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あじさい 2周目

「読んでも、いいですよ。」

そう言うのを聞きながら、マンションの周りをもう一回歩いた。すぐそばにある幼稚園のフェンスに取り付けられた卒園製作のあおむしがとても上手だ。目も口も曲がっているけれど、それがまたいい。

「上手ですよね。」
「そうなの。いつも一人で散歩するんだけど、ここを通るたびにかっこいいなと思いますよ。」

歩く私たちのそばを電動アシスト付き自転車が通り越していく。
坂の多い町だ。

ほとんど段差のない玄関を入ると、明るい色のフローリングに陽が差している。とても喉が渇いているような気がした。奥へ進むと、大小さまざまな色、形の本棚がある。主にコミックの棚。布張りの全集を置いている棚、彼が愛する歌人の本だけのコーナーなど、よく整頓されている。

「これはいい棚…ここに住みたい。」
「あはは。」
「住みたい、は変か。合宿したい。」
「あはは。何部の合宿?」
「わかんない、図書委員会?だってこんなにたくさんあるんだから。」
「いい棚と言ってくれて、ありがとうございます。」
「お茶かお水いただいてもいいですか?」
「お茶を淹れます。友達に教えてもらった面白いお茶があるから。」
「あ、煙のお茶でしょう。」
「そう。煙っぽいフレーバーのお茶。」
「どんな感じだろ。楽しみ。」

本だけではなく、CDもレコードも、VHSもカセットテープも充実していた。テレビの目の前のソファに腰かけて、不思議なお茶をいただく。燻したような香りで、強烈なくせがあるのに、悪くない。
「うん、おいしおいし。」
「あ、オードリーのDVD観る?」
「観る!」
「OK。」

ソファはしっかりとしたつくりで、弾力がある。隣に腰かけたようだったので、私は遠慮をして床に降りて座り直す。コンタクトレンズが乾いているような気がしたので、よく効く目薬を点す。ハンカチで目元を押さえつつ、彼の座る方に目をやると、一瞬、目があったような気がした。

「あのさ、」
「うん、」
「小さい頃、家族とか、それ以外でもかまわないんだけど、親しい人たちからなんて呼ばれてた?」
「あ、それは今とさほど変わらず、同じかな。」
「そっか。」
「あなたは?」
「私は赤ん坊の頃から大人になるまでずっと、こっちゃん。ことえだからこっちゃん。」
「こっちゃん。」
「そう。」
「ほいじゃあ、こっちゃんの一番古い記憶ってどんなもの?」
「呼び方変えるの早……」
「別に良いじゃないの。」
歯を見せてケタケタと笑う。年齢よりもだいぶ若く見える。というより、年齢の見当が全くつかない。肌が白くてきれいだから、ティーンエイジャーの女の子のようにも見える。年相応の目尻の皺が見えると、ロシアあたりの老婦人のような愛らしさもある。中性的、というのだろうか。神経質そうに切り揃えられた襟足とは逆に、前髪は重く、目にかかりそうになっている。だから視力も悪くなるのだ。

「記憶ねえ、」天井を見上げてしばし考えてみる。答えるより先に
「僕はねえ、」と割り込んでくる。せっかちだ。
「私のターンじゃないの?」
「ぶぶぶぶ。まあ、いいじゃない。」
「暖房の効きすぎたおばあちゃんの部屋で缶のクッキーを食べた。」
「へえ、なにクッキー?」
「レモンみたいな酸味のある味で、たぶん外国のやつ。はいからなおばあちゃんだったから。母さんに頼んでおつかいしてもらってたんだと思うよ。」
「失礼だけど、まだご存命?」
「いえ、僕が高校生の時になくなったよ。おしゃれな人だったね。妹には内緒で一枚食べさせてもらった気がする。それがなんだか嬉しいんだよね。子ども心には。」
「へえ、いいね。なんだか。」
「ま、妹にも同じようなこと言って食べさせてたんだろうけどね。はい、こっちゃんのターン!」
「うーんとね、ひいおじいちゃんが朝起きてきて、まず洗面所に行くのね。」
「うん。」
「それを私は後ろからヒタヒタヒタ…と忍び寄って物陰からジーっと見てる。」
「ひいおじいちゃんは気づいてる?」
「もちろん。ほいで、鏡越しに目があったりする。でもその時には笑ったりしないの。往年の映画俳優みたいにかっこいい顔を崩さずにディップ?あのベターっとしたやつ。」
「うん、」
「それを鼈甲の櫛で撫でつけて…」
「緊張するね、」
「そうなの。意味のない緊張感出すのよ。それも演出なんだけど、」
「ほいで」
「ほいでね、ビシィっと、決まったら、天に届くような大きな声で」
「で」
「コッツ!!!!おはよう!!!!!」
「すごい挨拶だ。」
「ふふふ、そうなの。ただの挨拶なんだけど、元気があるというだけで子どもの私は嬉しいのよ。もう朝から笑って。たぶん生粋の明治男なんだけど、鼻が高くて外国人みたいなおじいちゃんだった。たばこ、コーヒー、ウイスキー、パートのおばちゃんたちを冗談で笑わせて、なんか色気があって。まあ、その特別な挨拶の後は隠居で若夫婦とこっちゃんと一緒に納豆食べたりするんだけど。あ、自分でこっちゃんて言っちゃった。」
「うん、」
「あと、ご自慢のバイクに乗ってどこかに出かけてたね。ひいおじいちゃんは。」
「うん、」
「あと、コッツは鷹揚な子だなあっていつも猫可愛がり。ただおとなしくてぼーっとしてるだけの赤ん坊なんだけど。赤ん坊と言っても2歳から3歳の間くらいかな。」
「うん、」
うん、と言うたびに、ソファから床に移動しているのだった。彼はテーブルの上のリモコンでDVDの音量を下げるのだと思った。
「あと必ずヤクルトの蓋取ってくれたよ。」
ヤクルトの「ふた」のタのところですでに息はできなくなっていた。「ぴいちゃん」と胸の中で曾祖父を思ったあと、すぐ消した。(続く?)

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