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暴力性のない言葉にも暴力が宿る

誰もいない駅のホームで中年男性が一人電車を待っています。誰もいないことで気持ちが良くなり、彼は手に持っているビニール傘を使ってゴルフのスイングの練習をし始めました。気分は広大なゴルフ場のグリーンの上です。夢中になってスイングしているうちに、彼は周囲に人が来ていることに気づきませんでした。そして彼のビニール傘は子供の後頭部にクリーンヒットしてしまい、子供はその勢いでホームから線路に落ちてしまいました。こんな状況になってしまった時に、彼の頭の中には無数の言い訳が思い浮かぶことでしょう。「こんなところに子供が来るなんて思わなかった」「人を傷つけるために傘を振っていたのではない」「ゴルフの練習をしようとしていただけ」など。ただ、どんなに言い訳を尽くしても、彼は自分のした行動の責任を取らざるを得ないでしょう。子供に危害を加えてしまったという事実だけが残ることになります。

インターネット上には多くの言葉の暴力があります。その多くは「自分が気持ち良くなりたかったから」なされるものと言っていいと思いますが、なかなかそれをおおっぴらにいう人はいません。背後にはなんらかの正義や大義名分が作られることがほとんどです。暴力を振るっていい矛先を求めて辿り着くパターンもあれば、本当に義憤に駆られて行動を起こすパターンもあります。いずれにしても、そういった暴力性は「自分が正しいと思い込むこと」によって増幅され、そしてなんらかの“結果”が出てからその責任を負うことになります。

最近このことについて勘違いというか、感覚が鈍っているところがあったなあと思うことがありました。以下で言葉の暴力について書きますが、「言葉の力を使って誰かの心を傷つけること」を言葉の暴力と定義することにします。

勘違い①:罵詈雑言を使わなければ言葉の暴力にはならない

「死ね」とか「消えてしまえ」みたいな罵詈雑言を書くと言葉の暴力になるというのは当たり前ですが、このことが問題になることが多すぎて、罵詈雑言を使わなくても言葉の暴力になりうるということを忘れがちになっているなと思いました。自分が。丁寧な言葉でも暴力はやろうと思えばできます。「豚骨ラーメン豚無双のスープは吐瀉物の味がする。店主は金銭を受領して吐瀉物を食わせる人格の持ち主である。」などは、罵詈雑言を使っているわけではないですが、十分に店主の人格を傷つけるものと思います。(※注:豚骨ラーメン豚無双というお店は存在しません)ちょっといまいちな例かもですが、つまり言葉の暴力に罵詈雑言は必要条件ではないということです。丁寧な言葉でも人を傷つけることはできるのです。

勘違い②事実であれば言葉の暴力にならない

考えに考えて、調べに調べることで真実を掴むことができて、それを文章に起こしたものが言葉の暴力にならないかというとそうとも限らないです。例えば、「◯◯さんはハゲだ」というのは事実たりえますが、それを◯◯さんを傷つける目的で言えば十分に言葉の暴力になります。最近は事実ではないことをでっち上げて罵倒する例が多いのでつい忘れがちですが、別に事実であっても暴力にはなり得るということは忘れてはいけないと思います。なんなら事実であればあるほど残酷……という面もあります。

勘違い③傷つける意図がなければ言葉の暴力にならない

冒頭で記載したビニール傘を振り回している中年男性の例を想起すればこれは明らかです。意図がなければ罪が軽くはなると思う(刑法のことを知らないのであんまり適当なことは言えない)のですが、何か重大な結果をもたらした時に罪が消えるわけではないと思います。

勘違い①〜③をまとめると、「丁寧な言葉で事実を述べ、純粋なやさしさを意図して文章を書いたとしても人を傷つけることはある」ということになります。言ってしまえば結局は読み手次第です。どんなに考えを尽くして書いても、悪く捉えられてしまったり、誤読されたりすることもあります。

そもそも暴力になって何が悪いねんという考えもあります。「誰も傷つかない表現なんてない」という言葉があります。おそらく暴力になるリスク一切なしで文章を書くことなんて不可能なのだと思います。「今日はカレーを食べた」という文言だけですら苦しむ人もいるかもしれません。まして、誤読のリスクまで考えたら、「今日はカレーを食べた」を「明日お前の肉親を殴りにいく」と読まれる可能性すらあるので、もはや書き手にできることなんて何もないとすら言えます。書き手にできることは「覚悟を持つ」ことではないかと思います。自分の書いた文章の結果何かが起きるかもしれない、ということを認識した上で文章を書くということです。そうすることで、自分の文章は誰のためのあるのかとか、なんのために書くのかということも見えてくるし、結果に対する責任も負いやすくなると思うのです。あまりにも突拍子のない捉えられ方をした時の切り分けもできるようになります。

最近文章を書いていて、覚悟してないことが起きて、かつ言われてみりゃそう思われても仕方ないか、となることが多くなってきました。おそらくこれは文章力の乱れと、自分の書いている文章の火力を見誤っていることに起因していると思っています。より正確には、自分の文章(の題材)に潜んでいる攻撃性を、感覚の麻痺によって捉えられなくなっていたことが問題だったと思っています。文章には周囲の人間や自分への明確な批判が含まれており、それによって攻撃性があるものだったのですが、自分の中にある正義の気持ちがそこの感受性を鈍感にしてしまったなあという反省があります。(自称)正義の立場から人を叩くのは気持ちがいいのです。
読み手が悪いと断罪してしまえばそれでいいですし、ある程度そうせざるを得ない面もあるとは思うのですが、書き手としてはそう簡単に諦めたくないよなあという思いがあります。信念として、「文章の感想の半分は自分のおかげ、もう半分は読み手のおかげ」というものがあります。なので悪いことがあったとしても半分は書き手に責任があるよな、と、少なくとも自分が書く文章については思います。「これを読んだら読み手はどう思うかな?」ということを、もうちょっとよく考えられるようにしたいところです。それを考えることで、自分の文章の能力とか、考える力というのがもう一段別のステージにいけるような気がするのです。

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