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続・映画『MOTHER』考、言語表現の限界~102日目

他人の気持ちはわからず、自分もどうなるかわからず

 ここ1、2か月、どこかの部屋から家具を引きずったような音を一日に数十回聴こえるようになり、極めてうるさい。少し前に、館内に「ひきずるような音へのご注意」の掲示があったので、空耳ではないと思う。
 非常にネガティブな感情がわきあがってきた。
 明日「も」管理人に言おう。もう数度言っている。うるさい奴と言われるだろう。しかし、言わねばならん、自分を守らなければいけない。赤ん坊の声がうるさい、とかいう類の話ではない。管理会社に言おう。
 こうやって、自分はクレーマーになっていくのか
 いつ、自分が犯罪に引き込まれるかわからない怖さの中にも、いる。

 自死のニュースを聞くと、今現在、自分自身がそんな心境に追い込まれていないけれど、それがゆえに自分は他人を見捨てていないか、追い込もうとしていないか、怖くなる。そして、同時にそう思うことで、自分を追い込んでいないか、怖くなる。
 他責と自責が同時に起こる
 そんな状態が自分に起こることは精神的危機だが、それを自覚し、俯瞰しようとすることが、今の自分はできる。未来は知らない。

 ……と、あれこれ考えてしまう人間が危ないのだ、とまた言い聞かせる。

映画『MOTHER』の素の事件の本を読む

 そんな思いを重ねながら、読んだばかりなのが、先日見た映画『MOTHER マザー』(7/15の日記)の、着想のもとととなった埼玉・川口で17歳の少年が祖父母を殺害した事件の裁判傍聴と少年や周辺、専門家への取材をまとめたルポ『誰もボクを見ていない』。毎日の記者(女性)、山寺香さんが書いた。

 そういえば、『MOTHER』を見た翌朝、うつらうつらと見た夢で、自分は久々に他人を愛して欲している感覚を思い出した。淫夢ではなく、愛している人と引き裂かれる思いを、夢の中で感じていた(すぐメモした、だから思い出せる)。これは、『MOTHER』が、自分の中の、眠っていた何かを揺り動かしたのだ、すごい映画だな。自分が受け取ったものの重さ。

 映画公開に合わせてだろう、文庫本が出ていた。タイトルは『誰も知らない』をめちゃ意識しているよな~。読んだ。悔しいけれど、素晴らしいノンフィクションだ。しっかり調べて書いてあるし、自らの限界を踏まえた提言もある。この記者には今後ももっと書いてほしい。

 少年(当時)が、母による「殺害指示で(一審は指示はないとし、二審はあるとした)」、お金を得るために、母方の祖父母を殺害した事件。

 そのうえで、この本を読んで自分が感じたポイント、いくつもあるが、大きくは2つか。

少年の知的能力は「普通」以上、ただし「認知的共感性」の未発達

1.自分の勝手な推測だが、少年の知的能力は高く、「普通」(あるいはそれ以上)。語弊を恐れずに言えば「まとも」だ。言語を使って、自分の考えるところをきちんと構成立てて表現する能力がある(手紙、手記、裁判での陳述などから見ると)。小学校4年からきちんと教育を受けられていないのに、そうしたことができるのは、もともとの能力が高いからだろう。
 
 では、「たとえ母親の指示があっても」殺人を犯さない選択ができたのではないか
 このことについては、この本でいくつもの示唆がある。
・少年自身が(逮捕・拘留で離れた母親から手紙が来て)こういう考えをする人なんだ、と思っている(被告人質問)※多分、離れて初めて、母親がどんな人間かを認識した
・ネグレクトによる「学習性無力感」(裁判で精神科医)自分の力でコントロールできないストレスにさらされ続けると無抵抗になる
「認知的共感性」の未発達 目の前にいない人や会ったことのない人の気持ちや意図をうまく推測することができない(一緒にいた父親違いの妹は可愛がって養育していた)

 この少年は、適切な支援で更生できる可能性がある、と見られている。懲役15年。強盗殺人、窃盗など。

同じ空間を生きていたが、同じ世界を生きてなかった母親

2.この本ではあまり触れられていない母親(少年からの伝聞や、裁判での途切れ途切れ証言しかない)。懲役4年6か月(強盗、窃盗)

 少年に親戚や仕事先から金を借りさせ、パチンコ代やホテル代に使ってしまう、自分はのらりくらり働かない、の繰り返し。先のことは考えず、面倒臭いと行方をくらます。しかし、新しい男ができて少年を1か月完全放置した(ここで少年に「見捨てられ不安」が生じ、母親の言うことを聞くようになったと推測される)以降は、少年を絶対に手放さない。
 映画『MOTHER』の企画・製作・エグゼクティブプロデューサー河村光庸さんが、この「素材」に目をつけたのか
 それは、やはり、目のつけどころが、いい、才能だろう

 この本(あるいは、連載記事や報道)を読むと、少年の置かれた状況の過酷さが浮かび上がり、児童虐待の支援問題につながるのだが、
 その一方で、母親は、闇のような雲をつかむような、得体の知れない存在としか、いえない
 少なくとも、言語、書き言葉、文章、といった類のもので、伝えられないのか
 そこを切り取って、映画にしたんだな、と、自分は感じた。
 映像で、なんとか、伝わる、伝わったかもしれない、母親

 ここから下は、素人の勝手な想像なので、ご容赦を。

 そして、語弊を恐れずにいえば、母親は、少年のいた「まとも」な世界にいない。
 平均的な言語による論理構成がきちんと通じる世界に住んでいない。
 少年と、同じ空間を生きていたが、同じ世界(言語を通した論理構成で進められる世界?)を生きてなかった。
 
 従って、何を「言っても」行動は変わらない。
 じゃあ、どうすれば、の答えは。専門家が探していると信じる。

 そして、少年は「まとも」だった。祖父母に関し、書籍ではよくわからないが、フィクションである映画では「まとも」に描かれていた。

 その間にいる母親は、養育や教育でそうなったのではなく、おそらく脳機能の関連ではないか(先天的か、後天的か、は不明)。それは、なかなか、言語では断定しにくい、難しい。

 がゆえの、映像

 書籍だけ読んでも、どうも、その祖父母が(再婚ではあったが)、「通じない」母親を作ったとは思えないのだ。

別の本への小さな違和感⇒モノローグ形式の限界?

 たまたま『ある少女にまつわる殺人の告白』(佐藤青南)を読んでいた。たまたま、だが、児童虐待がテーマだ。第9回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞受賞の、これもまた、よく調べた力作だ。
 しかし(少しネタバレになるか)、インタビュアーに対して、複数の人物がモノローグ(独白?)で語っていくモノローグ形式、の中で、ひとり、違和感を感じる人物がいた。

言語で論理的に話せるはずのない人物が、そうやって話す矛盾

 また差別と言われるのを恐れずに言えばだが、出自や経歴、やったことから考えると、その人物は言語を使った論理構成にそこまで長けていないはずだ(それが決めつけだという批判は置いておいて)。しかし、話す内容は(べらんめえ調などを入れるのは別にして)、かなり内容に具体性があり、描写力がある。もちろん、インタビュアー側にそれを引き出す能力があったという前提なのだろうが、なにかおかしい
 『MOTHER』で、「通じない人」について考えてきたし。

 つまり、ストーリーの都合上、その人物には、そう(言語を用いて論理的に)語ってもらわなければならないが、その人物は言語で自分の世界をそこまで論理的に表現できるはずのない人物という矛盾が生まれている。
 これは、モノローグ形式の限界ではないか。だれか研究して発表してるかもだけど。
 ひいては、言語表現の限界もそこにあるのか。

 しかし、論理的に物事を考えるのは、言語が一番有効だとは思う。

 おそらくは(何度も使うが)、『誰も知らない』『誰もボクを見ていない』の世界までは包含できたが、『MOTHER』の世界までは入ってないのでは、とか。。

 さて、そこまでにしておくか。。

少年の生きてきた10年

 参考までに
 『誰もボクを見ていない』巻末の年表によれば、少年と母親の動きは

少年の両親の別居
少年の両親の離婚(少年10歳)
アパートを追い出され母の知人男性の家で暮らす
(母に違う男ができ義父となり)静岡の旅館で住み込みで暮らす
住民票を残したまま埼玉に戻り少年は「居所不明児童」となる
埼玉のモーテルで暮らす
妹が生まれる
横浜でホテル泊や野宿を繰り返す
生活保護を受け横浜の簡易宿泊所で暮らす
少年はフリースクールに通う
簡易宿泊所から消える(フリースクールも中断)
横浜の新聞販売店の寮で暮らす
埼玉の建設会社の寮で暮らす
埼玉の塗料会社の寮で暮らす
義父が失踪し少年が塗料会社で働く
少年が祖父母を殺す(少年17歳)

 これを見ただけで、ああ、もうと思う。自分は「普通」の生活をしていたんだな、と。

 皆様のご健康を。

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