
イタリア民謡が歌われる中、男女は、並んで歩く。
『こんな事になって、もう、お嫁には行けない。これも神の思し召し。』
『家柄は、君の方が、上だ。代々、親方だったんだ。でも、すべて失った。俺が養うよ、俺の仕事で、ちゃんと食わしてやる。ごめんよ。マーラ。でも、これが現実だ。』
"彼らは、敬虔で、慣習に、縛られている。更に、ルチアは、家族の名誉に、泥を塗る。"
『どこへいたの?』
『声が大きいわ。』
『母さんが知ったら、ショックで死ぬわね。次々と問題ばかり。』
『家にいても、結婚相手は、見つからない。そうでしょ。』
『お黙り。ルチア。』
母親は、娘の髪をつかむ。
『恥を知るのよ。』
『放してよ。』
『恥を知りなさい。』
"小さな村落でのスキャンダルは、命取りだ。恥が、消える事は、ない。"
『村じゃ、もう貰い手などないさ。ルチアの噂は、どこでも、知らん者は、おらん。』
『"チクローペ"運送会社及び魚販売』
"漁師たちに、他の選択肢は、残されていない。最後の辱めを受ける場面だ。"
『やあ、久しぶりだな。』
服もぼろぼろの主人公は、レストランに連れ込まれる。
『放蕩息子のお戻りか。』
『ヴァンニは5割。弟は、その半分だ。これでいいな?』
"『揺れる大地』は、世界を変えようとする若者の物語だ。映画1本では、変わらない。しかし、後に、ヴィスコンティは、世界の仕組みとからくりを示す事に、使命を見い出す。まず、彼は、小品『ベリッシマ』を作った。アンナ・マニャーニが、ステージママを演じた。NYでも、よく放送された。『揺れる大地』の後、彼は、舞台での仕事を始める。彼が、主宰した劇団には、マルチェロ・マストロヤンニもいた。イタリアで、初めて、アーサー・ミラーやジャン・コクトー、T.ウィリアムズの作品を上演した。米国におけるエリア・カザン同様、劇界に、新風を吹き込んだ。演劇時代がなければ、『夏の嵐』は、生まれなかっただろう。"
"夏の嵐(1954)ルキノ・ヴィスコンティ"
"この映画を、初めて体験した時、そんな事は、考えもしなかった。20台の私は、完全に魅了されていたからだ。" 
オペラの舞台。男が、腰の剣を抜く。
"19世紀が、躍動していた。彼は、過去を真に理解している。外見だけではなく、内面から。スタンダールが、映画人だったら、同じような作品を作っただろう。個人と政治。それぞれの思惑が、絡み合い、社会全体を浮き彫りにする。スタンダールも、オペラハウスから、始めるだろう。そして、イタリア人が好むヴェルディのオペラを使うだろう。私達は、オーストリア支配下のヴェネツィアに放り込まれる。当時のイタリアは、正に、統一されようとしていた。"
舞台に、兵士の一団が現れる。
"オーストリア将校は、白い軍服だ。そして、紳士は黒。動きが、音楽に合わさる。見上げる。1拍置いて。別の人物の登場だ。カット。移動。音楽に合わせて、ビラが手渡される。色に注目だ。緑、白、赤い、そして、テノール。"
オペラが、フィナーレとなる。
"このエレガントな演出には、いつも圧倒される。"
『オーストリア人は、出て行け。』
投げつけた花が、オーストリア兵の肩に当たる。
"淀みない一つの流れの中に、すべてが、融合している。"
『マルモラ将軍が、動員令を出したぞ。Viva Italia.』
ビラが、宙を舞う。
"この作品全体が、音楽的な動きの連続なのだ。この場面は、いつも私の作家魂を奮い立たせる。様々な要素の融合が、ヴィスコンティのスタイルだ。このスタイルが、アリダ・ヴァリ演じるリヴィアの奔放な感情と結びついている。"
オペラ会場は、騒然としている。
"彼女は、反オーストリアの愛国者を支援する。政治上の駆け引きから、フランツ・マーラー中尉と出会う事になる。"
別のオペラ。女性ソプラノが歌う。
"俳優の動きが、いかに音楽と調和しているか、注目してほしい。フランツの登場。絶妙のアングルだ。フランツは、女殺しの異名を持っている。"
『マーラー中尉。サルピエーリ伯爵夫人だ。』
"愛と政治は、即座に、絶望的に絡み合っていく。ヴィスコンティは、この世界を多面的に描く。恋愛の背後に潜む状況を理解させる。これは、ロマンチックな映画では、ないが、登場人物の人生において、恋愛は、大きな意味を持つ。"
夜の宮殿の庭。伯爵夫人を追うフランツ。
"ムード作りもしっかりしている。この月明かり、人気のない路上、水面に反射する光。愛のない結婚をした女性は、瞬く間に、恋に落ちる。2人は、イタリア人に殺された兵士を見つける。"
『こちらへ。さあ、早く。』
"彼は、リヴィアを匿い、彼女は、警戒心を解く。"
『私達は、どこまでも歩きました。人影もない道を。』
"ナレーションと音楽が、呪文となり、彼女の思いの中に、私達を引き入れる。"
『そこにあるのは、ただ秘めた喜びでした。それからの4日間を、虚ろな気持ちで過ごした後。"
夫人が、1人、街を行く。
"ヴィスコンティは、独特なスタイルで、感情を表現する。ここでは、波立つ。スカートの動きが、悲劇への道を表現している。"
夫人は、建物の階段を上がる。フランツを訪ねる。フランツが、ヴェールを上に上げる。
『私達は、逢瀬を重ねました。フランツが、旧市街に借りた部屋が、密会場所です。』
『ねえ、この部屋は、いつも何かの音がするね。カーテンの衣擦れ、虫が窓にぶつかる音とか。気づいていた?』
"テネシー・ウィリアムズらが、英語版を書いた。ウィリアムズの劇のトーンも、見受けられる。"
『後になって、思い出すと気づくんだ。』
"この場面だ。けだるさ、官能、きらびやかさ、風に揺れるカーテンの影などの繊細なタッチが、フランツとリヴィアの欲望を高めている。彼女は、自分の髪を切り、それを家宝のメダルに入れる。"
『素敵だ。』
『あなたの胸にいつも。』
フランツの仲間の兵士たちとリヴィア。
『この宿舎は、お好きですか?』
"待っても、彼は現れない。彼女は、兵士の宿舎まで、探しに向かう。"
『そうは言わない。でも、来てしまう。』
"どんなに、冷たく扱われても、彼を忘れられない。"
『そういう奴でね。前にも、同じ窯の飯を食ったもので、お分かりですか。』
夫人は、メダルから取り出された髪の束を見つける。
『日に何度も、違う娘が訪ねて来る。』
『もう1人、お客様が。見知らぬ殿方でしたわ。』
"そして、無謀な行動に。リヴィア同様、ヴィスコンティも大胆になる。突然、彼は、何も残さず、去ってしまう。"
『いつ?誰なの?』
"だが、実際は、居所を知らせておいた。"
『出掛けます。傘を。』
"ここでヴィスコンティは、更に緊張の度を高める。"
『伯爵には、何と?』
『何とでも、言いなさい。私は、構いません。告げ口しても。言いなさい。』
"それは、彼でなく、地下で活動していた従兄弟だ。彼は、政治活動の資金を、彼女に預ける。独立への戦いが、始まろうとしていた。"
『自分を捨てなきゃ、できないよ。イタリアは、戦争をしているんだ。我々の革命さ。』
"安全を考え、夫は、彼女を田舎へと移動させる。早朝、突然、フランツが姿を現す。
『ベランダに人影が。それは、私よ。』
『私に会うためだけに、命懸けで?』
"彼は、少しずつ、彼女の気持ちを取り戻す。映像のディテールが音符となり、変奏曲を構成する。ベッドの上の薄織りのカーテンや鏡。壁画が、登場人物と化して、彼らを見つめる。"
『君が、僕から逃げて行くと、町を出たと聞いた。堪らなく、会いたくなったんだ。』
『これが、君の望んでいた事?僕は、引き止めてほしかった。』
泣きじゃくるリヴィアの背後にフランツが、寄り添う。
『フランツ。』
『フランツ。ええ。フランツ。』
"そして、彼の本当の目的が分かる。"
『彼は、医者に金を積み、入隊不可の診断書を書かせた。心臓に、欠陥があるとね。安静に、休養する事になった。それで、自由の身で、家に帰れたのさ。』
『そんな事。』
『医者を買収したんだよ。大金をつかませたんだ。』
"彼は、戦争に幻想を抱いていない。戦争は、兵隊をコマにした貴族のゲームだと考えていた。"
『結局、戦争って何?命令する側に都合よく、人を動かす方法じゃないか。』
『恐ろしいわ。戦争って。』

『2,000フロリン。』
『2,000フロリンなんて、無理だわ。』
リヴィアが答える。
『僕は、もっと安い?』
『私に、もっと力があれば。』
『時間がない。朝までに戻らないと、脱走兵になる。銃殺されるかも。かえって、一件落着だな。時間がないんだ。』
『待って。フランツ。待って。』
音楽が、大音響で鳴る。リヴィアは、次々と、部屋の扉を開け放っていく。
"この瞬間が、作品の核だ。ヴィスコンティほど、様式に全幅の信頼を置く監督はいない。そして、それをこの場面で、用いた。"
リヴィアは、宝石箱を開ける。
『これ、君のか?』
『違う。』
『旦那?誰のだい?』
『言えないわ。私、おかしい?そうね。私は、狂っているわ。』
『愛しい人。』
リヴィアの膝に、顔を乗せながら、フランツは、床の金貨を手でかき集める。 
『いけないよ。それだけはいけない。』
フランツは、去って行く。
『断ち切る事など、無理でした。私は、裏切ったのです。あの時、戦っていた人たちを。』
"ヴィスコンティは、イタリアの大敗を喫した戦いから、『クストーザ』を作品名に考えていた。彼は、このショットを、カットなしで撮った。"
歩兵が、前進する。
"複雑な動きを逃がさないためだ。観客は、カメラに気づかない。ただ、この闘いの場面に、圧倒される。見た目以上に、はるかに難しいショットだ。この部分では、検閲にも、引っ掛かった。イタリア史の複雑な問題を扱っていたからだ。学者の中には、イタリア統一運動を、上流階級の策動だと考える者がいる。"
騎馬兵が、進軍する。
"ヴィスコンティも、19世紀の愛国者と、第ニ次大戦中のパルチザンは、共に利用されたと見ていた。制作会社が、映画の一部を破棄したのは、それが理由だろう。"
馬車に揺られるリヴィア。
"リヴィアは、危険を顧みないフランツに会いたい一心なのだ。そして、ここで、色調が変わる。トーンがモノクロになり、映像全体が、喪に服したようになる。最終局面に入り、色調が、どんどん暗くなる。フランツを見つけるが、期待は、裏切られる。"
フランツとリヴィア。
『へどが出そうだよ。卑怯者の臭いで。』
『フランツ。フランツ。』
女の声。
『誰かいるの?』
『紹介しようか?あの金で買っているんだ。ほら、君の金さ。』
『自慢話だと思って、聞き流していただろう。聞く流していたさ。本物の伯爵夫人に惚れられたと話しただろ。』 
リヴィアのベールを、乱暴に取る。
『本当さ。愛が何だかさえ、知らなかったとさ。僕と会うまでは。』
リヴィアは、テーブルに顔を伏せて、泣く。
『やめてくれよ。今更、何なんだ?僕は、君の英雄じゃない。君を愛していない。金が欲しかっただけさ。』
『帰れ、帰れ。この浮気女。』
フランツは、高笑いする。
『行けよ。首の骨を折っちまえ。』
"彼女は、なす術を失う。だが、上流階級の人間だ。運命のカードは、彼女の手中にある。最後には、2人が、共に倒れるのだ。社会が準備した悲劇の中で、2人は、決められた役割を演じたのだ。彼女は、外に出る。遂に、背景は、暗闇だけとなる。本来は、別の結末の筈だった。リヴィアが、娼婦のように道を歩き、1人の兵士が、『オーストリア万歳』と叫ぶものだ。ヴィスコンティは、フランツの末路に、関心はなかった。リヴィアの感情が、作品の中心だったのだ。結末の改変と、カットはあったが、映画に、妥協の痕跡はない。"
フランツは、銃殺される。
"『夏の嵐』では、最後まで、官能と熱気が、持続する。当時、反ネオレアリズモだと言われたが、今、見れば、初期作品との連続性は、明らかだ。この作品は、過去を描いたネオレアリズモだ。以後、ヴィスコンティは、技法を凝らして、真実に迫る道を模索する。"
"フェデリコ・フェリーニも、技巧を信じた監督だ。彼の名は、ある種の技巧の同義語になった。彼の真実は、自伝体で語られる。私の最も好きな作品では、人物の感情が、生彩を放っている。そこには、ほろ苦く、優しい特別な親密感が存在する。フェリーニが、大監督となる前、『フェリーニ的』という言葉も生まれる前、彼は、故郷リミニを舞台に、『青春群像』で、自分の青春時代を描いた。フェリーニ最高の傑作だ。"
"青春群像(1953)フェデリコ・フェリーニ"
"私が、とても共感し、私の青春時代とも切り離せない1本だ。"
腕を組み、仁王立ちのウェイター。
『シーズン最後のイベント『ミス・水着』コンテスト。』
"これは、5人の30代男性の物語である。"
『当然、僕ら、のらくろ仲間も集まった。アルベルト。』
"イタリアを代表する俳優アルベルト・ソルディだ。"
『インテリのレオポルド。』
"隣がレオポルド。演じるのは、レオポルド・トリエステ。次は、モラルド。"
『そして、一番若いモラルド。』
"フェリーニの分身を、フランコ・インテルレンギが演じた。"
"見ろよ。かっこいいぞ。』
野外のステージで、歌う男。
"リカルドは、フェリーニの弟が演じた。そして、ファウスト。"
『ファウスト。僕らの中のリーダー的存在。』
"フランコ・ファブリッツィだ。"
『じゃ、キスしてくれ。』
『放して。』
『キスぐらい。』
『放してってば。やめてよ。乱暴な人ね。まったく。』
海岸。
『人気のない日曜のビーチ。僕らは、ただ海を見に行った。』
夜の街角で、サッカー。
"何をして過ごすのか?ビリヤードをし、女を追いかけ、人をからかう。"
『アルベルト。やめとけよ。』
『近寄らないでよ、不良。』
"計画を立てても、実行はしない。"
海に突き出た櫓に、5人は立つ。
『1万リラ貰ったら、飛び込むか?』
"いつも夢ばかりだ。" 
『俺は、やる。』
『釣り屋の所へでも、行くか。』
"夢を叶えるには、この退屈な海辺の町を出るしかない。"
『レオポルドは、司祭っぽいな。』
"彼らの虚栄心や未熟さを、見事に捉えている。彼らは、退屈さを打ち破る光を、ただ待っている。町から出たいが、家を離れるのも不安だ。"
アルベルトは、犬を追いかけ、見知った女とその恋人とでくわす。
"10代の頃の私も、彼らと同じだったと思う。"
『アルベルト。アルベルト。母さんには、言わないで。お願い。』
『放せよ。』
雨に打たれるレストランのテラス席。中で、ドラムを叩くアルベルト。
"この作品は、彼らの生活を、挿話の集積として描く。ファウストが、中心人物だ。彼は、美女サンドラを妊娠させる。"
『死にたいわ。ミスに選ばれたのに。』
"彼は、最も恥ずべき行動に出る。夜の間に、町を出るのだ。振舞いも子供っぽい。両親からも、子供扱いされる。"
『父さん。ご免な。さっき頼んだ5,000リラ。』
『何が5,000リラだ。何の金だ。出て行くためか。好き勝手して、逃げるのか。』
"父親がベルトを使って、息子を叱るが、誰も、それを馬鹿げた事とは、思わない。モラルドは、もっと恥ずかしい。妹が、ファウストの子を、身籠るからだ。" 
『父親は、わしと同じ、紳士だった。こんな阿保でも、家族のために、必死なんだ。必ず結婚させる。引きずってでもな。出来損ないめ。』
大声で、笑う男。
『畜生。親父は、泣いてんだぞ。』
ファウストとサンドラは、結婚する。幸せな夫婦のフリをし、新婚旅行に出掛ける。
カフェのテラス席に屯する男たち。
『皆、ファウストだぞ。』
"彼らは、都市の情報を持ち帰る。私の作品は、この映画から、大きな影響を受けた。人物の気持ちを追う事と、人生の小さな瞬間を記録する事だ。"
仲間の前で、音楽に合わせて、コミカルに踊るファウスト。
"普通、映画には、このようなシーンの余地はない。ここでは、彼らのために、時間が止まっているかのようだ。フェリーニらしいこの軽やかさ、確かさ。"
『どうだ?元気か。これが花婿だ。』
『こんにちわ。』
"ハネムーンは、終わりだ。"
『ファウスト?』
"義父は、ファウストに仕事をさせようとする。"
『さて、いつ始めるかね。』
『すぐにでも。』
『え?』
『早く慣れて、いいだろう。』
義父の妻がやって来る。ファウストの目が動く。
『サンドラのご主人だ。うちで働いてくれる。』
"彼の浮気心が、疼き始める。町の人々が、1年で、最も楽しみにしているのが、カーニヴァルだ。抑圧から、解き放たれ、仮装して大騒ぎをする。"
『行くよ。』
『行かない。』
"親と同居中のアルベルト。"
『貸して。』
"何かが起こり、家族が崩れようとしている。"
『あっちは、泣いているし。』
『母さん。どうしたの?』
『何でもないの。頭痛よ。』
『行くから。』
"祭りに、人々は、すべてを注ぎ込む。1年続く恋や魔法を、手に入れるためだ。"
『アルベルトだわ。』
女装して、ダンスを踊る。
『恥ずかしいですか。』
『もう、分からない。』
『こんばんは。』
義母が、ファウストに挨拶する。
『こんばんは。お楽しみで。』
『ええ、とても。あなたは?』
ファウストは、言葉が出ない。
閑散とした会場を、泥酔したリミリが、後にする。
『どっか行け。馬鹿が。』
"次の朝、目が覚めると、元のリミリだ。次のお祭りまで、1年もある。去る者と残る者の緊迫感だ。登場人物は語らないが、それが、丁寧に描かれている。映像からも、それを感じる。"
『アルベルト。』
『お別れよ。』
"時として、町を去る者がいる。"
『しっかりね。』
"このアルベルトの姉が働いて、一家の生活を支え続けていた。"
『どこへ行くの?どこへ行くの?』
"相当な重荷だろう。"
『姉さん。』
"そして、ある朝。"
『姉さん。』
姉は、車に乗って去る。
"彼女は、去る。"
『姉さん。』
"考える暇はない。彼女は、いずこへか去った。彼らは、悟った。今、立ち上がるか、永遠に、ここに留まるかだ。"
『泣くな、母さん。泣かないで。僕がいるよ。僕は、どこも行かないから。姉貴は、帰って来る。帰らなくても、いいじゃないか。姉貴の稼ぎがなくたって、どうにでもなる。行っちまえ。僕が働くよ。仕事を見つける。"
『本当かい?』
『いや。』
『見つかったの?』
『え?』
『働き口の事だよ。』
『いいや。』

『お仕事ですか?貴方とワルツを踊る夢を見ました。』
ファウストが、アルベルトの姉を誘惑する。
『手伝ってください。』
『では、一緒に。』
『もう結構よ。』
"ファウストは、止まらない。"
無理矢理、キスをする。
『もう。』
"今回の状況は、深刻だ。"
男が、部屋に入る。
『外は、少し寒いよ。』

『世間を知らんようだな。身内と思って来たが、とんだろくでなし野郎だ。私が、手を出さんうちに、消えてくれ。』
"モラルドに協力させ、ファウストは、『元』主人の彫像を盗み出し、復讐しようとする。"
『何だい?』
『天使像さ。高く売れるんだ。いいものだろう。』
"それを売ろうと。"
僧院に持ち込む。
『院長は、おられます?』
『ご用は?』
『天使です。椋の木なんです。家に置いとけなくて。素晴らしい金の天使です。"
『大丈夫。悪い奴じゃ。』
『間に合っています。』
『あ、ちょっと。』
"結局、運搬を手伝った漁師が、持ち帰った。"
夕食のテーブルを囲む。
『あ、パパだ。』
『お帰りなさい。』
モラルドを見つけると、追い回す。
『モラルド。逃げるな。ちょっと来い。』
『何だよ。』
『お前という奴は。馬鹿息子め。引っ込んでいろ。』
『泥棒め。2人とも出て行け。』
『何事です。』
『彫像を盗んだ。』
『違うんだ。』
『何が違う。』
『この家で、こっちの阿保は、奥さんに手を出しおった。親友だぞ。』
女が、テーブルを立ち、部屋を出て行く。
『サンドラ。』
『そんな話を信用するとは、心外ですよ。』
『よくもそんな。』
『僕だって怒りますよ。子供じゃないんだ。もう、沢山だ。出て行くよ。さようなら。』
ベッドで泣くサンドラ。
"ここからは、ファウストが中心だが、他の連中が、どうなったかも映している。作家志望のレオポルド。憧れの人が来て、その芝居を見に行く。"
『それは、情け容赦ない。でも、いい。』
『本当か?』
『お気に召しましたか。ここを使ってある。それに、ここもある。』
『座長。』
『おやおや。』
"ファウストは、女優に近付こうとする。"
『海鳥の声は、風に消え、ぞくっとするフリーダ。疲れて、老け込んだ顔。』
"だが、その憧れの人は、期待を裏切る。"
『私が、怖いのかな?』
"その瞬間、人生の希望の光が絶たれる。"
『ポルド。どこへ行くんだ?』
"サンドラの希望も、打ち砕かれる。子供を連れて、家を出る。皆んなが、彼女を心配する。彼の仲間も、彼女を捜す。勿論、笑いもある。"
『労働者諸君。』
男が、車の後部座席で、力瘤を見せびらかす。
『ご苦労さん。』
"運悪く、車が故障する。タイミングも最悪だ。"
『こっちへ来る。冗談だよ。やばい。逃げろ。』
"フェリーニは、深刻な場面にも、常に笑いを挟み込む監督だ。"
『僕は、社会主義者だよ。』
"やっと、サンドラを見つける。そこには、サンドラと。"
『止まれ。』
"彼の父親がいる。"
『父さん。何をする気?父さん。』
父親は、ベルトを束ねて、振り下ろす。
『ふざけているんだろ。』
『やめて。やめて。』
"彼は、手にしているものの価値を知り、失いたくないと、悟る。私は、登場人物たちが、とても好きだった。彼らの行く末が、見たかった。"
汽車が、駅に近づく。
"フェリーニが、自身を投影したモラルドは、この町を去る。後の4人は、町に残る。それが、最善だと考えるのだ。"
モラルドは、汽車に乗り、ホームを走る少年に手を振る。
"旅立ちの場面は、胸を打つ。カットやカメラの動きが、記憶に刻み込まれた。"
ベッドで眠る仲間たち。
"私の1973年の作品『ミーン・ストリート』は、この作品から、大きな影響を受けた。このほろ苦い感情は、誰もが経験するものだと思う。大人になるか、永遠に子供のままでいるのか。"

"『青春群像』は、1953年、ヴェネツィア映画祭で、成功を収めた。更に、『道』、『カビリアの夜』を経て、フェリーニは、国際的な監督となった。作品ごとに、大胆になり、様式性と想像性を、強めていった。そして、1960年に製作したのが、『甘い生活』である。"
ヘリに吊るされ、運ばれる聖人像。
"彼は、この作品で、一気に巨匠となった。映画界に衝撃を与え、映画史に、金字塔を打ち立てた。"
"甘い生活(1960)フェデリコ・フェリーニ"
『それ、どこへ運ぶの?』
『電話番号教えろって。』
"『甘い生活』は、世界中で反響を呼び、ピエトロ・ジェルミは、2年後、作品に、この映画を登場させた。『イタリア式離婚狂想曲』である。"
"イタリア式離婚狂想曲(1961)ピエトロ・ジェルミ"
"『甘い生活』。本日公開。"
『様々な風評が、飛び交い、論争巻き起こる中、注目の映画が、封切られた。その奔放さに教会が声を上げ、ボイコットを煽るが、失敗に終わる。』
『スワッピングにストリップ。乱痴気騒ぎだ。さあ、行くぞ。』
『甘い生活』が上映される。
"『甘い生活』が描くのは、新しい性のモラル。自由は限りなく、罪の意識など、存在しない。まるで、異次元の背徳の世界だ。"
『魂の抜けた飾り人形にしか見えないね。』
"フェリーニの発想は、実に奇抜だった。壮大なキャンバスに、映画版フレスコ画を描き上げたのだ。今でも、鮮明に覚えている。『ベン・ハー』などの大作が、ロードショー公開された時代だ。"
『一緒に写ったら、カミさんに殺される。』
マストラヤンニに群がる報道陣。
"『甘い生活』も、ロードショーだった。『特別な』映画だったからだ。ただの大作ではなく、それ以上のものだったが、フェリーニと俳優マストロヤンニは、初めて、コンビを組んだ。この後、4作品で組んだが、ぴったり息が合っていた。切り離せない関係だった。マルチェロという名のゴシップ記者は、パパラッチが溢れるローマの享楽的生活に浸っている。"
『何が山分けだ。失せろ。』
"『パパラッチ』は、この作品で、世に広まった。マルチェロは、常に一歩引き、傍観者であり続けようとする。"
トレビの泉に入るアヌーク・エーメ。
"他の監督と同様。"
『マルチェロ。来て。』
"フェリーニは、モダンな映画を目指した。"
『そうだ。僕は、間違っている。僕たち、皆、間違っている。』
"『甘い生活』は、成功した。マルチェロの空虚な生活を、精神の叙事詩として描き、国際年ローマの生活を、見事に描き出したのだ。"
『知っている香りだ。』
"そして、ニーノ・ロータの美しい音楽。フェリーニの映画には、不可欠だ。この作品でも、映像と一体となっている。"
『フェデリカは淫乱、男好き。』
"アヌーク・エーメが、パーティーの説明をするシーン。
『エレオノーラは、土地持ち。自殺歴が2度。あっちの一家は、城持ち。ジュリオさんとニコ。彼女は、スウェーデン王妃候補。そんな顔しちゃ、駄目よ。私達の方がマシ?彼らは、必要なら、品格を演出できるの。』
"壮麗なイメージ。魅惑的なリズム。恐ろしくさえ、ある。"
『夜明けを見るのは、初めて。スパゲッティを食べたいわ。もぐもぐ。』
"すべてが、過剰過ぎるのだ。友人スタイナーを演じるのは、アラン・キュニー。マルチェロの心の拠り所であり、現実との架け橋だ。"
『頑固パパか。こら、恥ずかしいぞ。』
『正に、休息の場だ。子供たち、奥さん、本も友達も、素敵だ。僕は、惰性で、生きているだけ。』
"マルチェロとは、違い。"
『前は、夢もあったが。』
"彼は、心の奥底から、人生に幻滅している。『甘い生活』の背景には、冷戦下の不安がある。1989年に、ベルリンの壁が崩壊し、今では、当時の恐怖を知る者は、残っていない。全人類が、一瞬で滅ぶという恐怖。それを理解し、記憶する者は、いないのだ。登場人物たちは、恐怖から逃れるため、快楽に身を任す。現実から、目を背けるのだ。常に、新しいスリルを求め、さまよい続ける。"
『愛している。マルチェロ。片時も離れず、あなたの娼婦にもなりたい。』
『私、淫売ですものね。隠しても仕方ない。淫売よ。それでいいの。』
『それは、違う。君は、素晴らしい女性だよ。勇気のある誠実な人だ。僕には、君が必要だ。君の絶望は、僕を励ます。何でも話せる最高のパートナーかも。君は、万能だ。マッダレーナ。答えてくれ。こっちに来いよ。もっと君と話がしたい。』
アヌーク・エーメは、アラン・キュニーと抱き合っている。
『マッダレーナ。』

『その人を、通してやってくれ。』
"マルチェロは、流されまいとする。"
『酷い話さ。こんな。』
『何だ。』
"スタイナーが、頼りだ。"
『2人の子供を殺して、自殺した。』
"しかし、状況は、一転する。"
『マルチェロ。撮れたら、譲る。一緒に入らせてくれ。頼むよ。』
『ブン屋は、後だ。』
『こちらへ。』
男たちが、何やら、部屋を計測している。
『床から、高さ1m半。』
『1m半。左の壁から、距離4m。』
頭から血を流したキュニーが、椅子の背もたれにもたれ、絶命している。 
『書いたの?』
『犯行に至る前に。』
"スタイナーの絶望は、想像以上に深かったのだ。最悪の結果だ。"
"マスコミが、妻の到着を、待ち構える。妻は、まだ夫のた死を知らない。"
『今回ばかりは、控え目に頼むよ。貴方からも、言ってください。』
"パパラッチが、群がる。"
『何?私が、女優に見えて?一体、何ですか?』
『もういいだろ。離れて。』
『何事なの?』
『初めまして。お話したい事が。』
『悪い事でも。』
『どうぞ。まず、車にお乗りください。』
『何で。』
『不幸が。』
『何?』
『落ち着いてください。子供たち。』
『奥さん。こちらへ。退いてくれ。』
『教えて。一体、何が。』
"スタイナーの自殺は、希望の終焉を意味した。退廃と絶望の間には、何も存在しない。この時点で、マルチェロは、群衆の1人となる。パーティーの騒ぎは、度を増して行く。感情と精神の完全なる混沌。"
マルチェロは、女の髪を引っ張り、頬を、軽く叩く。
"誰もが、我を忘れて、その場を楽しむ。過去も、未来もない。今があるだけだ。"
『綺麗だ。』
"翌朝、人々はビーチで、奇妙なものを目にする。"
『嫌だ。』
『3日前に死んだんだ。』
大きなエイの死体。
"手を振る少女。"
『聞こえないよ。』
"純粋な瞳で、語り掛けて来るが、彼には届かない。"
『すぐ行く。』
"この作品は、今、見返しても、テーマに相反して、絶望感を感じさせない。映画や人生への愛の喜びが、勝っているのだ。それが、更に顕著に表れているのが、『8 1/2』。フェリーニの最高傑作である。"
"『甘い生活』と対照的なのが、『イタリア旅行』だ。"
車の前からやって来る牛の群れ。
"劇的で力強いフェリーニに対し、ロッセリーニは、瞑想的で謎めいた作品を撮る。"
"イタリア旅行(1953)ロベルト・ロッセリーニ"
『飛行機を使えば、もっと早く着いた。』
『休みたいと思って。私といるのが、そんなに退屈なのね。』
『ただ、やる事がないだけさ。』
"初めて見た時、私は、とても感動した。"
『2人切りになるなんて、久しぶりね。結婚以来よ。』
『ああ、そうだな。』
"何が、私の心を揺さぶるのか?ほかにはない魅力が、心を惹きつける。"
『何か、飲むかい?』
『ええ。部屋はやめて、バーにしましょう。きっと誰かに会えるわ。』
『私と部屋にいるのが、退屈なのか?』
『あなたのためよ。2人切りは、嫌でしょ。』
"倦怠期を迎えた夫婦を演じるのは、ジョージ・サンダースとイングリッド・バーグマン。冷め切った夫婦の関係が、旅行先のナポリで、頂点に達する。"
バーグマンは、ほかのテーブルの仲良さげなカップルを見やる。
"常に、緊張感の漂う旅。異国にいる不安感が、拍車をかける。ロッセリーニは、作為を弄しない。ただ静かに、2人の関係を見つめる。観客は、夫婦に変化を及ぼす何ものかに、次第に気づいていく。"
『アレックス。起きて。』
"窓の外からは、賑やかな音が聞こえる。"
『ほら、起きて。』
"漁師の歌や行商人。人々が、笑い、話す声。"
『起きて。遅れるわよ。』
『ここは、よく眠れるな。』
"様々な音が、無意識に入り込む。"
『夢を見たが、思い出せない。』
『昨夜、出会った美人のジュリーかも。』
『Maybe.』
『浮気心があるとは、知らなかったわ。』
『そうかい。』
ホテルの屋上の寝椅子で、日を浴びる2人。
『みんな昼寝かな。夜みたいだ。』
"とらえ所がない何かが、2人の感覚を刺激する。"
『寝ているのか?』
『いいえ。』
"ものに感じる心が、蘇るのだ。"
『魂の神殿。』
"見ている我々も、それを共に体験する。隣にいるかのようだ。"
『チャールズを覚えている?』
『どのチャールズだ?』
『レウィントンよ。』
『覚えてないな。』
『2年前に死んだの。痩せて、背が高くて、金髪の。優しくて、繊細な人。』
『やっと思い出したぞ。』
『何を覚えている?』
『間抜けな奴だった。』
『違うわ。彼は、詩人よ。』
『何が、違う?』
『素敵な詩を書いていたわ。イタリアで、戦闘に参加したの。この辺りよ。』
『愛していたのか?』
『No. でも、仲が、とても良かったわ。』

『どこへ行く?』
『ナポリよ。』
"演技を目にしているとは、思えない。"
『何をしに?』
『車が必要なら。』
"本物の夫婦を見ているかのようだ。"
『博物館が、4時に閉まるのよ。ゆっくり見たいのよ。』
『食事は?』
『食べたわ。もう行くわね。』
『君の友人の詩人が、詩に書いていた博物館か?』
『Maybe.』
"美術館でも、何かがつきまとう。姿を潜めているが、突然、正体を明かす。"
『ギリシャの彫刻で、円盤投げの選手です。次は、皇帝たちです。カラカラ帝は。』
"それは、イタリアという国、そして、古代の歴史だ。"
『私の好きな女神像です。あまら若くはないが、成熟した魅力がある。そう思いませんか?』
『分からないわ。』
『これは、ファルネーゼの像。カラカラ浴場で、発見されました。2,200年前のもので、3m近くあります。』
"古代の歴史が、溢れる国。今でも、その生命は、息づいているのだ。"
『誰もが。』
『Oh. Wonderful.』
"通常、映画の中では、この存在は、人間が演じ、セリフで説明するものだ。しかし、この映画は、何も説明しない。ロッセリーニの冷静な目が、生きている。2人を、異国に放り込み、反応を見る。重要なのは、理由ではなく、経緯だ。"
『もう、こんな国は嫌だ。怠け癖がつく。早く帰って、仕事したいよ。』
『やっとお決まりのセリフが出たわね。』
『暫く、距離を置こう。カプリで、別荘の話を、片付けて来る。』
『お友達が、待ってますものね。楽しめば、いいわ。』
"キャサリンは、イタリアを見つめた。沢山の彫像や遺跡。子連れの母親や妊婦たち。ここで、夫婦には、子供がいないと分かる。キャサリンは、クーマの巫女の洞穴を訪ねる。"
『恋人たちが、占いに来た場所です。巫女が、恋を占うのです。』
"キャサリンは、言葉を失う。イタリアの熱が、突然、押し寄せたのだ。"
『No thank you. また今度にするわ。』
"一方、アレックスは、感情を無視し、自分を防御し続ける。ここでも、夫婦の溝は、強調されず、時は、静かに流れて行く。"
『離婚は、簡単だったわ。自由が欲しかったの。あなたの場合、問題は、ややこしいわね。奥さんへの愛や嫉妬が、原因だもの。』
『嫉妬?』
"派手な展開を見せず、小さな出来事が、積み重なって行く。"
『一斉に、煙が上がります。』
"それが、この映画を成り立たせているのだ。"
『火花が見えますか?ポンペイの街は、火山礫の雨によって破壊されたのです。』
"アレックスは戻るが、妻に会う気になれない。"
知人の女を、車に乗せる。
『ねえ、どこへ行く?あんたの家?ホテル住まい?どこに行く?』
『やめておこう。少しドライブして、送って行くよ。』
"歌声が、画面にみなぎり、内に秘めたお互いの感情が浮き彫りになる。映画の核となるシーンだ。"
バーグマンは、夫が帰宅し、慌てて、明かりを消し、眠ったふりをする。
『アレックス。あなたか、確かめただけよ。』
『ほかに誰がいる?』
『よく眠っていたの。今日は、一日、外へ出掛けて、とても疲れたから。』
『楽しかった?』
『まあね。』
『何時の船に?』
『5時に乗った。』
『今まで、何をしていたの?』
『ナポリにいたんだ。ほかに質問は?』
『Ofcours not.』
『もう寝てもいいかい?』
『どうぞ。』
『頼みがある。』
『何かしら。』
『明日は、11時まで寝かせてくれ。最近、よく眠れていないんだ。』
『All right.』
『おやすみ。』
『おやすみなさい。』
カタコンベを見学するバーグマン。
"過去の生命が、語り掛けて来る。ただの歴史的遺物ではない。かつては、人生の楽しみや苦しみを味わった人々。生きた人間として、迫って来るのだ。ロッセリーニは、言った。『死は、存在しない。』イタリアでは、生命は生き続ける。文明が違うのだ。"
『兄がギリシャで戦死して、埋葬されたの。時々、ここで祈るのよ。気が楽になるから。ほかの事も、祈っているわ。私は、心から、子供が欲しいの。分かるでしょ?』 

『また聖地巡りか。』
『車を借りただけよ。』
『最近の君には、腹が立つ。』
『いいわ。もう覚悟を決めたわ。』
『All right. 離婚しよう。』
ガイドがやって来る。
『溶岩に埋まった人体を発掘するんです。』
『行けないわ。』
『来てください。死の恐怖に直面した瞬間が、見られるんです。めったにないチャンスですよ。』
"この場面で、初めて夫婦は、行動を共にする。"
『ここで、空洞が発見されました。そこで、地面に穴を開けて、石膏を流し込みました。人体が腐敗して、空いた穴を埋めたのです。2000年前の人体を、そのまま再現する訳です。見えて来ましたよ。』
『何だろう。』
『脚ですね。片腕です。足が、もう2本。複数だな。頭部です。石膏に、埋まっていますね。頭骨と歯は、よく保存されています。2人です。死んだ時のままだ。男と女です。きっと夫婦でしょう。抱き合って死んでいる。』
バーグマンは、直視できない。
『どうしました?』
『I don't know.』
『キャサリン。どうした?』
『アレックス。もう耐えられない。家に、連れて帰って頂戴。』
"遂に、夫も心を開く。"
『気持ちは分かるよ。私も、ショックを受けた。でも、しっかりしないと。』
『あなたも、ショックを?今日は、変なものばかり見たの。でも、話す時間がなくて。沢山、話があるのよ。』
『御免なさい。今朝は、変な事を言って。』
『なぜ、謝る?お互いの立場は、はっきりさせただろ。謝る必要は、ない。』
『昔を思い出さないか?』
『そんな事、言うのはやめて。皮肉はやめて。もう離婚するんだから。』
『人生は、短いわ。』
『だから、楽しまなくては。』

祭りの日の人混み。バーグマンは、人波に流される。
『アレックス。』
"別れを決意した途端、2人は、人生の情熱の渦に巻き込まれる。"
やっと夫のそばに寄り、抱き合う。
"これは、結婚生活の終結ではなく、2人の旅の終わりだったのだ。夫婦の心は、再び結び付いた。この結末の感動を、言葉にするのは、難しい。全編を通して、経験するしかないからだ。『イタリア旅行』は、1953年に公開された。当初は不評だったが、後に、映画界に多大な影響を残した。きっかけは、『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家たち。ヌーヴェル・ヴァーグの中心人物となった人々だ。J-L・ゴダール、F・トリュフォー、E・ロメール、C・シャブロル、J・リヴェット、ロッセリーニを初めて評価したアンドレ・バザン。彼らにとって、『イタリア旅行』は、革命だった。新しい時代の幕開けだ。映画制作の方法は、実験的な方向へ変化し、スタジオから離れて行った。ゴダール曰く、ロッセリーニは証明した。映画には、男と女、車とカメラで、十分だという事を。ロッセリーニは、思い切りが良かった。その後、程なく、伝統的な映画話法を、完全に捨て去ったのだ。この映画は、公開当初、散々な評価を受けた。しかし、後には、人々の心を、強くかき立て、映画史上の傑作の1本となった。そして、ミケランジェロ・アントニオーニを招来した。"
海辺の岩場で遊ぶ女。
"60年代前半になると、批評家たちは、2派に分かれた。『甘い生活』派とアントニオーニの『情事』派。共にユニークだが、180度異なる。お祭り騒ぎの『甘い生活』に比べ、『情事』の世界は、怪しく謎めいている。フェリーニは、賑やかで、親しみやすいが、アントニオーニは、難解な作品を撮る。『情事』は、特に風変わりな作品だ。初めて見た時、私は、困惑した。『今のは、何だ?』"
"情事"(1960)ミケランジェロ・アントニオーニ
"何度も、繰り返し見に行った。見る者を、魔法にかける威力があったのだ。回数を重ねるほど、『情事』は、強く心に響いて来た。映画が描くのは、私に、全く縁のない人々。金と時間を持て余している。その財産が、彼らを罠に落とす。抜け出せない罠だ。彼らは、空虚な生活から、必死に逃れようとする。アントニオーニの構図は、慎重であり、正確だ。見る者の注意を、人物の周りの風景に向けさせる。孤独感と喪失感が、引き立つ。モノクロの扱いも、斬新だった。画面は、どれもくっきりとしている。登場人物の感情的な欠落を、更に際立たせている。"
『好きだ。それでも駄目か。』
女は、そっぽを向く。
"アントニオーニは、実に大胆だった。"
『駄目よ。』
"レア・マッセリ演じるアンナという女性。ヒロインとして、登場するが、無人島に滞在中、突然、姿を消してしまう。友人の前から。そして、映画からも。想像もつかない展開だ。"
『アンナ。』
"『サイコ』の中のジャネット・リーに似ているが、ヒッチコックと違うのは、一切、説明をしない点だ。"
岩が、崖を転げ、海に落ちる。
『アンナ。』
"アンナの友人であるクラウディアとアンナの恋人サンドロが、彼女を捜して旅に出る。つまり、この映画は、一種のロードムービーだ。旅路で起こる情事を描いている。次第に、2人は、惹かれ合う。映画ではよくある展開だ。だが、この作品では、話が進むにつれ、誰もが、当事者アンナの存在を忘れていく。監督は、あえてすべてを、漠然としたままにする。登場人物の不安定な感情を表現するためだ。宙ぶらりんの精神状態が、まざまざと描かれている。"
抱き合うクラウディアとサンドロ。
"見ていると、落ち着かないが、それゆえ目が離せない。淡々とした展開のリズムも、魅力の一つだ。緩い時の流れが、それ自体、ドラマを産む。やがて、2人は結ばれ、アンナ捜しは、重要でなくなる。2人が、一緒にいるための口実でしかない。"
『凄いデザインだ。動きがある。舞台効果を案じていたが、この奔放さ。』
"サンドロは、野望を捨てた男だ。彼は、一流の建築家になる夢を諦めた。だから、他人の野望は、許せない。"
描きかけの建築物のスケッチに、わざとインク瓶を倒しかける。
『どうもすみません。』
『今、わざと。』
『まさか、そんな事しません。』
絵描きが、つかみかかる。
『やめておけ。』

"彼は、目に映る素晴らしい建築に圧倒される。もどかしさを隠せず、フラストレーションを他人にぶつける。"
クラウディアをベッドに押し倒す。
『やめて、お願い。兎に角、嫌なの。貴方が分からない。』
『恋人でも出来たか?』
『何を言うの?』
『冗談だよ。冗談も通じないのか?』
"2人とも、生きる道を必死に探っている。"
『なぜ、嫌なんだ。』
"クラウディアは、愛に飢えている。だが、サンドロは、人を愛す術を知らない。アントニオーニは、説明しない。登場人物の心の深淵を、直感させるだけだ。クラウディアは、目的もなく、中途半端に生きている。2人がさまよう異郷の地は、『甘い生活』の世界に、極めて近い。"
『さあ。』
人波が、半開きのシャッターをくぐる。
"マルチェロとは違い、アントニオーニの描く人物は、閉塞感に苛まれている。"
『スカートが破れたわ。』
『後でね。』
"旅の終着地は、上流階級のパーティーだ。クラウディアを置き、サンドロは、一人で会場へ行く。"
『おやすみ。』
『愛していると言って。』
『愛している。』
『もっと言って。』
『愛していない。』
『言われちゃった。』
"朝になっても、サンドロは、戻らない。不安になり、女主人の部屋へ行く。"
『エットレは?』
『寝室でしょ。』
『きっとアンナよ。戻って来て、一緒にいるのよ。』
『そんな筈ないじゃない。』
『休みなさい。』
『アンナが死んだのなら、私も死ぬのかしら。もう泣かないわ。もし、生きていたら、怖い。』
"映画は、いつしか強い迫力で迫る。アントニオーニは、人生の重みと無力感を訴えた。徹底したスタイルを通して、あらゆる事象が、我々の意識の中に刻み込まれるのだ。"
クラウディアは、ソファで女と抱き合うサンドロを見る。そして、走り去る。
『ねえ。』
『小さな思い出も、くれないの?ほんの少しでいいのに。』
紙幣を落として、サンドロは、行く。
屋敷の屋上。クラウディアとサンドロ。言葉なく、クラウディアは、サンドロの髪を撫でる。
"エンディングでは、生きる事の苦しみをも描き出している。2人は、ただ虚しく孤独を噛み締めるだけだ。このシーンの映像は、今でも、脳裏に残っている。『情事』を初めとする三部作で、アントニオーニは、映画の新たな可能性を見出した。感情や視覚、テーマにおいてだ。2作目は、マストロヤンニとジャンヌ・モロー共演の『夜』。そして、3作目は、『太陽は独りぼっち』だ。当時、世界中の監督が、実験的手法を取り入れていた。J-L・ゴダールの『勝手にしやがれ』やJ.カサヴェテスの『アメリカの影』、L・ブニュエルの『ビリディアナ』、I・ベルイマンの『沈黙』と『ペルソナ』、大島渚の『青春残酷物語』、G・ローシャの『アントニオ・ダス・モルテス』、今村昌平の『にっぽん昆虫記』、アラン・レネの『二十四時間の情事』、『去年マリエンバードで』などだ。常に、誰かが、映画の地平を広げている時代だった。監督たちは、互いに影響を与え、刺激し合っていた。衝撃的だったのは、『太陽はひとりぼっち』。一歩進んだ物語話法だ。厳密に言えば、物語というより詩に近い。この作品は、あるミラノ女性と若い株仲買人との関係を描いている。彼らは、『情事』以上に、自分を見失っている。互いを求めるが、どこか刹那的だ。アントニオーニは、人間性の欠落した世界を描いた。真実の愛を見つける事など、無駄な努力に過ぎない。"
株の立会い。
"多忙な彼らには、同僚の死を嘆く暇すらない。物質社会の生活リズムが、それを許さない。"
『嵐の前の静けさだ。』
『知ってた?』
『ああ、ここでは、1分が数億さ。』
"アントニオーニは、こう言った。『私が、描きたいのは、人間の感情の痕跡だ』と。"
ベルが鳴り、立会いが始まる。
"詰まり、現代人の空洞化した内面だ。目を凝らせば、それが見えて来る。アントニオーニの醒めた目の奥に隠されているのは。"
『Pront. Pront. Pront.』
"哀しみだ。2人は、いつも同じ場所で落ち合う。工事中の建物の角に立っている木の下だ。それは、新興住宅地の中にある。"
『どうする?どこかへ行く?』
『そうしましょう。』
『僕の家?』
『そうね。』
"ある日、2人は、会う約束をする。関係は、続くかと思われたが、互いの気持ちに、変化が生じる。2人の姿は、ない。時間だけが、過ぎて行く。話が展開するのを期待するが、何も起こらない。カメラが捉えるのは、あらゆる『物』だ。2人の周囲にある物。詰まり、フェンスやドラム缶に浮いている木くず。横断歩道や待ち合わせ場所だ。人生だけでなく、人間だって、移り変わるのだ。最後の場面で、我々が感じるのは、時の流れだけだ。"
水を吐く散水機。
"2人が消え、世界はまるで抜け殻のように、映っている。そこに存在するものではなく、存在しないものが、問題なのだ。"
町に灯りがつく。
"驚くべき結末だが、同時に開放感がある。この作品は、最後の7分で、映画という表現方法に、限界がない事を示した。"
街灯のアップ。

突然、笑い出す正装の男。
『退屈している皆さんを、笑わせてみせよう。今晩は。マダム。』
"映画が好きな若者には、私と同じ体験をして貰いたい。若いうちは、様々な事を吸収できる。ただ、映画を楽しむのではなく、何かを学んでほしい。きっと、人生を左右する映画に出会う。私の場合は、フェリーニの『8 1/2』だ。傑作と言われる『甘い生活』は、実は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。フェリーニは、『8 1/2』によって、飛躍を遂げた。映画の概念を、再構築したと言っていい。『甘い生活』を超えるのは、そう簡単ではない。"
渋滞する車。車の中の人間模様。
"だが、誰もが、彼の次回作に多大な期待を寄せていた。皆、フェリーニの作品のとりこになっていたから、尚更だ。彼にとって、それは、プレッシャーだ。"
車列と逆方向に、空を飛ぶ男。
"ファンや評論家、ライバルからのプレッシャー。大金を操るプロデューサーからのプレッシャー。そして、何より、自分からのプレッシャーだ。"
男は、海めがけて、墜落する。
『朝っぱらから、失礼。お元気で?』
"8 1/2(1963)フェデリコ・フェリーニ"
"フェリーニの新たな試みは、自身の苦悩を描く事だった。"
『また希望のない映画ですか?』
『こちらは初めて?』
"マストロヤンニ演じる映画監督グイドは、燃え尽き、思考が途絶し、スランプ状態にある。新作の構想が、一向に浮かばない。あらゆるものから逃れるため、温泉へと出かける。静かな場所で過ごせば、アイディアが浮かぶと思った。『8 1/2』は、フェリーニが撮った作品数に由来する。グイドが求めているのは、理想の女性だ。その女性は、周囲にいる。だが、目の前をよぎるだけで、つかむ事は、できない。"
微笑む女。
"漂い、流れているだけだ。"
コップの泉水を差し出す。
『シニョーレ。コップ、どうぞ。』
"『8 1/2』は、フェリーニが抱く夢や記憶、妄想のつづれ織りだ。映像化された意識の流れに、観客は、息を飲む。"
部屋の中を逃げ回る幼児。
『僕、嫌だよ。』
『おいで。いい子にして。世話の焼ける。』
『いらっしゃい。こっちよ。』
"プルーストのような、物語性を排した自伝的な探究の作品だ。幼い頃の懐かしさを求めるが、手に入れるのは、難しい。"
タオルでくるんだ幼児を、女たちが受け渡す。
"この作品では、あらゆるものが、共鳴し合っている。"
『この世で、一番、可愛い子。』
『寝たふりしたって、分かるからね。眠れ。美しい生き物よ。目を閉じろ。』
"次に何が起こるか、予測不能だから、面白い。夢と現実の区別が、次第にどうでもよくなる。"
『グイド。愛している?』
『ああ。』
"フェリーニが、語りかけて来る。『さあ、映画の中に、入るんだ。』悔恨を描いても、映像は、陶酔的だ。"
『ママ。何でしょう。』
『どれだけ泣いたか。どれだけ。』
『パパ、行かないで。パパに聞きたい事が、沢山。』
『ここは、天井が低い。高い方がいいのに。これじゃ格好悪いだろ。これは、駄目だ。』
『これは、これは。先生。わざわざどうも。』
『うちのせがれは、いかがですか。』
『感動しても、冷静にご意見を。』
『どうでしょう。駄目ですか。』
『過ちを犯したと、気付くのは、辛いが。ママが、お前に弁当を作ったよ。チーズに、桃が2つ。私の事は、案ずるな。君の描きたいものは、分かった。人間の内なる混乱だ。でも、これでは、分かりにくい。』
"『8 1/2』は、スクリーンの中で、作り上げられる。創作過程そのものが、作品だ。"
『人の興味を引かなければ、大衆が、理解するかなど、どうでもいい。』
"観客は、彼の心の内側を堪能する事になる。カメラは、動き続ける。この作品は、『動』についての映画だ。とどまる事なく夢幻的で、とても美しい。"
『Attention please. 枢機卿がお待ちよ。繰り返すわ。グイド。枢機卿がお待ちよ。』
"この映像はユニークで、フェリーニならではだ。"
『急いで服を。枢機卿がお待ちです。包み隠す事なく、懺悔するのです。なんなら、私の事もよろしく。』
『枢機卿だよ。何という幸運だ。すべてお許しくださるかも知れん。私の離婚の事も、何とか。』
『敬虔な態度を、泣いて見せるんだ。』
"この場面は、唖然とするとても複雑なショットだが、楽々と達成されている。"
『頼むよ。君にかかっているんだ。うまくやれよ。』
"だが、公開当時は、議論が絶えなかった。"
『5分ですよ。』
"人によって、解釈が違うのだ。だが、本来、夢というのは、そういうものだ。"
『枢機卿。私は、幸せではないのです。』
『なぜ、幸せになりたいと?すべき事は、ほかにある。人の存在は、幸せのためだけか?オリゲネスは、こう言った。"教会の外に、救いはない。"教会の外には、救いはない。』
"そして、夢と同じように、ムードが急変する。"
『いらしたわ。』
沢山の買い物を抱えて、マストロヤンニが現れる。
『今晩は。寒いから、すぐ閉めて。』
"グイドやフェリーニにとって、女性の存在は、大きい。"
お湯に浸かるマストロヤンニ。
"怯えを抱いている。"
『出してくれよ。』
『これで、いいかい。待ち構えていたね。』
『ええ。世界一優しい子でなくて?』
『ナディン。君は、何と?』
『皆様、コペンハーゲンの夜を、お楽しみください。』
"愛し、利用し、崇拝する事はできても、女性を操る事は、できない。"
『彼は、偽善者よ。』
『彼女に、契約延長を。』
『君まで、何を言い出す。』
『1年でいいの。お願い。グイド。』
『駄目だ。』
『決まり事です。』
『年をとれば、上がるけど、扱いは同じ。』
『間違っている。』
巨漢の女が言う。
"フェリーニは、残酷なまでに、自身に忠実だ。特にこの場面。"
『分からない?』
女たちに取り囲まれ、苛まれる。
『呆れた。』
"惜しげもなく、弱さをさらけ出している。"
『暴君を倒せ。青髭を倒せ。』
駆け込んで来た黒人の女が煽る。
『我々は、70才まで、愛される権利がある。』
"女性を抑えようとする光景は、実に可笑しい。"
『彼は、不能だ。キスと囁きだけ。』
『すぐ寝てしまう。』
"だが、これは綱渡りだ。観客と戯れているからだ。女性蔑視を承知の上で、難なく切り抜けて行く。"
マストロヤンニは、鞭を振るう。
『凄い男。』
『だけど。』
『彼の性癖なの。毎晩、こうよ。』
女たちは、拍手する。
"ある時点を境に、映画作りは、暴走列車と化す。まばたきもできない。"
『おい。剽軽者。』
"時間が必要だが、一番足りないのは、時間だ。周囲の雑音で、集中もできない。"
『腕を組まんでくれ。』
"耳に入って来るのは、金切声や怒声ばかり。"
『役を、上手く掴めないの。』
"だが、一番聞きたいのは、自分自身の声だ。"
『初めから、分かっていた。閃きがないのだ。』

『この仕事は、30年やっている。君の知らん事もある。私は、恐れない。』
『老ぼれめ。』
『私は、降りる。好きにしろ。若いのを使うんだな。だが、君も、いつまでも若くないぞ。』
『ねえ、彼女ね。あなたの事、不能だって。』
『本当さ。そのとおりさ。』
『清潔にしたいの。』
"創作のプロセスは、果てしないので、この作品にも、終わりはない。"
『もう3日も待っている。冬が来るぞ。』
"大切なのは、続ける事。グイドは、ようやくそれに気付く。"
『話す事、なんてないわ。』
『何とか言え。大枚、突っ込んでいるんだ。撮らないなら、破滅させる。』
『ちゃんと答えさせますから。』
『ポケットに入れたよ。』
"この作品を何回、見た事か。受けた影響は、語り尽くせない。フェリーニの手腕に、いつも感動する。彼は、芸術家はとは何かを示した。創作の欲求が強いほど、後で得られる喜びも大きい。"
『浮世離れも、程があるな。』
"そして、恐怖も底知れない。"
『グイド。お前、逃げるのかい。』
"映画とは、何かを語っているのだ。"
『開けろ。』
櫓から、降りて来る人々。
"フェリーニは、映画についての映画を、映画以外の何者でもない映画を作り上げたのだ。映画への愛が、純粋に表現された作品だ。ここで、私がイタリア映画の魅力について語ったのは、若者に薦めるためでもある。歴史を受け継いでいくものだという事を、私は、映画から学んだ。だから、自分が体験した事を、皆と共有すべきだと思った。若者にとって、古い映画は、勉強と同じで、人から聞いて、知るものでしかない。だが、皆にはぜひ、実際に鑑賞して貰いたい。ではまた。"

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