第三回ゴイサギ読書会「レセプション」高瀬一誌 レポート
開催日時:2020年6月6日(土) (土)15:00~17:00
開催場所:インターネットミーティング(Zoom)
出席者:三潴忠典(レポータ)、岩尾淳子、牛尾今日子、梅原ひろみ、
大森静佳、河野美砂子、近藤かすみ、たじま、谷とも子、 中津昌子、服部崇、早瀬ちの、藤田千鶴、吉田恭大、吉岡昌俊、 いわこし(記録) 以上16名
【感想】
・広告業界で働くものとして共感する歌
・スミレ幼稚園はおもしろいことを言っていたがレセプションは 本気だと思った
・キャッチーな歌ではない。描写のうたがよい。視点の独自性。主体の 特権性より視点の特異性。連作としてとらないと見逃すところがある。
【句の欠落について】
・句の欠落という感覚はない
・三句欠落がよく言われるがそれ以外にもいくつかの特徴的な欠落があつ
・韻律がいったりきたりするようで、読んでいて疲れるところがある
・短歌の定型を踏まえての欠落。崩しているというのとも違う
・定型でないことにとまどう
・本人は短歌人の同人へは定型を守るように言っていたよう
・三句欠落を中心に歌が揺れるよう
・音楽家のシェーンベルクは初期は抒情だったがだんだんとはずれて行って 無調になり、十二音技法に到達した。そういった感じに似ている
【ものと人間】
・人間とはなにか、人間じゃないもののが人間のふりをしているような
・人間を読んでいるがものように見ている一歩ひいた視点、人が人っぽく ない
・人間をもののように見ているのとは逆にものを人間のように見ているので は?
・事物と人間が同列にあるところがよい
↑複数の方からの感想でありました
・初期の定型を守る歌からがらった変わった。なにか大きな出来事があった のではないか。一番言いたいこと、素裸の姿をはずして歌う。生きている ことへの照れがあるのでは?
きれいな抒情をさけて、大きな空虚から明るさ。短歌を文学としてとらえ ていたことから芸術ぶることをいやになったのでは?まよいを吹っ切るの に時間がかかったのでは?表現の可能性を手探りしているよう
・禁欲的、美意識の徹底
【好きな歌や良い歌としてあげらた歌】
「かくて昵懇の間柄にならん水かけて自転車のすみずみまで洗う」
・自転車のうたがよい
「火の神様の札何枚もはりつけし母をいまごうごうと焼く」
・このうたはすごいなとおもいました
「まるく金魚鉢置くまるくならぬ部屋からなかなか出られぬ」
「ホトケの高瀬さんんと言われしがよくみればざらざらでござる」
・自分をどう見られているか、自己言及のうたがよい。また、そういう うたが多い
「はくものが皆無なるまでつづけてもおとこなかなかちいさくならず」
「まず足がなくなり手がなくなるときまで生きてゆくかも知れぬ」
・面白い
「なまぐさきかたちの手をなす仏像はさっきまで何かなしたり」
・色っぽいと感じる
「線路歩いてゆきかき消すごとく高瀬一誌がなくなるもよし」
・意味がいまひとつよくつかみ取れない
・放浪の感覚 「どうもどもしばらくしばらくとくり返すうち死んでしまいぬ」 にも通じる
・世界を俯瞰している
「音楽の起源は月とこの哲学者くたくたの全身で言う」
・はじめて読んだ。情緒的になっていないが見方が温かい
「胃袋を寝かせるかたちに工夫するのを人にみられし」
「右手をはかりにのせてたのしむところを人に見られる」
・人にみられる歌。感触や体温が感じられる、特に手がでる歌
・眼鏡の連作がよい
↑複数の方からの感想でありました