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見えない凶器

 見えない凶器を持った人間。それが私の家には住んでいました。玄関を開けたすぐ向かいの部屋。2LKのアパートの一室。その人はたった一人でそこを占拠していました。
幼い私の夢は、自分の部屋を持つことでした。2LKのアパートですから、ひとつの部屋を占有されれば、あとは1LKしか残りません。あと一つの部屋は寝室として使っていたので、私の手には入りませんでした。キッチンを私だけの物にするわけにはいきませんでしたし、そうなるとリビングしか残りません。だから兄と二人で机を並べて、ずっと自分の部屋というものにあこがれていたわけです。
貴重な部屋の一つを独り占めにした人。それは父でした。彼は仕事から帰るとすぐにそこに閉じこもり、私たちと顔を合わせようとしませんでした。そのため、父の顔を忘れてしまう時さえありました。何かよくわからない人が私の部屋を奪っている。そう恨んだ時期もありました。
一方、自分の部屋がない分、母と兄とは嫌というほど顔を合せました。いつも隣にいて、いつも何か話して、向き合いました。だから、目をつむるとまざまざと彼女と彼の顔は浮かんでくるのです。
ある夜、わたしが小学校に上がったくらいの時でした。わたしはひどい肺炎を起こして病院に担ぎ込まれました。意識がもうろうとしている中、母と兄がわたしの名前を呼ぶのが聞こえました。しかし、父の声は聞こえません。寝室で、横の、横の、横で父は寝ていたはずでした。
あとで聞いた話なのですが、父はその時、母が懸命に起こしてかかったのに騒ぎに全く気付くことなく、高いびきをかいていたそうです。
ぐさり、と見えない何かがわたしの胸に突き刺さりました。
今はもう家を離れ、ひとり暮らしをしています。わたしをかわいがってくれた母と兄はここから新幹線に乗り、普通列車を乗り継いで、四時間かかるところに住んでいます。わたしは一人、遠く離れた場所に住んでいるのです。それでも、近くにいるような感覚がこの肌にあります。見えない何かで繋がっている、とでもいいましょうか。
今、近所のスーパーに買い物に来ています。今日は久しぶりに贅沢をしようと思い、お刺身を手にしました。とは言っても、安いマグロの赤身です。それでも貧乏なこちらとしてはささやかな幸せなのです。
るんるん気分でレジに向かおうとすると、目の前に親子連れがいたのです。お父さんと息子さん、それに娘さんが手をつないで楽しそうに歩いていたのです。そこにお母さんがカゴいっぱいに食材の詰まったカートを押してやってきて、微笑んだのです。
幽霊がいるかいないかとかそんな話が毎年なつになると盛んにうさん臭い専門家が出てきてテレビで話し始めたりします。わたし自身は目に見えるものしか信じないたちなので、馬鹿馬鹿しいなと鼻で笑うのです、それを見て。
こんなことがあるらしいよ、まことしやかにささやかれる噂話。世の中にはそういう類のものがあふれかえっています。目の前にある。自分の中では「都市伝説」だと思っていたもの。
――これ以上見ても仕方ない。そう思ってその家族から目を離しました。ぞしてレジに向かうのです。
しかし、どうでしょう。よく見たら、そんな家族がわたしの周りを取り囲んでいたのです。愕然としました。ずき、ずき。胸が痛みます。
そして、わたしは、あの時の見えない凶器が、まだ刺さったままだったことを悟ったのです。人ごみの中、静かに。静かに。

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