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まことの苦しみ・まことの体

めでたし、童貞マリアより生まれ給いしまことの御体よ、
げに人のために苦しみを受け、十字架の上にていけにえとなり給いし御者よ、
御側腹(おんわきばら)はさし貫かれ、水と血とを流し給えり。
願わくは臨終の戦いに当りて、あらかじめわれらに天国の幸いを味わしめ給え。
ああ甘美なるイエズス、
慈悲深きイエズス、
マリアの御子なるイエズスよ。アーメン。

60年以上前のカトリック教会の祈祷書、「公教会祈禱文」の「聖体に対する祈」の項にある祈祷文である。この祈祷文はカトリック教会に古くから伝わる伝統的な典礼式文で、有名なところではモーツァルトがこの祈祷文を歌詞にして、美しいメロディの合唱曲を作っている(「アヴェ・ヴェールム・コルプス」K618)。キリストの肉に見立てたパンを食べ、血に見立てたぶどう酒を飲む儀式は、イエスが逮捕・処刑の前夜、弟子たちと一緒に食事をした「最後の晩餐」の場面で、記念として弟子たちが続けていくようにと、みずから語ったものだ。カトリック教会ではミサの中心はこの聖体拝領である。カトリック信者はミサで、パンが実は本当のイエス・キリストの「まことの体」であることを神秘的に理解し続ける。

祈祷文の2行目に「苦しみ」という表現がある。イエスは十字架の処刑という「受難」にあったということが語られている。戻って1行目の「まことの御体」という表現によると、イエスの肉体は普通の人間と同じ「まことの」肉体だったと強調している。イエスの「身体性」や「受難」がみせかけではなく実際にあったのだと強調する必要があった。それはそのことを否定する異端があったからである。「キリスト仮現論」と呼ばれるこの異端は、正統的な教会にとって脅威となった。

イエスは、歴史のある時点で誕生し、家族や弟子たちと生活し、(その後復活したと言われているが)死んでいった。この人々とともに歩んだイエスは「幻」であり、最初から最後まで肉体を持たない霊的な存在だった、というのが仮現論だ。「物質的・肉体的なもの」と「霊的なもの」とを区分し、両者は相容れないと考える二元論の立場のグノーシス主義と同義ではないが相まって、キリスト教の最初期からその片鱗をのぞかせていた。「物質的・肉体的なもの」を悪であるとする立場からは、「イエスが神であるなら、神が悪である肉体を持つことは考えられない」といった教説が生まれることになる。仮現論ではイエスの肉体は幻なので、十字架で苦しんだり死んだりすることはない。つまり「受難」はないのだ。「復活」もなく、当然の帰結として「人間の身代わりとして十字架にかかった」という贖罪信仰も成り立たない。

ゴルゴタの丘で十字架にかかって苦しんでいるイエス。しかし、このイエスは別人がイエスによって姿を変えられているのだ。刑が執行されている十字架の横に立ち、笑っている男がいる。この男は姿を変えたイエスだ。苦しむイエスの姿を眺めていると思っている私たちの無知をあざ笑っている。

このような文章が残されている。
キリスト教の長い歴史の中で、たくさんの異端が起こり、正統的な教会はそれを断罪してきた。異端に対抗することで正統的な教義が確立されていった。


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