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素直に捉えてみると神様ってあまりにも辛い存在

簡単に表現する能力にかけているがゆえに私は博士号まで進めませんでした。論理的に表現するのが苦手だったので…今は多少ましになりましたが
当時はさらにひどかったのです

だからうまくまとまらないかもしれませんが、ツイとかで私がいいたいこと
そしてキリスト教というか人が生きていく上で必要なことについて私なりの考えの入口の紹介文として、ここでまとめておきたいと思っています


ある時神様に祈りの中で言われました


ある時祈りの中で私に
神様はいいました


…誰も私のことは考えていない
誰も私のことを見ていない

私の気持ちを知ろうとしている人が
いない


これは私のツイの中でよく使うコンセプトです。なぜよく使うのかというと正直私自身もこの神様の声に驚いているからに他なりません。普通に考えて神様は栄光の玉座にいてというイメージかもしれませんが、まあ私はそこまで厳かに神様をとらえてはいませんでしたが、こんな弱弱しいものであるはずはないと思うからです。

少し慌てましたが実際心当たりもあったのです。神学を学ぶと新約聖書だけでなくて旧約聖書や教会の歴史なども学びます。その中で人がどれだけ失敗ばかりして神の国を建てるのに間違いばかり起こしてきたのか、それを目のあたりにするのです。罪深いからといえばそれでおしまいですが、それをずっとみていた神様が時折嘆きのような言葉を残したりしていました。旧約の中でところどころそれがあったので、私の心に神様は挫折が多いそんな存在なのだという思いもあったのです。だから上の言葉を聞いてまあ確かにそうかもしれないと肯定的に捉えることができました。

けれどそれは頭でとらえることであって、その深い絶望にもにた伝わってくる響きに触れると胸が苦しくなってしまう感覚を受けたものです。

正直その言葉を完全に受け止めきれていません。そもそもそんな神様にどうしてあげたらいいのか、私には想像もできないのです。だから祈るのも実は怖くなってしまうことも現在はあります。その感情に触れないようにと祈っていることもあったりします。

だから私はツイでこれについて共有したかったのですが、それは私が逃げたくなるこの現実を防ぐためという意味がもしかしたら心の奥底にあったのかもしれません。


神様の本当の姿は沈み込んだそんな傷ついた存在


上に書いたように私はその言葉はなんとなく聖書とか読むと理解できるところはあったんですが、一番驚いたのは、神様の歩んできた道が確かにそうであったとしても、気持ちとしてはつらいという雰囲気がないのかと思っていました。

それはまさに玉座に座っている栄光の神、そのイメージのせいだったのでしょう。しかしよくよく考えてみると、神様ほどいろいろなことを体験した人はいないと思えます。堕落なんかそれはそれで本当にひどい話ですし、そこで主なる神は人に話しかけたという逸話がありますが、神様はなんといったかというと

…あなたはどこにいるのか

実は啓示を受ける前から、この部分が非常にひっかかってもいたんです。場所など神様はわかるはずだし、全知全能なのだろうからおかしな話だと。そんな箇所は結構あります。

ノアの時だって、人を創造したのを悔いたといったりしています。

正直全ての権能を持った全能者というイメージが、何か間違っているのではないかとそう思えてならなかったのです。ただ神の全能者としての能力を、疑っているわけではありません。そこに何か事情があるのではないかと、そう思っただけなのです。

啓示の話に戻ります。

その時の正確な言葉までは覚えていませんから、上に述べた内容は若干言葉は違ったかもしれません。書いてきたように、私が一番違和感があったのは、神様の口調でした。

それは非常に寂しい人が語り掛けるような、そして語りかけた私にさえこの言葉の意味を知れるはずもない、そんな自暴自棄な雰囲気の中にいる人が話す、そんな雰囲気だったのです。

私はそこに衝撃を受けて、何よりもその気持ちを受け止められませんでした。


神様のイメージは本当に今我々が思っているのとまったく同じなのだろうか


哲学の世界では、主観と客観という概念があります。そして信仰の世界も人が介在している限りにおいて、主観の呪縛からは逃れられないでしょう。科学には仮説という、前提条件などを作り論理を組み立てもします。信仰にもこの前提条件というのが、存在しないわけはないと思います。

最近は量子論という話がありまして、それは主観的に物質の現実を見ることが、理論上無理という前提をもった理論です。つまり観測するときに、機器のエネルギーが対象に作用してしまうから、実際そこに何があるのかわからないということです。

これを人間の思考に類推して考えると同じく、人が何かの対象について客観的現実を得ることは、難しいということになります。どうしても主観の呪縛から、逃れられないということです。

何がいいたいのかというと、これが神様というのを人は客観的に把握することができないという、人間の性質からの理由があるということです。また神という存在が、人と違うため、もともと神を把握することはできないと別の理由もあります。古代イスラエルでは神にあったら死ぬ、とまで恐れていた部分もあるほど、超絶した存在ではあるとも言われいました。

この理由から考えると、今まで私たちが思っている神様の姿と違う何かがあっても別におかしくない。それにそれをいったところで、そもそも今までの認識が単なる既成概念といえなくもない。そういう考えもでてくるのです。

ただこれをいうと、キリスト教神学者たちは信仰を否定するのか、キリストは伝説上の人物だといいたいのか、とか警戒します。それは過去そういうことをいった、唯物的な神学者や哲学者がいたからです。

でも私がいうのはただ、実際聖書をしっかり読んでいなかった時代の既成概念にとらわれる必要はないということです。それを否定するのではなくて、さらに深く探求していこうというものです。だから既成概念を否定するつもりはありません。神様は全能者で栄光のお方です。けれどそのお方が何の感情もなくただ、全能者としてはりぼての中身がないものとして考えていいのでしょうか、という神様の心の部分について考えていく必要がでてきた時代になったのではないかと思うのです。


神様は優れているがゆえに地上の誰よりも愛情深い反面、どんな詩人よりもどんな挫折した人よりも深い傷を受ける存在


キリスト教だけに限定しても神様のことをハレルヤと賞賛している人は、世界に数多くいます。なのになぜ、私のことを考えている人がいないとそんなことをいうのでしょうか?

これは非常におかしな話です。だけど考えてみたら単純なことです

親の痛みは子供も親にならないとわからない、という言葉があります。また人の上に立つ人の気持ちも、同じ立場に立たないとわからない。そういう上に立つ立場の人は、孤独だと言われたりもします。

そこからも類推できることではあります。

そうです神様ほど、孤独な人はいないのです

さらに聖書をみると、その挫折と傷ついた気持ちは誰よりもあるのはわかることと思います。人は確かに暴虐にみちてばかりで、ひとり子さえも殺したほどです。

聖書の最初から、人類は裏切りの歴史です。カインがアベルを殺します。不法がはびこったので、ノアのときは世界を滅ぼしました。それからアブラハムはイサクを供えものにしたときに、神はこうもいいました

…あなたが私を恐れるものであることを今知った

それは信頼していたアブラハムが、裏切っていた証でもある言葉です。なぜ今知るのでしょうか。それ以前には、知ることはなかったということといえなくもありません。

そんな話は数知れず、聖書にはあります。神様は人に慰労や感動は与えたりしてきましたが、人が神に慰労と感動をあたえることはどれほど少なかったのでしょうか、だから…あの言葉

…私のことを考えていない

そうなったとして、私はおかしくないかと思います。これは神様の心の中に秘められた気持ちの一部に、偶然私がふれてしまったんだろうと思っていますが、間違った考えなのでしょうか…


現代は口伝という教義だけではなくさらに深く神様の事情を知ることができる時代に


私たちは、信仰を熱心にしています。だけどその対象である神様のことは、意外にアバウトに考えています。これは教会のドグマとか、教理とか、律法主義だとか、そういうものではあるのだろうと思います。

その反面、真摯な祈りで神様の深い心情に触れることもできます。いわゆる聖霊の感動ということですね。だけど感動は、私たちが受けるものであって、神様がただ感動を受けてもらいたいとだけ思っているのでしょうか。

人の心理やメディアを通じて作られた、ドラマやリアルな人間の営みが1世紀近くも積み上げられてきました。いろいろな人の考えなどにも、パターンもあるように思えます。その失敗の部分を生かすことは重要なことでしょう。昔はそれすら現実のものとして、浮かび上がってこなかったわけですし。

量子論の結論は、別に哲学の世界ではソクラテスの昔からあったものでもあります。それをよりリアルに否定できない形に、表現を物理というとても現実的な手法でされただけです。理屈があたらしいわけではなくて、否定できない現実になっただけです。

口伝時代のように伝えられたものが、実は聖書です。もちろん聖書は啓示ですが、それをどうとらえるのかは人の認識でどうとでも変わります。現代は人がそういう状態であるということを再確認して、今一度聖書も信仰も再度確認して、さらなる高みをめざすそんなときではないかと思うのです

さらに詳細に分析することは、聖書を否定するそういうことではありませんし、そもそも私たちは聖書を啓示的にだったり、祈りとして心の奥底から感じる言葉としてとらえていたのでしょうか。

外からとらえていた、のではないでしょうか。神様の深部まで考えていたのかは、正直私は自信がありません。もちろん私が、不足な故なのかもしれませんが…

これは聖書に対する、アンチテーゼではないのです。さらに深く理解するための詳細な設定を考え、そして祈りで感じていくというそういうことです。私は最終的に人はそういう作業をして、神様の心をどんどん理解していく必要があるのだと思います

そして、そういう時代圏にいつからだかわかりませんが、もう入ってきたのだとそう感じます。そのための、科学的な分析方法だし、理性の発達です。

ただの批判やテーゼとアンチテーゼによる相反が、新しい何かを生みだす化学反応的な発想ではなく,より深部に到達するために、科学や理性も使って分析できる、そういう時代でもあるのかと思っています

そのヒントが、あの言葉には隠されているように思っています


…誰も私のことは考えていない
誰も私のことを見ていない


私の気持ちを知ろうとしている人が
いない

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