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美しい日々

10/14

一日中外で遊ぶ日。
ラブホで写真の撮りあいっこをしたり、公園でピクニックをする。
友人たちがビニールシートの上でお菓子を食べたりバトミントンに興じているのを見て愛おしい気持ちになる。


10/15
女性のバスの運転手さんを初めて見る。
小児の頃に見ていたらバスの運転手さんを目指していたかもしれない。
小雨が降っており肌寒い朝だが、爽やかな気持ちで一日を始められそう。

10/:::

いちゃいちゃしながらご飯を食べている人を見て、「いちゃ飯」という言葉が思い浮かぶ。
ソファ席で隣り合って座っているとか、お互いに食べさせあっているとかじゃなく、(それも良いが。)、相手の目を見ながら食べたり、テーブルの上に置いた手を握ったりしていた。そういえばスマホも一切触っていなかった。
なんだか良いものを見た。

母が米をくれるとのこと。
精米はした方が良いかと聞かれ、ぜひしてほしいと答える。コイン精米というものは、街中には無いのだ。

夢の中でハムスターをポケットにいれて歩いていた。

「クリード 過去の逆襲」を見る。
見終わった後、なんだかとてもやる気になり、安息日だというのに猛然とパソコンに向かった。(※安息日の労働、生産的な活動は禁止している。)



お花の先生と緊縛生花をする。
美しいものを作っている人の目つきが好きなので、盗み見ばかりしていた。




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10/23

気持ちの良い秋の日々なんてあっという間に過ぎてしまう。
わけのわからない不安や降りかかるかもしれない不幸について考えているのは勿体無い。
商店街を吹き抜ける秋の風、足元をあたためるストーブ、目の前のピザと友人の笑顔。

幸せな物事はたいてい些細だ。注意していないと全て過ぎ去ってしまいもう2度とやって来ない。
今日も儚く美しい日だった。

10/24
楽しいことがある日、あった翌日は普段の倍撮れてしまう。
納品する写真も1.5倍ほど増える。毎日楽しいとお得だと思う。

今日は久しぶりに両親とお茶をした。
還暦を迎えて少し痩せた父、相変わらずよく喋る母。秋という季節と両親の佇まいが混ざり合って、ノスタルジーに浸ってしまう。
両親と私の関係は側から見るとたいそう仲良しに見えるだろう。実際にかなり仲は良い。多少の勾配がある愛情を皆んなそれぞれに注いでいる。
絶妙な距離感を保って成り立っているこの家族が私は好きだ。
弟たち含め家族全員が理解しているはずだ。私たちは近づきすぎてはいけないし、離れすぎたら寂しい。

10/25


お花の展示へ。
超絶モダンなものから奇想天外なものまで様々だった。器に斜めに立っているものが好きだった。

今の季節の夕暮れはどこに行ってもきれい。見慣れた栄の街も、映画のワンシーンみたいだった。

10/26


まっ茶さん展の写真のセレクト。
たくさんある中からどれを選べばまっ茶さんの良さが伝わるだろうかと色々考える。
でも私が好きだと思ったものを惜しみなく出そうと決めた。

数日前から風邪の症状が出ていた。
明日から東京に行くので何となく不安で内科に行った。
初めて行く病院の医者に対しては身構えてしまう方なのだが、この医者は親戚のガハハ系のおじさんのようで妙に安心した。(ワイシャツに食べ汚れがあり、しょっちゅうなにかをこぼして服を着て汚している私は親近感を覚えた。)
ごく軽めの風邪だということ、薬を飲んで一晩寝れば何となく治ると言われる。インフルエンザのワクチンも打ってもらう。(この後腕がぱんぱんに腫れてだるくなる。このタイミングで打ったことを後悔した。)

引っ越しをしてから風邪をひく回数が増えている。
今年は季節に一度ひいている。今回の風邪が秋の分だとしたら、冬にまた風邪をひくのだろうか。
仕事を休むのが怖くて仕方ない。
何かの拍子でまた働けなくなったり、人と会うのがつらくなったり、外出する度に体ががちがちに強張ってしまうのではないかと常に怯えている。
常に軽度の(または中程度の)神経症ではあるので、自分の抱えるこういった不安には慣れている。不安や恐怖を誰かに肩代わりしてもらえたらいいのに、と思うこともあったが、私についてのことは私がどうにかしなければいけない。そして私も誰かの側面を背負い込むことが出来ない。
人に頼めることといえば、体調の良い時に一緒に過ごしてもらうことだけだ。

過ぎ去っていく毎日は儚くて美しい。
けれど自分が通ってきた道は確実に存在している。泣いたり笑ったりしながら進んでいけますように。

10/27
今日から東京遠征。
いつも使っているリュックに荷物が全部入りそうで入らない。悔しい思いをしながらトートバッグも持つことにする。
ベトナムに行く時もこのリュック一つの予定だが、またしてもぎりぎり入らなかったら嫌だなあ。あらかじめ荷物を詰めて予行練習をしようと思う。


女の人を撮影する。
自然光の中で撮る裸が一番好きだ。影と光のコントラストが美しかった。産毛とか、汗ばんだ肌、そばかす、そういう細かいところも愛おしい。
きれい、好き、美しい、可愛い、に浸っていると時間はあっという間に過ぎてしまう。さびしいけれど、でも写真に残っているから良いや、とも思える。


昔々、少しだけメイドとして働いていた。
その時の雇い主に会いに行く。妙に懐かしく、変な里心がついてしまった。

定宿の寝ぐらに潜り込み、やたらと近い天井を見つめる。
配線がゆるゆるなのか、たまに電球がふらつく。消えてしまうときもある。灯が消えた瞬間だけ、自分の存在も消えてしまったようで、ぞくぞくした。

住まいから離れた土地で、私が消えてしまうなんて、そんなこと絶対に嫌だ。
でもこういう想像を止めることはできない。消えてまた出現する時、私はどこにいるのだろうか。時間はどれくらい経っているのだろうか。私が消えていたことは皆んな知っているのか?消えるっていうことは、つまり、私の体が消失するだけなのだろうか。それとも私が居た証し全てが消え去ってしまうのだろうか。全てが消え去るのなら良いな。それならなんとなく怖く無くなる。
このまま闇の中でジッとしていたら本当にいなくなってしまう、なんて。
灯りを点けたときに現れた私は、消える前とそっくり同じなのかな?姿形は似ているけれど、言い表せないくらいわかりづらいところが違っていたりするのかな。自分でも違和感に気づくけれど、でもどこがどうとはわからない。
そうやって少しずつ自分が自分では無くなっていって、差に耐えきれなくなった時に何を思うのだろう。今考えても分かり得ないことだ。
その時はもう私だけれど私じゃ無い。

こういう、何の役にも立たない問答をしてしまう自分が好きだ。
答えなんか無くていい。決めなければいけないこと、進めなければいけない物事、はっきりさせなければいけない関係等々、そんなことばかりなのだから、自分の趣味でやっている問答くらい、あやふやにさせておきたい。
くだらないことで私の頭を悩ませることが出来るのは、精神的にも肉体的にも余裕がある時が多い。余裕がない時の方が即決して一刀両断してしまう。もっと曖昧にしておいても良かった筈の物事を思い出し、今度こそ本当に憂鬱になってくる。

私は人との曖昧な距離感を楽しむのが好きだ。お互いに気を使う両親、友人として大好きな女の子、離婚したけれど仲良しな元夫、愛しいなと思いながら眺めている友人たち。
その時々に一番居心地の良い距離感で仲良く過ごせればそれで良い。でもこの考え方は自分に都合が良すぎだし、甘いのかもしれない。

皆んなで仲良く生きていけたらいいのに。
でもそれを叶えるために何をどうしたら良いのか、よく分からないままだ。

10/28
新宿という街は何度来ても慣れない。
目的地に向かっているはずが、検討外れの場所を彷徨っていたりする。割と地理感は良い方なので自信満々に進んでしまうのが良くないのかもしれない。そして、少しずつ建物や道路が移動しているに違いない。ついでに時空も歪んでいる。そうとしか思えない奇妙な迷い方をする。
それを楽しめる時は良いのだけれど、大荷物を抱えていたりするとただもう疲れるだけだ。
以前、新宿を攻略している友人に道案内してもらった時は感激した。時空の歪みを諸共せずに歩いていく姿がとても頼もしかった。

午前中はめずらしく撮られる方のお仕事をする。
モデルをすることはもうあまり無いが、依頼がある限り続けていきたい。

お昼からは永遠嬢様の講習会に遊びに行く。
これが本当に遊びに行っただけで、気持ちよくなっている人や縄の練習をしている人たちをぼんやり眺めていた。少しずつ知り合いが増えて、知り合いから友達になっていくこの感じが居心地が良い。



夜は友人に教えてもらったホテルに泊まる。
ここがもう、最高に好みのホテルで、お部屋に入ってからテンションが上がりっぱなしだった。一騒ぎしたあとは妙にくつろいでしまう。
こうやって行く先々でお気に入りのホテルやご飯屋さんが出来ていくのが面白い。

なんだか遠くに来てしまったが、ふとした時に心を緩ませることが出来る場所に出会えた。気が抜けたのか、今日は滅裂なことを書かずに眠れそうだ。
前からずっとずっと行きたいと思っているビデオ屋さんには今日も行けなかったな。

10/29


好きだと思っている人を撮らせてもらう。
お顔を見た時、嬉しさで胸が張り裂けるかと思った。なんだかよくわからない女の前で肌を出して写真を撮られる、という、奇妙な時間を過ごしてもらう。

お昼からは永遠嬢様と緊縛ショーをする。
やはりステージの上での永遠嬢様は背丈が大きく、そして遠くに感じる。


新宿で優勝(打ち上げ)もする。
頭良い人たちへの憧れがある。物事を整理整頓したり筋道を立てて話せる人たちを私は尊敬している。自分は到底出来ないからだ。
私の思考は常にごちゃついている上に、考える前に口を開くことが多いので、「ちょっとその時思ったんだけど、私それはめちゃくちゃ◯◯で、××って、思ったんだけどね、えーと、なんか、△△みたいな・・・なんなそんな感じのことが・・・」というような話し方を平気でしている。
辛抱強く聞いてくれる人や、適度に相槌をうってくれる皆さんには常に感謝している。
どうやったら思考を整理し言葉にして伝えられるのか、見当もつかないままこの先も生きて行くのだろう。

自分には自分の役割があるという意識がかなり強いので、欠点に見られがちな箇所もコンプレックスになることはない。出来ないことや足りないところは補いあえば良いだけだ。
やれることやれないこと、今まで何をやってきたか、何をやってこなかったか、得意不得意、お金をもらえればできること、放っておいてもやっていること。自分の中でかなり明白にしてある。
もしかしたら得意かもしれない!好きになれるかもしれない!と勇んでやってみたが出来ず、「私には難しかったなあ」と退散することも多い。

東京遠征で頭の良い人たちとたくさん話した。思い返せば私の近くには常に言語化と説明が得意な人たちが居る。私の代わりに伝えてくれてありがとう、なんか、皆んな凄いなあ、と思いながら聞いている。
今回の遠征も楽しかった。月並みな感想とときめきを抱きながら名古屋に帰ってきた。

11月も賑やかに、かつ粛々と生活していこうと思う。

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