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帰結としての死と、死のもたらす帰結

今日も含めて、ここ数年で死を意識させられることが増えて気が滅入るばかりです。希死念慮的な意味ではなく、「死んだらどうしよう」という恐怖として意識させられる、ということです。事故や自殺、あるいは戦争や疫病などのニュースがあまりにも多くて、常に眼前に突きつけられすぎています。嫌になりますね。

死は「選択」によってもたらされるものというよりは、ただ「来る」ものだと思っています。死神の持っている帳簿に書いてある順番に、ただ来るのです。安全管理を怠ったことによる事故で死ぬのも、自分が選んだことではなく、さまざまなことが積み重なったことの帰結でしかないと思います。戦争によって死ぬことも、疫病で死ぬことも、あるいはひょっとすると自ら死を選ぶ、ということも、それ自体がそれまでのさまざまな事象が積み重なったことによる帰結でしかないのではないか、と思うときがあります。もちろん、このことと、「避けられる死がある」ということは別物です。なんらかの原因で死ぬ人が一人でも減るように、社会の数多くの人々が限りない努力を積み重ねています。その努力を軽視しているわけではないです。また、死んだ人は自己責任だと言っているわけでもありません。自分の蒔いた種で死んでしまうことももちろんありますが、そればかりではなく、周囲の環境や不運の積み重ねでどうにもならなくなってしまうことも大いにあります。

話をまとめると、自分が思うのは、「何人がどんな感じで死ぬかは社会である程度コントロールできるが、自分がどう死ぬかコントロールするのは難しい」ということです。それでいて、自分がどう死ぬかによって、自分のこれまで取ってきた行動や人生の蓄積の意味が変わってしまうのは悲しく恐ろしいな、と思います。

例えばわたしがカップルの集う名所で自爆テロを起こして死んだ場合、わたしのこれまで書いたnoteは幸福な人間を恨む犯罪者の僻みの手記になります。例えばわたしが宇宙人との戦争において飛行物体を自爆で撃ち落とした場合、わたしのこれまで書いたnoteは地球を救った勇猛果敢な戦士の手記になります。どっちも爆発に巻き込まれて死んでいますが、その意味合いは大きく変わってきます。上記2つの例は、別に死ななくても成立する話かもしれませんが、このように、死に様は人生の最後に1をかけるか-1をかけるかくらいのインパクトがあると思うのです。これが、自分のコントロールできない領域で起こりうる、ということは恐ろしくて悲しいことだ、と思うのです。(自爆テロは思いっきり選択の結果で同情の余地がないので、ちょっと例えは悪いかもしれませんが、そこまで追い込まれることになるのはコントロールできない事情によるかもしれません)

コントロールできないのは、死そのものの意味だけではなく、死後周囲の人間たちの中で生き続ける自分の亡霊の意味も、だと思っています。自殺した人の直接の原因を作った人が、涙を流しながら「お前のおかげで今の俺がいる……ありがとう……」なんてことを言うことがあります。そうでなくても、不可解な死に対して周囲が勝手に陰謀論をでっちあげることだってあります。自殺した側からすればふざけるなという話ですが、そういうことが横行する世界です。このように、人間の死には周囲が勝手に意味を見出し、それもまた死ぬ側にはコントロールできないものです。

死に大きな意味合いが与えられてしまうものの代表的なものが自殺です。明るい人だったのに自殺してしまった……ということが起きると、その人がこれまでやってきたことの印象が大きく変わってしまいます。思えばあの時目が笑っていなかった気がする……思えばあの時も……など、振り返ると楽しかったはずの記憶も全部悲しいものになってしまうこともあります。死ぬ側からすれば、そんなことを考えている余裕がないほど追い込まれている状況なのだと思います。なので、そうなってしまった帰結を責めることはあまりしたくないのです。ただただ、そうなってしまった帰結が悲しいばかりです。周囲の環境が、社会が作ってしまった状況によって、人一人の人生が、その意味合いが悲しいものになってしまったということがただ悲しいのです。

せいぜい自分にできることは、社会としてコントロールできる死者を減らすための取り組みに頑張って参画することしかありません。だからこの記事を読んでいるそこのお前!!!!!!いいか!!死ぬなよ!!!!!頼むから死なないでくれ!!!!!!!いいな!!!!!わかったか!!!!わかったな!!!!!

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