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小説感想 「ジニのパズル」 崔実(チェ・シル)

もしも、自分が作品の主人公と
同じような環境、境遇なら
どのように、その時代を感じていただろう。


作者の崔実さん(チェシル)は
1985年生まれの在日コリアン3世
ぼくとは、20年近くの違いが
あるが、同じ3世となる。
小学校まで、日本の学校に通い
中学から東京の十条にある
朝鮮学校に転入する主人公「ジニ」

  言葉(朝鮮語)がわからない
 団体行動に馴染めない
小学校時代に、かすかに親近感を
持った生徒に
「汚い手で触るな」と言われ
その意味がわからず
じっと、その手をみつめたジニ
 
ジニは言う
(少し長いが引用させていただく)

在日韓国人として生まれて
日本の学校に入学した日から
私たちはある選択をせまられるよう
になった。
それは、とてもシンプルで、しかし、
やり遂げるには、非常に困難な選択だ。
―誰よりも先に大人になるか、
それとも、他の子供のように暴れまわるのか。

大人になるのは
周りに合わせて、自我を隠し通し
なんでもないように、やり過ごすのか?
暴れまわるのは
暴れまわることで、差別を終わりに
するのか?

作品解説の一部によると
革命と救済の物語とある。
そして、ジニは
 ここから(この小説から)は
何一つ学ぶものもはないと言う。

政治的、主義、主張、はない。
もし、捉えられるなら
こじつけであるが
金親子への糞野郎と
金親子に対する行動であろうか?

優しさに対して
ジニは言う

―いつか誰かが言っていた。
よく笑う人は、沢山傷ついた人だと。
心から優しい人間は
本当に深い傷を負った人なのだと。
でもと、私は考える。

 たくさん傷ついた人間が
数え切れないほどの人たちを
自分以上に
傷つけた場合、それは本当の優しさと
言えるのだろうか。
自分の傷を言い訳に
よりによって最も大切な人たちを
傷つけ、騙し、欺き、追いやり
日の当たらぬ闇の底へ
自ら這いつくばって抜け出すしかない
奥底まで、突き落とした人間。
それが私だ。
これは、そんな私の物語だ。

ぼくが、作者の分身である
ジニに共振した部分を引用させて
頂いた。

そして、はるか昔、
日本の高校に通っていたぼくが
鴻池新田駅の近くで
朝高生(朝鮮学校生徒)に
「こら、チョッパリ(日本人に対する蔑称)」
と、罵倒を受け
ボコボコのどつきあいをしたことも
蘇る。
ぼくは、その時
「俺はチョッパリちゃう!!
お前らと同じ民族や!!」
と言えなかったのだ。



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