見出し画像

「明瞭な音=良い音」で本当にOKなのか

先日「邦楽は低音が足りないのか」というトピックで配信の中で、邦楽は低音が足りないのではなく明瞭さを追い求め過ぎているという考え方について解説しました。(14:24あたりから)

この記事では「明瞭さ=良い音」という価値観の危うさについてもう少し掘り下げてみます。

料理で喩えると分かりやすい

良い音を言葉で表現する時に頻繁に使われるのが

  • 明瞭な

  • 解像度の高い

  • スピード感のある

  • レスポンスの良い

  • レンジが広い

といった言い回しですが、これらは大体似たようなことを指しています。では、これらの特性を持った音が最終的に音楽を良い音で仕上げることに寄与しているかと言うとそうでもありません。

料理に例えてみると、これらの要素は塩分濃度のようなものです。塩味が強ければ強いほど美味しいという健康に無頓着な人も中にはいると思いますが、多くの場合において美味しさというものはバランスやコントラストの上に成立します。

ある程度の好みは存在して然るべきですが、甘みや酸味、苦味、風味や香りなどが存在しない料理は一瞬で食べ飽きてしまいますしすぐに味が分からなくなります。同様に、例えば柔らかい音や曇った音が上手く活かされていなければ音楽の魅力を表現することが出来ません。

では良い音とはなんなのか

それは場合によります。

冒頭で列挙したような属性の音も当然良い音たり得ますし、逆に柔らかい、ともすれば曖昧な印象を与える音も音楽にとっては必要です。(でなければ、リボンマイクの音がこれだけ世界中で愛されていることに説明がつきませんよね。)

ただ間違いなく言えるのは、楽曲の中で良いコントラストを生み出せていない音の組み合わせは再考の余地があるということです。それは同時に鳴っている音同士の関係性に限らず、時間軸上で次々に現れる音色の間で生まれる対比も含まれます。

このことに異論を唱える人はほぼ居ないのではないかと思われます。しかし、現実には全ての音を明瞭にしようとして、全ての楽器で同じ帯域やトランジェントを食い合うような音作りをする人が跡を絶ちません。

なぜ明瞭な音にしたがるのか

それは「数秒だけしか聴いてもらえないこと」を想定しているからだと推察します。例えば絶対に一口ずつしか食べられないバイキングがあったとして、一口で喉が渇くような濃い味付けのものと病院食のような薄味のものを食べたとしたら前者の方がインパクトは強いはずです。

SNSにせよ動画投稿サイトにせよ、今の音楽は10秒を超えて聴いてもらうことすらそう簡単ではありません。なので、どこを切り取っても圧倒的に刺激の強い音作りにしたいと考えるのはとても自然な心理です。ただ、何故そのために塩分の強い音作りをするという手段を選ぶかというと、そうするのが手っ取り早いだからです。または、そうしないとリスナーに理解してもらえないという割り切りもあるかもしれません。

色んな音作りを学んで緻密にそのバランスを取って…といった訓練にはどうしても時間がかかりますし面倒くさいと感じる人もいるかもしれませんが、音を明瞭にするためにそういった苦労は必要ありません。

最終的には塩分では戦えない

ではインパクトの強い音=塩分濃度の高い音かというとそうでもありません。バランスやコントラストを大事にして作られた音を聴いた後にただ明瞭なだけの音を聴くと寧ろチープな印象を受けます。

映画館で映画が始まる前のCMの音を想像してもらえれば分かりやすいのではないでしょうか。洋画のトレイラーの後に日本のTVCMが流れた時に突然音がチープになって戸惑う人も多いでしょう。(片や映画館で流すための音、片やTVで流すための音なので単純比較するのは全くもってお門違いですが)

どれだけ短い尺でどれだけインパクトだけで戦わなければならなかったとしても、安直に音の明瞭さに頼る限りはバランスのとれた音と同じ土俵に達することはありません。

明瞭さの呪縛から解き放たれたなら

明瞭であることは悪ではありませんが、常に正義というわけでもありません。特に機材を選ぶ時に気をつけたいのですが、その楽器、そのマイク、そのコンバーターが果たすべき役割みたいなものを正しく認識して、より音楽を魅力的に伝える選び方、使い方をしていきたいものです。

そうすれば、誰もが今よりももっと印象的な音楽を作れるようになります。

誰が明瞭にしているのか

実はこれが最も重要で根深い問題です。恐らくですが、エンジニアが独断でハイを不当にブーストしたり超至近距離にマイクを立てたりしているケースばかりでは無いのではないでしょうか。

もしかしたらそれはラフミックスを作った作家のせいかもしれませんし、強すぎる演奏のせいかもしれませんし、そうすることを要求する譜面を書いたアレンジャーのせいかもしれませんし、そうした曲を発注したディレクターのせいかもしれません。

ポイントは犯人探しをすることではなく、誰か一人の意識が変わるだけで解決出来る問題ではないと認識することです。ただ、気付いた人が周囲への啓蒙をしなければ永遠に解決しない問題でもあるので、結局草の根運動を皆で頑張るのが最も確実な方法なのかなとも思ったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?