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働く女性の介護体験記(5) お互いが幸せになる選択

今日は働く女性の介護体験記の第5回目です。

今日はですね、母が退院後歩けるようになって、特別養護老人ホームに入るようになるまでの時期の話です。

テーマはですね、介護する人が自分の人生を犠牲にしても、介護される人は幸せになれないよ、とうことです。

本日のメッセージ
介護される人が自分の人生を犠牲にしても、介護される人に幸せをもたらさない」

1:母の回復

母は歩けるようになってから、急速に回復していきました。

心臓や肺の機能が向上したために、食べたものを誤嚥して肺炎を起こすことも少なくなりました。

何よりも、母の精神状態と認知機能は飛躍的に向上し、わたしたち家族や、来てくれるスタッフと穏やかに会話ができるようになりました。

自分で歩けるようになったので、酸素をつけて、車椅子にのってはいましたが、以前の母に少しずつもどっていくようで私はとてもうれしかったです。

しかし、かと言って、母の生活を以前の私と一緒に住んでいた状態まで戻すということは、不可能でした。

2:私の再就職

私は母の介護のためにいったんやめていた大学教員の仕事に再就職するために、求職活動を再開していました。

母の状態がどうなるかわからないので、このままずっと仕事をやめて介護を続けることはできなかったのです。私の当時の経済状態では、仕事なくしては、どんどん貯金が枯渇し暮らしが立ち行かなくなってしまう程でした。

また、私は大学の教員としてのキャリアを続けたいと思っていました。海外留学までして学位をとってきていました。それを生かした仕事ができなければ、そのために多額のお金を投資して留学した意味がなくなってしまいます。

幸い近くの他府県で大学の教員の応募がありました。介護しながら時間をみつけて、書類をなんとか作成して送りました。一次審査に通り、そして面接を受け、無事内定を得ることができました。

母のことを思うと不安でしたが、なんとか経済的基盤を回復することができると思って安堵したことを覚えています。

しかし、ここで問題になるのが、母の介護と仕事の両立です。

私は仕事をしながら、家で母の世話をすることは、不可能でした。そこで、母には、特養に行ってもらうことにしていました。

3:どちらを優先するのか

私の母は、倒れる前からいつも自分は延命処置をせずに死にたい。だから、娘の私は母の介護で煩わされることなく、自分の人生を生きなさいと言っていました。

母は娘が自分のために犠牲になることは望んでいなかったです。また私も母のために犠牲になろうとは1ミリも思っていなかったです。これは、冷たい関係と思われるかもしれませんが、私と母の間では全く違和感のないことでした。

私の母は、昭和1桁の生まれでしたが、農村家庭ではなく、サラリーマンの娘でした。そのためか、日本の伝統的な価値観よりも、どこか個人主義的な価値観をもった女性だったと思います。

加えて、苦労の連続であった自分の人生経験を通して、母は頼りになるのは自分だけだ、たから人に頼らず生きたい、という思いが強かったと思います。

そのために、母が倒れてから人格が変貌し、そんな自分が言っていたことも忘れたかのように、私に依存してくることに、私はとてお戸惑いました。

本来の母であれば、このような時に母は黙って特養へ行き、そして娘が望んだキャリアを継続できるように支援する。つまり自分の娘の足でまといにならないようにするはずです。

ところが、実際は、母は特養に行きたくない。それよりも、娘と住む生活にもどりたいと言ったんですね。

でも、それは現実無理だったんです。私の選んだ職場は、家から片道3時間もかかるようなところです。また、大学の仕事は多忙で、夜遅くまで残業することもザラにありました。また、家に帰ってきても、仕事を深夜までつづけなければ終わらないのです。

このような仕事では、私は母と同居することは難しく、母に特養へ移動してもらうことしかなかったんです。

母が歩けるように必死に努力をしたのも、きっと自立してまた娘の私と一緒に生活したいと言う希望があったからだと思うと、切ないなと思いました。

ある時自分でアイロンまでかけて、寝たきりだった状態から復活できたことを、自分でも本当によろこんでいることもありました。

それをみながら、私は母に「これからはお母さんは特養で生活することになるんだよ」と宣告することが、残酷なことに思えて胸がいたみました。

4:私の決断

ただ、かと言って、私は母と別れてくらすという決断に全く迷いはなかったです。

ケアマネさんは、私に対して驚いたように言いました。「今は自分の仕事ことではなく、お母さんの介護を優先すべけではないのですか? そんな遠くの職場にいかずに、近くでもいくらでも仕事があるんではないんですか?」

つまり、私はわがままでお母さんの気持ちを考えてない。非常な娘だとたしなめたのですね。これはもしかすると、世間一般の人の思いなのかなとも思いました。

でも、私は自分の生き方を犠牲にして、母の人生を優先することはできなかったです。まず、自分の人生が先だと思っていました。

これを聞いたら、あの時の母は、なんてひどい娘だと母は思った思います。

でも、私は自分は間違っていないとう確信がありました。

なぜかというと、自分が自分のキャリアを犠牲にして、母の意向を優先すれば、その時は母にとって良い結果をもたらすかもしれません。ただ、私はいつか、母にも同じ犠牲を求めるようになります。

「自分もがまんしているから、お母さんもがまんして」

こんな人生はお互いに楽しいでしょうか。

私は、自分のためにだけでなく、母のためにも、やはり、自分のキャリアを優先するべきだと思いました。

そのかわり、私ができる最大限の世話をしようと思いました。

実際に、私は、働きだしてから、土日はすべて母の時間に使うことにしました。いつも週末は母の特養へ出向き、一緒にご飯をたべたり、でかけたりしました。

そのために、普通の日は職場から家に帰らずに、大学の研究室で泊まりこみで仕事をして、土日がフリーになるように仕事をしました。

結果、このやり方はうまくいきました。

私も母もとてもハッピーな週末をいつもすごすことができました。

もし、母と一緒に暮らしていたら、仕事がうまくいかずストレスがたまり、そして結果として私は、母には優しくしてあげることはできなかったと思います。

私は自分の生き方を優先することで、特養という母が当初望んでいた場所ではなかったのですが、そこでの母の「尊厳ある生き方」を全面的に応援することができたのです。

でも、もちろんここまでに至るには、母の努力と特養のスタッフの力がありました。

次は、そのことをお話ししたいと思います。

ということです。ではでは。





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