キリストの冥府下り
「冥府」と「陰府」の語が混在していますが、参照している2冊の本のそれぞれの訳語の違いの問題です。冥府の方がハデスという言葉の訳で、よりキャラクター化されているニュアンスが強いでしょうか。
金曜日夕方にキリストは十字架刑で死に、土曜日は1日墓の中にいて、日曜日早朝復活します。死んでいた間も彼は活躍しました。旧約聖書に出てくる大勢の義人達を冥府から解放し、パラダイスに連れていっていました。
昔からのすべての死人がいる冥府で、ちょうど夜中頃、そこの暗闇の中に太陽の光の如きものがのぼり、輝きました。父祖アブラハムは他の族長達、また預言者達と一緒に、「この輝きは偉大なる光から来ているものだ。」と語り始めました。
そこにいた預言者イザヤが言いました、「わたしは生きていた頃預言して言ったものだ、暗闇に座する民よ、大いなる光を見よ、と。」
ついで、荒野から来た禁欲洗礼者ヨハネが言いました、「神の御子がわたしのもとにきた時に、この手でヨルダン川であの方に洗礼をほどこしたのだ、父なる神の愛する独り子である故に、このようにあなた方のもとに来給うた。」
原初の父アダムとその子セツが進み出て、セツが言いました、「父アダムが死にそうになった時、パラダイスの入口の近くに行き、回復のために天使からオリーブ油をいただけるように神に祈っていると、主の天使が言いました、世界の創造の時より5,500年たった時に、地上に神の子が降りてきて、オリーブ油を塗るだろう、今はそうすることが出来ない、と。」
ハデスがサタンに言いました、「おい暗闇の世継ぎ、して滅亡の子の悪魔よ、俺はごく最近ラザロという死んだ奴を呑みこんだが、1人の生きている人間が言葉を口にするだけで強引にそいつを俺の中から引き出していきやがった、そいつが今来たようだ、他の奴まで連れて行かれて、死人は1人も俺の所に残らなくなるぞ。」
サタンはハデスに言いました、「何でも食ってあくことを知らぬ冥府よ、俺はこわくなんかないぞ、ユダヤ人共を動かして、あいつを十字架につけさせてやった、だからあいつが来たらしっかりつかまえろよ。」
すると、雷のように大きい声がして言いました、「永遠の戸よ、あがれ、栄光の王が入る。」すると冥府の悪霊達が守っていた青銅の戸はくだけ、鉄のかんぬきと錠はつぶされました。
預言者ダビデが言いました、「まだ私が世の中に生きていた頃、汝らの長よ、戸をあげよ、と前もって預言して言っておいたのを知らないのか。」
そしてしばられていたすべての死人は、その縄目からときはなたれ、冥府の一切の闇が光に照らされました。キリストはサタンの頭をつかまえ、これを天使達にひきわたして言いました、「この者の両手両足、首と口を青銅でしばりあげよ。」そしてサタンをハデスに渡して言いました、「我が第2の来臨の時まで、この者をしっかりとらえておけ。」
そして、キリストはアダムを始め、族長、預言者、殉教者、父祖達を連れて冥府からとび出して、パラダイスにおもむき、彼らを大天使ミカエルに手渡しました。
パラダイスでは2人の高齢の人、死ぬことがなく、したがって冥府にくだったこともなく、天に挙げられて、そのままパラダイスに住んでいる神様のお気に入りのエノク、テシベ人エリヤが、彼らを出迎えました。
以上のような話が「ニコデモ福音書(ピラト行伝)」という新約聖書外典に載っています。キリスト教はイエスが登場する新約聖書と、それ以前の旧約聖書を両方とも聖典としていますが、イエスの登場以前に生きた義人達はどうなるのだろうと、古代から皆、疑問に思ってきたことでしょう。それに対する答えのような話です。この外典は人気があって広く読まれたらしい。
考えをめぐらせて、キリスト教が布教される以前など、教えを知ることが出来ない環境下にあって、立派に生きた人はどうなるのか、日本はキリスト教と出会うきっかけが少ない環境下にあるし、キリスト教とは関係なく立派な人もいるし、教会に通っていても駄目そうな人もいました。「キリストのほかに救いなし」などというキリスト教の教派は多いですが、わたしも若い頃、そうした教派の中にいて悩みました。しかし、
とのことなので安心できます。
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