パキり随筆

 2018年6月14日 人生で初めて心療内科を受診した。

母親に受診を勧められ、クリニックは自分で探し、最初に目を付けたところには初診の電話予約で蹴られなどしたが、当時の私の心理状態を受け入れてくれる病院を見つけ、1人初診を受けに行った。

今の状況や心境を上手に全て話尽くす自信が無かったので、手帳に細かく書き留め、それを見せることにした。死ぬことを考えるのをやめられないんです。優しそうな先生(第一印象は穏やかなパグ)と話をした。診断は、医薬品治療を必要とする鬱状態とのことだった。

ストレス社会なんて言葉が存在するご時世だから、診断などされていなくても鬱病の症状がある人なんてごまんといるのだろう。それでも、「そんなの生きてれば誰にだってあることです」と言われて帰されたりしなくて安心した。死にたいのは病気のせいだった。


その日は抗鬱剤を処方され家に帰った。しばらく決められた量を飲みつつ、様子を見ることになった。

その薬は女性ホルモンに働きかけるだかなんだかで、人によっては母乳が出ることがあるとのことだった。しばらく飲んでみたが、特筆して心境に変化は訪れなかった。母乳が出ただけだった。


だんだん眠れなくなっていた。寝たい時間に布団に入り電気を消すと、心の声のボリュームがぶっ壊れてしまうのだ。止められない思考が雑音として鼓膜を揺さぶる感覚で、眠らせてくれなくなった。体力的な限界により気絶する形で眠る日々が続いた。

次の通院で上手く眠れないことを相談すると、睡眠薬を処方してくれた。服用して15分ほどで眠気が訪れるということだった。

すんなり眠れるだろうという期待とともに、23時という健康的な時間に睡眠薬を服用し布団に入った。しばらくすると、一人乗りのボートに仰向けに横たわり、穏やかな海の上で揺られているような感覚を覚えた。そして、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

翌日、食べるのを楽しみにしていた杏仁豆腐の空のカップが目に入った。食べた記憶がほぼ無いが、どうやら起き抜けに食べたらしかった。健忘作用というらしい。寂しい気分だった。


その夜、昨日の海と心地よいボートの上でまた眠れると思い、少し楽しい気分で布団に入った。

様子がおかしかった。穏やかな海もボートもない。その代わりに、自分の部屋で知らない人達が宴会に興じていた。とてもじゃないけど五月蝿くて眠れない。知らないおばさんに「アイスが食べたいんだけど」と声をかけられたので冷蔵庫にアイスを取りに行き、訳も分からず自分で食べた。いつの間にか朝になっていた。

昨夜の宴会は幻だったようだ。一時は五月蝿くて眠れないままアイスを食べるなどしたが、いつの間にか意識を失うように眠りに落ちていた。睡眠薬の効果は抜群だった。そして、副作用の方も抜群に効いていた。

今日は宴会が開かれずに、また海に揺れられたらいいなと思いながら布団に入ってみると、机横の額縁に飾ってあるわたしのイラストの女の子に声をかけられた。当然だが何じゃこりゃ、となる。が、大して不思議に思わないのが不思議だ。布団から出て額縁を手に取り、行儀悪く机に腰掛け、彼女と熱心に話をした。楽しくて、彼女に星を見せたくて、ベランダに連れ出した。煙草を吸いながら沢山話をした。何の話をしていたかは一つも覚えていない。いつの間にか部屋に戻って眠っていたようだった。親が見ていた。そして私は幻覚を見ていた。


私が処方された睡眠薬には、用法用量を守っても副作用として幻覚や幻聴が起こる可能性が0.1%程あるとネットに書かれている(信憑性は知らん)。もしかしたら穏やかなパグ先生にも言われていたかもしれない。私には副作用が顕著に出た。それがなんとも楽しかった。

考えてみれば、この時期の私が1日に口にできた食事量は約500kcalが限界で、身体的には慢性的な空腹状態だったはずなので(脳ミソの方ではその認識が無かったが)、薬が効き過ぎるのも納得できる。食への興味の激しい減退は、生そのものに対する執着の減退と比例して起こる場合が多いのだろうなと思う。(元来私は食虫に興味を持つ程度には食に対して意欲的である)

当然体重はみるみる落ちていた。


幻覚や幻聴が起こっている間、これは睡眠薬によるものだと自覚していた。しかしその間、私の心を支配し蝕み続けていた暗い感情に、気付かないでいることができた。

毎日睡眠薬を飲むのが楽しみになっていた。今日はどんなものを聞いてどんなものを見るかしら、という期待と共に、錠剤を嚥下した。薬の飲み方や目的を、間違え始めていた。

睡眠薬を処方された時、寝る準備を全て終わらせてから床に就く直前に飲みなさいと言われていたが、それを守らなくなった。帰宅道中に飲んで、支離滅裂なうわ言をつぶやきながら家に帰ったりした。その時は、壁紙を何色にするか相談していたと思う。黄色と紫で迷っていた気がする。瞼の裏側が、瞬くたびにちかちかと色を変えていた。


何も見ず、何も聞こえず、眠れもしない日もたまにあった。そんなとき、朦朧とした意識の中で1錠、2錠と薬を追加したりしていた。次の通院日を前に薬を切らす事が多くなった。

薬を切らして眠れなくては困ると思い、次回通院までの応急処置的にドラッグストアで市販の睡眠導入剤を買って服用してみたりしたが(ここでも用量を守るつもりがなかった)、全身が痒くなって眠れたもんじゃなかった。


季節は夏真っ只中。異例の猛暑日が続いていた。暑い上に体力の無さ故バテやすい私は、適当な飲食店で一息つこうと席に着くのだが、ソワソワしてまるで落ち着く事ができなくなった。通い慣れた喫茶店で冷たい汗をぬぐいながら、おかしくなってしまったんだと思った。そんなことを繰り返してるうち、抗不安薬を処方された。

ここまで来ると、その薬が効く効かないはもう関係がなくなる。薬を嚥下する事自体が安心材料となり、その弾数が増えた事に喜びを感じた。


ここで少し話を脱線させるが、当時私は、小さなベンチャー企業が運営するWebサイトでライティングの仕事をしていた。働き始めてから半年程は渋谷道玄坂上にあるオフィスに出勤して執筆にあたっていたが、精神的に満員電車に乗る事ができなくなってから自宅でのリモート作業に切り替えていた。

自宅での作業にはかなりの集中力を必要とする。生活がかかっているので、執筆スピード(つまり給料)に目標を掲げて仕事をしていた。

自分で設定した時間内に、目標の文字数を質の良い文章でもって書き上げられた時、大きな達成感を覚えた。そしてそれと同時に、耐え難い絶望感を叩き付けられるのだった。

この時の私の思考回路は当然ながら病的だったと思う。きっかけは小さなものだった。おそらく一つの小さな『終わり』が、全ての始まりだった。

この好調子もきっといつか終わる。いつか、思うように執筆できなくなる。それが不安でたまらない。そしてそれは、仕事以外でも同じだった。

日常で感じる幸せ、喜び、誰かと過ごす楽しい時間の全てを、「いずれは終わる・無くなる事」として認識し、湧き出るプラスの感情が大きければ大きい程、それに正比例した最悪の不安感と絶望感に襲われた。

それに耐えられず、全てから解放されたい一心で薬を飲んだ。用法用量なんてものを考える余地は、少しも残っちゃいなかった。容量オーバーではち切れそうな脳味噌を、オーバードーズによる錯乱で空っぽにする以外の逃げ道が無かった。


ここからは、誰にでも想像が付く展開であった。薬の多量服用だけでは飽き足らず、アルコールとのちゃんぽんを覚えた。何か大きな充実感を得る度に、その全てが『いつか終わる』ことの呪いに耐えきれず、この幸せが永久保存されればいい(1番幸せな瞬間に死んでしまえたら願ったり叶ったり)とでも思いながら、錯乱の沼に溺れるようになった。

見えない何かと会話するくらいの事はもはや日常となり、身に覚えのない支離滅裂で奇っ怪なオリジナル読経(?)がボイスレコーダーに録音されていたり、実家に帰ってきた姉に「誰連れて帰ってきたの?」とホラー映画さながらの質問をしたり、激しく波打つ自室の壁に1人爆笑したり、爆音で音楽をかけながら大暴れ(私の記憶には一切残っていないが、翌日酒に酔って暴れたと思っている親に叱られて知った。確かに身体に大きな痣ができていた)したり、挙げ句の果てには自分をカマキリだと信じ込んで自宅全域を爆走したりした。本当に、おかしくなっていた。


しかし、こんな薬漬けの毎日も案外あっさり終わりを迎えた。

その日私は、これまでにない程の幸福感と、それに伴い予定調和の如く襲い来るこれまでにない程の絶望感によって、かき集められるだけのアルコールを自室に持ち込み、目に入った全ての錠剤を1つ残らず呷りに呷った(この手の処方薬は安全のため一度に処方できる量に制限があるので、死ねるような量ではない)。

私は激しく錯乱しこれまでに無い程の大暴れを繰り広げ、慌てて部屋に押し入った両親によって救急車を呼ばれた。

気が付いてみたらいつの間にか私は机の下に立て籠もっており、狭い自室の中に知らない男が4人いた。着ている服と会話から、救急隊の人達だと理解した。

何故だかいやに頭が冴え始めた私は、オーバードーズで病院送りにされると、胃洗浄というかなり辛い処置をされる事を思い出していて、何が何でも連れて行かれる訳にはいかないと思っていた。

その時、今いる机の下の棚に入っている大量のカップラーメンが目に入った。(この時、食べたことないカップラーメンを片っ端から買い漁って在庫を抱えるのにハマっていた)

頭が冴え始めたと言ったが、当然まともな思考回路ではない私は、何を思ったか救急隊の人達に一つずつラーメンを配り、「どうかこれで勘弁してください」と口走って土下座していた。ここで記憶が途切れている。

翌朝自室で目を覚ました。救急隊の男達はいなくなっており、頭はぼやぼやとして、物事を深く考えることができなかった。ただ昨晩、私の愚行の全てが親にバレてしまったことを考えていた。私が目覚めたのを確認した母に、病院に行こうと言われ、黙ってそれに従った。

残った薬のせいだろう、その日の病院での事はあまり覚えていない。パグ先生に、お酒と一緒に薬をたくさん飲むのを繰り返していた事、何故そうしてしまうかなどを、ぽつりぽつりと吐露していたと思う。パグ先生には通院中、だんだんと生きる事に前向きになってきたフリをしていたので、心が痛かった。コンビニで万引きをしたのが見つかり、親を呼ばれて控え室で後悔ともに懺悔しているような気分だった。

もう薬を飲むのは止めるので、処方しないで下さいと自分自信で頼んだ事で、私の薬による現実逃避の日々は幕を閉じた。今となっては、それが更生の意思によるものであったかどうか、いささか怪しいところである。

こんなことではいけない!などと、立派に改心を決めた訳ではなかった。単純にもう親に薬遊びがバレてしまっては続けられないだろうなと思った事と、当時の最愛の恋人に、薬をやめてくれと言われた事の2つが主な理由であったように思う。私自身は、薬に頼れないこれからの毎日の事を考えていた。


さて、話には聞いていたけど二十歳を超えてからの月日の流れとは本当に早いもので、この時からもう1年半が経とうとしているらしい。

いつも過剰に思考しパンクしそうになる私の頭を、きちんとファイル分けする為にとりあえずなんでも文章に書き残す習慣のある私は、溜まったEvernoteを見返していた。

そうしたら、更生してしばらくした頃書き始めたこの「パキり随筆」が、書きかけの状態で放置されていたのを発見し、今一気に書き上げようとしているところだ。

更生してから今この瞬間まで、何度ドラッグストアに駆け込みそうになる衝動を必死で抑えたか分からない(当時処方薬だけでなく市販薬にも手を出していた)。毎晩1人で夜勤中、店の窓から見える24時間営業のツルハドラッグの煌々と光る看板を、遠い目で見つめる日々を送っている。

1度知ってしまったまやかしのユートピアは、その場凌ぎにしかならないと理解はしていても、一生私に手招き続けるだろう。しかし私は救急車を呼ばれた1年半前のあの日以来、一切の薬物乱用をせずにここまで過ごしている。


人生とは絶望の繰り返しである。辛い事は何度でもやってくることが必然であり、明けない夜は無いと言われるように、暮れない日はないのだ。止まない雨が無かろうが、雨は何度でも降ってくるのが世界の理なのだ。

1年半の期間をもって、私はそれを、そういうものとして受け入れ、諦める事ができるようになった。人生とは、諦めの繰り返しである。

今感じている幸せは、いつか必ず終わってしまうものだと上手に諦めることができるようになり、ネガティブながらも私は今日を生きている。

終わりを待つだけの毎日を、どうか愛せますように。

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