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個性的なあまりに個性的な

     星新一+筒井康隆風に

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #掌編小説
                  郷 朔次郎                    

 エヌ氏は哭いた。わあわあ哭いた。  
その朝、エヌ氏はいつものように妻に優しく起こされた。
つまり、パジャマの胸元にアイスキューブを一個放り込まれたのだ。
深海で大王イカに絞め殺される、という快い夢から覚めたエヌ氏が見たものは、のっぺらぼうになった妻だった。
驚愕、青天の霹靂とは突然やってくるから驚きなのである。
更に、二の矢三の矢が続いたら…。
「行ってくるでよ。」
高三の三女が、パンツが見えそうなスカートを翻して跳び出して行った。
のっぺらぼうだった。
「行かなしゃーねーべ。」
大二の次女が、のっそりもっさりと若さとダルさに溢れる足どりで出て行った。
のっぺらぼうだった。
「行くでありんす。」
この春三度目の会社勤めを始めた長女が、尻を上下左右に振り振り出て行った。
のっぺらぼうだった。
エヌ氏は食卓についていた。朝食を摂って会社へ向かうために。
そう、会社だ。サラリーマンは、何があっても出勤しなければならぬ。
妻がトースターから出して放ってよこしたパンに手ずからバターを塗り、機械的に咀嚼するエヌ氏の胸中を去来するのは、四半世紀前に封印したささやかな夢だった。
(炊き立ての銀シャリに、焼いた鯵の干物、焼海苔とお香こ、それに豆腐と油揚げ[アブラゲ]の味噌汁。あーあ…)
テレビの画面に、いかにもな感じの女が映っている。
のっぺらぼうだった。
(のっぺらぼうでも女史風の臭みは分るものだ)
女史が気取ってワンレンを掻き上げた。
(のっぺらぼうでも気取っているのは分るものだ)
気取ったワンレン女史が喋っている。
「個性を大事にすべきなんです。私なんか学生の頃、制服の強制を拒否して学校や教師と闘いましたよ。」
(学校と教師は同じだろう、この場合)
「私は断固として、私服を通しました。私の個性を圧殺されるのが嫌だったんです。」
(個性、個性、個性。そうとも、世は個性に満ち満ちている。ペラペラテカテカした人絹光沢の個性、チンドン屋の衣装の如き薄っぺらな個性に…)
「さっさと食べてよ、片付かなくて困るじゃないの。」
テレビではなく後ろから声が飛んできた。(のっぺらぼうの声は何処から出るのだろう)
首を竦めたエヌ氏は、口の中のもそもそした物を強引に嚥み下すと娘たちの後を追って家を出た。        

 再びエヌ氏は泣きそうになった。眼前に広がるのは何の変哲もない通勤風景、いつもの見慣れた光景である。にも拘わらず、街を行く女達電車に乗り合わせた女達は皆のっぺらぼうだった。
エヌ氏の目を引いたのは、むしろ男達の様子である。
男達は二種類に分かれていた。初夏の草原のような匂いを発散しているグループと、それ以外の枯れ草グループとに。
それが、エヌ氏にある泣きたい過去を思い出させたのだ。
(どうして承諾してしまったんだ。あの時断ってさえいれば…)

 その上司は上司の上司に、「シベリウスのヴァイオリンコンチェルトを弾いているレオニード・コーガンみたいに陽気な男」と評されていた。
要するに上司はそういう男であり、上司の上司もそういう男だった。
エヌ氏が、上司も上司の上司も大嫌いだったのは言うまでもない。
ある日のこと、大嫌いな上司の上司がエヌ氏に言ったものだ。
「よう、コーガン二世。」
さりげなくやり過ごしたものの、悪意の刃は確かにエヌ氏の肺腑を抉ったのである。深く残酷に。
そうしてまた暫くたったある日、大嫌いなコーガン一世の上司からエヌ氏は食事に誘われた。
(なぜ俺を) 胸騒ぎがした。無論悪いことが起こる予感だ。
(良いことのはずがない。そんなことはこれまで一度もなかった) 
疑惑と逡巡の黒雲が頭蓋内で渦巻くのを無理矢理抑えつけながら、エヌ氏は招待されたレストランへと定刻前に赴いた。
当然だ。サラリーマン心得の基本なのだから。エヌ氏は何事によらず基本に忠実な男だったのである。
上司は既に来ていた。そこでエヌ氏は己が眼を疑った。
(なんてこった、奴が笑っている)
上司は殆ど愛想笑いといっていいほどの笑みを浮かべながら、エヌ氏の好みを聞き注文し喋り続けた。どうでもいいことを。
エヌ氏はひたすら時の経つのを待った。予感は確信に変わりつつあった。(俺は今、一段一段登っているところなんだな、十三階段を)
「ところで。」上司が口調を改めた。
いよいよ来たかと身構えようとしたエヌ氏の鼻先に一葉の写真が示され、耳には運命の言の葉が降ってきた。
「私の娘なんだが、どうだろうかね。」

 時折エヌ氏は、自身の資質について深い感慨に浸ることがある。
一種の予知能力というか、なにかそんなものが自分に備わっているような気がするのである。
最初にそんな事態に襲われたのは、まさに襲われたという表現がぴったりなのだが十歳の頃だった。
夏休みに田舎へ行った際、自転車で遊びに出かけた田圃道で、それは起こった。
出かける前から、背中がゾワゾワする感じはしていた。それを振り切るように無視して、エヌ氏は出かけたのだった。
そうして田圃の畦道を通りかかったのである。
晴れ渡った真夏の午近く、道にも両側の田にも人の気配は無い。
蝉や鳥の声も無くシーンと静まり返った風景の只中に、たった独り自分だけが立っている。
誘われるように振り仰ぐと、空は青を通り越した群青色に染まっていた。
真上近くに日輪が輝いていたはずなのに、その記憶も無い。
宇宙の暗黒のように青い空…。
その時だった、幼いエヌ氏が全身を吸い込まれるような感覚に捉われたのは。
否、それはむしろ高みに墜ちる、即ち頭上に口を開けた蒼い奈落へ向かって真逆様に転落していくかのような戦慄と恐怖、とでも言えばよかろうか。
須臾にして永遠、刹那にして永劫、全身を浸し細胞のひとつひとつに染みこんだ宇宙意志の色。
そこから、エヌ氏の青の時代は始まったのだ。
自分だけが、この決して脱ぎ捨てることのできない青衣を着ているという思いが、思春期から青年期のエヌ氏を辛うじて支えていた。
ただし隠さねばならぬ、他者の眼に晒してはならぬ。
大抵の男がこの青い衣を身に付けており、しかもそれを押し隠しているのだと知ったのは、社会に出てからだった。
勿論あの上司も、さらにはあの上司の上司も。
ともあれエヌ氏はあの上司の娘と結婚した。
そうして四半世紀が過ぎたのだ。
(人生とは、婚姻とは、婚姻の継続とは、十三階段を登ること)
結婚生活についてこれほど的確な比喩はないだろう、と三人目の娘が生まれた時エヌ氏は独り語ちたものだ。
やはり自分には予知能力があるらしい。
                  
 仕事帰りに寄った行きつけのこじんまりとしたバーで、エヌ氏はもはや驚かなかった。
そう、迎えてくれたママも一人いる手伝いの女の子ものっぺらぼうだったのである。
とりあえず一杯めのビールで喉を潤し、キープしてあるオールドパーのボトルを出して貰う。
女の子が作ってくれた水割りを口に含みながら、エヌ氏は鞄から携帯端末を取り出した。
長女のポートレート写真を表示する。
数秒の後、長女はのっぺらぼうになっていた。
(なかなか時間というかタイミングが合わんなあ…)
「なになに? エヌさんのいい人?」
女の子がカウンター越しに覗き込みながら訊いた。
「いや、家の娘だよ。」
摘みを用意したママが、隣のスツールに腰を下ろしながら言った。
「あら、そっくりじゃないのエヌさんに。」
「あー、ほんとだ。」
「え? 君たちには見えるのか? 顔が分かるのかい?」
「やだ、変なこと言ってる。」
「女の子は男親に似るって言うけど、生き写しよ。」
 その瞬間エヌ氏の脳内に閃光が走ったのである。
「エウレカ!」と叫んで街中を裸で駆け回りたいくらいだった。
なぜ女はのっぺらぼうなのか。それは女だからだ。
始原から終末に向かって続く生物体の連鎖、そこには生命というのっぺらぼうな一色〔ひといろ]しか無い。
各個体は、そののっぺらぼうの幹から突き出た突起、唯のこぶに過ぎぬ。
しかし、こぶ同士はお互いを見分けるのだ。
それは女にしか弁別できぬ差異である。のっぺらぼうゆえにその微妙な相違にこだわる。
つまりそれが女が口にする個性というものの正体だ。
若草の匂いの時期の男にはそれが解らない。つまり、顔が見えそれに誑かされるのだ。実はのっぺらぼうなのにも関わらず。
真に個性あるものは、むしろそれを隠す。それが分かるのは人生枯草時代になってからである。
そこでエヌ氏は我に返った。
女のあのふてぶてしいまでの己の存在に対する自信が、生命の流れに直結しているという確信から由来するのは了解した。
では男はどうか。
エヌ氏の脳髄のニューロンは活動し熱を帯び、シナプスに信号を送り込んだ。
やがてエヌ氏は結論に到達した。
男の存在は、男というものは、この牡という生き物は、畢竟するに生命の持続再生産過程に於いて極めて短期の季節工、即ちほんの脇役言わばちょんの間のパートタイマーにすぎないという結論に。
思いがそこまで及んだ時、エヌ氏は涕いた。さめざめと涕いた。

 近頃、エヌ氏は泣かなくなった。それどころか殆ど上機嫌と言ってもよいくらいである。
エヌ氏はレストランで人待ちをしていた。
初夏の草原の匂いを周囲に撒き散らしながら、上機嫌の元が定刻前にやって来た。
愛想の良い笑みを浮かべつつ、エヌ氏は料理を注文し酒を奨め喋り続けた。どうでもいいことを。
相手の若者は、今ひとつ空気を掴みきれないような顔をしている。
頃合を見てエヌ氏は端末を取り出し、娘の画像を表示させた。
若者に示しながら、
「私の娘なんだが、どう思うかね。」
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