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僕の母

なかなか、僕にとっては重たいテーマです。なぜなら、母は、今、痴呆状態で、死を待っているから。そして、僕は、久しくそんな母に会っていないから。

父と母は、小学校の同級生だったと聞いています。父は、1999年の暮れに病没しています。父の友人という方たちが、命日に来られますが、どうやら、母は、みんなのマドンナだったようですね。そのマドンナを父がかっさらったみたいな感じがありました。

母は、表具職人の家の一人娘でした。古い写真を見ると、西田佐知子のようでした。なかなかのべっぴんさんです。

井関農機に就職し、図面を引いていたそうです。美術センスがありました。絵も上手、俳句もたしなんでいました。刺繍や木のペインティングも楽しんでいました。そして、美術展やお寺とかが好き。僕が幼かった時に、鹿児島で、一緒に観に行った、山下清展と、アウシュビッツ展は、強烈でした。特に、事前に予備知識を吹き込まれませんでしたが、アウシュビッツ展は、大量の毛髪や歯形とかを見て、幼心に尋常ならざるものを見た思いがしました。

僕が、母方のおばあちゃんと思っていた方は、実は後妻さんでした。母は、それをどう思っていたのでしょうか。おじいちゃんと、おばあちゃんは、二人して、タバコをプカプカやってました。

母の金銭感覚が麻痺していたことは、父がずっと気に病んでいました。タクシーに乗るなんてもってのほかと、父に言われていたようです。ある日、母と買い物に出掛けた僕は、タクシーに乗って帰りました。僕は、父の顔を見ると、すぐに言いました、"お父さん、今日はタクシー乗ってないからね"って。

父は、亭主関白で、お嬢ちゃんの母には、時に冷たく当たっていたようです。父が、母に厳しい声をかけるのを何度か見たことがあります。

母としては、僕と兄に愛情を注ぎました。その中でも、非行に走った兄のことは、とりわけ気にかけていたようでした。僕たち兄弟は、水と油なのですが、二人が仲良くしてくれるのを誰よりも望んでいました。

僕が、社会人となり、結婚し、子供もできましたが、折々に適切なアドバイスをくれました。僕たちも、特に父の死後は、年に2、3回は、大阪に母を招き、母の好きな神社仏閣や美術展などを案内しました。それでも、懐から食事代を出そうとする母を、妻が必死に押しとどめましたが、僕は、母が好きなようにしてあげたらと、ニコニコしながら見ていました。

母には、プレゼントをねだられました。3万くらいの、金貨をあしらったネックレスを買って上げました。誰から聞いたか、忘れましたが、そのネックレスを同窓会に付けていって、これは息子にもらったのと自慢していたそうです。ありがたいことです。

これは、妻から聞きましたが、僕が幼い頃にお小遣いを貯めてプレゼントした滝平二郎の意匠のハンカチ2枚を使うことなくとっておいて、嬉しそうに妻に見せたんだそうです。そして、僕の習字ノートなども取っておいたようです。

年末に、兄嫁に一通の手紙を書きました。兄への思い、実家の権利関係などのほか、ハンカチとネックレスは、僕にとっては思い出が詰まった品だから、見つけたら送ってほしいと。しかし、未だ、手紙の返信すらありません。

10数年前の夏の日、その電話はかかってきました。兄からで、母がそばにいるが、様子がおかしいと言うのです。すると、母が代わって、"悪い母親だった、さよなら"って言って、電話は切れました。しばらくして、僕は悟りました。ああ、これで、母との関係は終わったのだと。

今は、コロナが収まったら、母に会いに行こうかと考えています。

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