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【きのうのにっき】6/26

「失敗はチャンス」という話。



私は何かに取り組むときに
事前に計画を立てて準備をするのが苦手で、
思い立ったら即行動。
そして失敗して、それを体で覚えるスタイル。

少し極端かもしれないけど、
大体そんな感じでやってきた。

覚えるためにも、失敗は欠かせないもの
とも言える。

失敗はするけど、その分だけ成長に繋げてきた。

ということは、
私がこれまで成長してこられた分だけ
失敗を許されてきた、ということになる。


成長のためとはいえ、失敗が前提。

普通の感覚でいえば
失敗なんて少なければ少ない程いいだろう。
ましてや他人の失敗に巻き込まれるなんてごめんだ。
それが当たり前の感覚だと思う。

なのに、それを許されてきた。

私はこれまで
仕事や友達の輪から外されたことは無かった。

これは果たして当たり前なのだろうか。
多分違う。

じゃあなぜ、私はこれまで許されてきたのか。

正直、理由は分からない。

分からないので、
これが自分の「才能」なのだと思うことにした。

失敗 +(許される)才能 = 成長




ただ、そんな才能を持っていても
失敗することは怖くて、恥ずかしい。

気が付けばその気持ちは年々大きくなっていて、
「失敗」しないように、「失敗」とバレないように
無難にこなすようになっていた。

それが自分の成長に必要なパーツだったはずなのに。

派手に失敗する自分の姿を見たくなくて、
そんな自分を認めたくなくて、、、

そうやって自分の成長を自分の手で止めていた。
貴重なチャンスをみすみす逃してしまっていた。

じゃあ、何故こんな思考になってしまったのか。

元々そういう節はあったのかもしれないけど、
原因をあえてひとつ挙げるとしたら
10年間、一緒に過ごした人の影響なのかもしれない。

その人は
自分に非があることは私に一切言わず、
時に嘘をつき、その嘘がバレないよう
さらに嘘を重ねるような人だった。

私のためについた嘘なんか、ひとつもなかった。

全ては自分のプライドを守るため。
出来ない自分を認められず、偽り、保身していた。
歪んだかっこのつけ方しか出来ない人だった。

その人は最後、
自分のついた嘘のせいで収拾がつかなくなり、
自分で落とし前をつけることもせず、
ただ私の前から姿を消した。


私が貴重なチャンスを捨ててまで
失敗を恐れて無難にやろうとしている原因。

実際のところ、真相は分からない。

分からないので、全て彼のせいにすることにした。

10年かけて、見事に毒されてた。
一番嫌な部分が似てしまった。




私は今、「失敗」の真っ最中だ。
チャンスを逃す失敗。

ここで冒頭の言葉を思い出す。

「失敗はチャンス」

チャンスが巡ってきた。
自分の足でバッターボックスに立ち、
力いっぱいバットを振る。

無難にこなさないこと。

私にもそれなりに経験値というものがある。

がむしゃらになって得た経験値を信じて、
その時その時でどうにか考えて、
もっと自由に、
今度こそ力いっぱいに。
そして失敗を恐れずに。

だって、「失敗はチャンス」なのだから。





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