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読書感想 「猪飼野詩集」 金時鐘

何故、この本を読もうと思ったのか
と自分に問うと
精神的に凹んでいたでしかないと思う。

詩集もまた、断片的に拾い読みを
したことがあっても
皆無に近い。

作者の金時鐘(キンシジョン)さんは
もう90歳を越える方である
ずいぶんと前に
梁石日(ヤンソギル)さんが
金時鐘さんをモデルにした
「大いなる時を求めて」という小説を上梓
され、読んだことがある。

梁石日さんと金時鐘さんは
同じ、猪飼野出身で
 金さんが年長で兄弟のような盟友と
言える関係だろう。
梁さんの、エッセイや小説に
たびたび、金さんが登場するので
その名前は、かなり前から知っていた。

「猪飼野」
1973年2月1日を持って
地図上から、地名として消滅した
在日コリアンの一大集落地であった。
大今里ロータリーから大池橋方面に
向かうと、一つ目の停留場に
「猪飼野橋」がある
それだけが、唯一残る。

突然だが、ぼくの外祖母は
自らが一世であるが
徹頭徹尾「チョウセン」を嫌った
数え100歳まで、生きたが
その訛りは「チョウセン」訛りの日本語
であったものの、ぼくが物心ついた
時からキムチは食卓に並ばず
口にしたのもみたことがなかった。

 ぼくが、育ったのは「猪飼野」ではなく
大阪の西方の「此花区」と言う町で
1970年代後半と言えば
近隣の工場から、これでもかとばかりに
煤煙が天に溢れ
校庭には、光化学スモッグの
赤旗、黄旗がしゅっちゅう立てられ
ていた。
職人や日雇い労働者、
飲食、飲み屋(スタンド、スナック)が
うじゃうじゃ林立する典型的な大阪の
下町だった。

ただ、チェサ(祭事)の準備に
関しては「猪飼野」に行かねば、
供物の調達ができないのだった。

いまでは、コリアンタウンと呼ばれる
場所は、朝鮮市場通りと呼ばれていた。
「猪飼野」の真っ只中だ。
そこは、子供のぼくからすると
異国であった。

豚の頭、豚足、ホルモン、とさかから
観念し茹であがった鶏、蒸し豚、
胴体を真っ二つにした生肉の豚肉、
みたことのない香辛料、エイの刺身、
鮫までか並ぶ海産物
前時代的な祭器
(90キロぐらいの雌豚の前足に近い部位から肩肉にかけてが、肉の部位でも、一番うまいと知っていた外祖母)
聞いたことのない「チョウセン語」が
燕のように飛びまわるところ

いまでは、韓国焼酎の代名詞ともいえる
 チャミスルなどは、微塵もない
家に帰れば、密造のどぶろくがあるのだ。

あってもない町
無くてもある町と金時鐘さんは言う。

実父が、あらゆる親戚、知人から
借金をし、ひとり息子であった
金時鐘さんを潜水艦組(密航者のこと)
として、済州島から逃がし
たったひとり、みよりのない地に
辿りつく。

そこは、北も南もあるが
ひとりの朝鮮人が、生きて、生きて、
逃げて、また戻り、その日その日を
家族総出で、生きるしかなく
ときには
小金持ちとなった、ある工場主が
 「ヤメタァ!チョウセンヤメヤァ!」と
嘆き
動かぬ体を救急車に搬送される老婆が
「ホットケ、ホトッケ」というのは
仏なのだろうか
それとも、かまうな。なのだろうか

きれいごとではすまない
人々の暮らしがあった。
昨日も明日もない
あるのは、ただ過ぎる今日があるのみ

そんな、猥雑としたあけっぴろげな
日々を町ごと生きて行ったのが
「猪飼野」だろう。

詩集は、連作詩もあり
それらの生きねばならぬ人達の
実存が描かれている
お涙ちょうだいは微塵もなく
懸命に生きるしかない実存。

書籍の表紙写真は
名もない在日コリアンの家族だろう。
一世は、朝鮮服であるチマチョゴリ
母親らしき女性は二世
手をひかれている子供は三世とみるなら
三世の子供は
いまのぼくと同年代に近いと思う。

最後に金時鐘さんの言葉を引用
させていただきます。

やはり、私は猪飼野に運ばれて
きたようである
地方弁丸だしの猪飼野だったからこそ
故郷を失った私であっても
猪飼野の頑な伝承から
つきない生気を得てきたのだ。
その猪飼野で多くの忘れ得ない人々と
出会ってきたし、その猪飼野でまた
多くの別れを交わしてきた。

 にぎにぎしくも、どこか切ない町
笑って泣いてる町

たとえ、描ききれないまでも
人間性を際立せるものに詩がある
という確信は揺るがない
人の多くはのど元までつきあがってくる
思いを、それぞれ他の仮託の形にして
生きている。

(中略)

人々は銘々が自分の詩を生きている
のであり
詩人はたまさか言葉による詩を選んだ
者にすぎない。
ために詩人は特定の職能でもなければ
権威の保持者でもないのだ。
詩人が「言葉」に取りついて離れられない
のも、そこに他者の「生」と重なる
自分の「生」があるからだ。
と。

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