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不気味な湖のほとり

都会から一時間くらい山あいに入ったところにある湖のほとりの事務所に勤務していたことがある。住んでいた住宅は小さな事務所の横にあった。湖のほとりは温泉地だった。事務所の近辺で住んでいる人といえば、温泉の職員や従業員などの関係者、駐在さん、小学校があったので何軒かの教員住宅に住む先生とその家族、あとは別荘として住んでいる人たちくらいだった。コンビニがなく、自動販売機も県道沿いに一台しかなかった。温泉旅館やホテルがかたまっている一角に食堂が何軒かあった。湖がきれいだったので観光に来るなら良いところだろう。夏はまだ良かったが、冬になると日が短く、真っ暗な中で住宅にこもって過ごしていた。夜は寂しかった。

ランニングが趣味だったので、その土地で勤めはじめてまもない頃、仕事終わりの夕方、走りに出てみた。県道沿いに進んでいったが左右は深い森だった。外灯もなく真っ暗な山道だった。夜の鳥がホーホーと鳴いていた。風が吹いて笹やぶをゆらした。クマでも出るんじゃないかと思い怖くなった。早々に家に戻り、それからランニングをやめてしまった。

一年目は何事もなく過ごしていたが、二年目になって、自治連合会と呼ばれていたいわゆる町内会の班長をさせられた。担当区域に20軒ほどの家があり、配布物をポストに入れてまわるのはまだ良かった。しかし、お祭りの寄付集めなどは、1軒1軒説明してまわらなければならず、不在の家に何度も足を運んで苦労した。また、長く住んでいる温泉の関係者たちから、よそものであるわたしは、ことごとくつらくあたられた。

冬のある夜、眠っているとギーギーという物音で目が覚めた。外の住宅の壁を何かがこすっていた。不気味さにふるえあがった。冬になるとたくさんの野生のシカが、群れになって湖畔にあらわれていた。外の壁をこすっているのはシカの角や身体だと自分に言い聞かせた。しかしもしクマだったらどうしようと思った。クマが窓をぶち破り、この寝室に侵入し、食い殺される自分を想像して、ふるえながらふとんを目深にかぶった。気がついたら朝になっていた。外に出て壁つたいに観てみると、雪の上にたくさんのシカの足跡がついていた。

春の湖の魚釣りの解禁日には、深夜二時から地元住民の有志によるみまわり活動があった。町内会の関係で出なくてはならなかった。数人でベストを着てボートに乗り込み湖をまわった。木船やゴムボートに乗った釣り人たちに向かって、内水面漁業組合の担当者がメガフォンで、可漁区域外の通告などをしている。水をかいて進むボートから湖の水面をじっと観る。水が冷たいため、おぼれて死んだ人は浮き上がってこないらしい。湖の底にじっとしているたくさんの白い死体を想像した。朝の八時くらいになり、みまわりは終了し、岸にあがった。そのまま事務所に行き勤務した。

住む土地の寂しさや地元の人の冷たさなどにたえきれなかったが、さいわいにも二年の勤務で転勤になりほっとした。青いきれいな湖だったが、当時勤務していた頃は、写真を撮る気にもなれなかった。

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