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枯れた花束を大切に抱える男


車の中にいた男は花束を抱えていた。
その花束は見事に枯れている。水分は抜けきって、乾いている。
男は枯れた花束を大切そうに両の腕で包みこんでいる。
私は我慢ができなくて、車の窓ガラスをコンコンコンと叩いた。
男はこちらに気づいたようで、ゆっくりと窓ガラスがさがっていく。
「はて」
「ご主人、わたしはいてもたってもいられなくなってしまって、大変失礼だとは承知の上でね、こうやって貴方の車の窓ガラスを叩かせてもらいました。
どうしてもね、知りたいと思っているのです。なぜ貴方は枯れた花束をそんなに大切そうに抱えているのですか」
男の瞳は微動だにしない。
こんな話をきいたことがある。
船乗りが絶望するのは嵐の時ともう一つあって、それはあまりにも長い凪の時なのだという。海に生きる人たちの多くは白く泡立つ波に心が躍るのだ。
風もなく、動かない静かな海には深い虚無がある。
「わたしは」
存外に若い声が空気に割り入る。
「アナタが何をフシギに思っていて、何をお知りになりたいのかがよくわかりませんが、かといって邪険にするのも申し訳ないように思うのです」
男はゆっくりとまばたきをする。その時私は男の瞳が深い鈍色であることに気付くーー。
「そうですね、彼女に出会ったのは十のときでした。わたしが住んでいた家の向かいに引っ越してきたのです。
七つ上の彼女はとても面倒見がよい人で、留守にしがちだった私の両親にかわってよく面倒を見てくれました。私は一人っ子だったので、姉ができたようでとても嬉しかったのを覚えています。
ある日、級友に言われました。君がうらやましいと。僕にはそれがなんのことなのかわからなかったのですが、彼がいうところによると彼女が美しいからだというのです。その美しい人と親しくする僕がうらめしいのだというのです。
僕は大きな衝撃を受けました。そんなこと一度も思ったことがなかったのです。ただ、向かいの家に住んでいた、姉のような人、それだけの関係です。幸せと思うことはあっても、級友が言う様な感情をいだいたことはありませんでした。
その後はなんの縁でしょうか、わたしと彼女の付き合いは思いのほか永く、ながく続きました。
彼女が心から愛した人と結ばれたときも、それを見送ったときも、わたしはずっと見守ってきました。それでもね、特別な気持ちなんてなかったんです。
つい先日、その彼女が亡くなりましてね。
寿命を全うしたのです。
命を使い果たし、かわききったあの人を見て私は初めて思ったのです。
ああ、美しいと」
枯れた花が音を立てる。力んだ腕が震えている。
私は一礼してその場を離れた。

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