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「適当」をめぐる思考

「適当」で辞書を引くと、
第一義は「ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。」
第二義は「程度などが、ほどよいこと。」
第三義は「やり方などが、いいかげんであること。」
と出てきます。全く真逆の意味が割り当てられていて、文脈に応じて都度都度適当に解釈しなければならず、非常にいい加減な印象を覚えます。まさに、「適当」という言葉の解釈の中に「適当」が内包されているかのようです。
なぜこんなことになったのか、という語源的な話は専門家に任せて、本稿では、「適当」という言葉の持つ両義性について、漠然と考えてみようと思います。(問題設定が適当すぎますがご容赦ください)

仕事における「適当」

基本的に、仕事において雑な意味での「適当」が許されることはありません。仕事において、「適していて妥当な」という意味での「適当」を使わなければならない場面では、「雑でいい」という誤解を与えないようにするために、「適当な」とは言わないように思っています。「適切な」とか「妥当な」という言葉を使うように思います。そのため、その基本原則を破ってでも「適当」という言葉を使うときには、概して「雑でいい」というニュアンスが含まれるように思っています。

一方、じゃあ本当に雑でいいのか?というと、そういうわけではなく、そこに暗黙の不文律があります。「申し込みフォームの申請日には適当な日付を入れてください」と言われた場合、「 月 日」と用意されている欄に文字列で「今月がお前の命日」と記入してはダメです。「3月43日」もダメです。これは極端な例で誰でも明らかにわかる内容ですが、実際は明らかにはわからない形で、明確な地雷が設定されていることがほとんどです。「適当な日付」と言いつつもフォームを提出した日より未来の日程はダメとか、2週間以上前の日程はダメとか、わざわざ明文化されないルールが存在しています。このように、「適当」という言葉は、「雑でいい」場合であっても、何かしらのルールには従っている必要があり、しかもそれが明示的には示されないという厄介さがあります。「適当」と言いながらも、本当に何でもいいわけではないのです。さながら、「今日のお昼ご飯何がいい?」「何でもいいよ」「じゃあ中華かな」「中華は脂っこいから嫌だな」という最悪の会話のようです。「適当」という言葉には、そんな二律背反が込められているように思います。したがって、上司からの指示で、「キミが適当にやっておいてくれたまえ」と言われた場合、「わたしの意見を聞かなくても好きなようにやってくれていいけれど、キミならきっと常識に照らして適切なものをやってくれると信じているよ」という適切さへの信頼と脅迫、それと同時に「懇切丁寧に指示を出すのは面倒くさい」という雑さの両方が込められています。このことを考えると、「適当」という言葉の意味に、「適切」と「雑」という真逆の意味が含まれていることについて、なんとなく腹落ちできるような気がしてきます。

逆を考えた時、法律の解釈は、その真反対の位置にいると思います。法律の文章として明文化されていることを、字義通りに正しく正しく解釈し、運用する局面では「適当」が許されません。法律が出てくるときは概して人間の人生がかかっていることが多いのでなおさらです。大学に在学中、法律の授業をとったことがあります。具体的なことはあまり覚えてないですが、「それは常識的に考えればわかるのでは……?」と思うようなことがしばしばありました。常識的に考えればわかることについて、人生をかけて思考を巡らせて、学説を立ち上げてバトルしている様子は当時のわたしには何とも不毛に見えました。ですが、インターネットのいろいろな事件を見たり、仕事で色々なトラブルに遭うにつけ、最近は、「常識」ほどあてにならないものはないな、と思います。「常識」は、明文化されない暗黙の不文律の集合体と思います。この不文律は人によって違うので、トラブルになったときに、「常識」に頼った解釈をすると高確率でぶつかります。仕事をしているときに「あとは適当にやります」と言いたくなった時はそれをぐっと抑えて、なるべくその場で考えた具体的な方法を言うようにはしているつもりです。「適当」の名のもとに乗り切った局面が多ければ多いほど、あとで適当さに苦しめられるからです。

趣味における「適当」

一転して別の話です。たとえば音楽の制作やイラストなどにおいて、「〇〇は適当です」という人がいたとして、それは雑でしょうか?わたしから見た範囲では、雑に見えたためしがありません。たとえば、音楽を公開した人が「コード進行は適当です」と表明した場合でも、たいていの場合は何らかの正しい音楽理論に沿った、「適切で妥当」なものが展開されています。わたしはこの意味での「適当なもの」を作る能力に、強いあこがれを持っています。

もちろん、「適当」の表明の中には、自分の中で自信のないポイントについて、「ここは適当なんです><」と明言することによって、「よくない点があることはわかっているんです」という保険をかけ、指摘された時の心理的ダメージを小さくしているケースがあります。(わたしはよくやるのでわかります)ですが、全部が全部そういう人間の自意識のゆがみの生んだものだと思うと大事なものを見落としてしまうような気がします。「適当」の表明の中には、「本人にとっては本当に適当である」というケースもあると思うのです。

「適当にやって、適当なものを生み出す」能力を持つためには、その世界での圧倒的な地力が必要になると思います。いいかえると、「手癖」や「無意識」で出来てしまうだけの力を持っているということです。この能力がさらに強くなってくると、「自分が本当に表現したい根幹部分のところ以外は、時間や力をかけずにできてしまう」ということにもなってくると思います。創作をする人は、本当に全部が全部適当なものを世に出すことはあんまりないような気がしていて、必ずどこかにこだわりポイントがあったり、推せる点があったりするから世に出していることがほとんどと思います。そのこだわりたい点により多くの力を入れて、それ以外の部分を適当にそれっぽく仕上げる、といった力点の置き方の工夫ができる人の場合、かなりコンスタントに成果物をあげることができて、きっと創作が楽しいんだろうな、と思います。もちろん、「神は細部に宿る」ともいうので、本当はすべてにおいて「適当」にならず、細部までこだわりを持って進めるべきなのかもしれません。ですが、作品を世に出す頻度を上げることもまた大事です。この2つのどちらを大事にするべきか、考えるうえで大事になってくるのは、「ちょうどいい」という意味での「適当」なのだと思います。我々は適当に適当であるべきなのかもしれません。

以上、仕事の面と趣味の面の両方で「適当」を見ることで、適当の二律背反性と、「適当に適当である」ことの重要性についてみていきました。完全に真逆の概念であるはずなのに、考えていけばいくほど境界が見えなくなってきました。おそらく二つの真反対の概念は、メビウスの輪のようにつながっているのだろうと思います。どの点が「適切で妥当」という意味での「適当」なのか?それは、適当に探し求めていくしかないのかもしれません。

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