孫の運動会での風景-外国人の親への対応をどうするのか?

 昨日は、保育園にお世話になっている二人の孫の入園後、初の運動会であった。三年保育の子どもたちに加えて、未満児(以上児+幼児)を受け入れている保育園だけあって、少子化とはいえ園児の数も多く、中々の盛況ぶりだった。そんな保育園だからこその風景ではないかと思われたのが、シングルマザーガチの普段のママ達が、そばにいる男性に対して何となくよそよそしい態度に見受けられた。離婚した旦那さんが一緒だったみたいだ。運動会では、子供のためだけに来てもらっていたのだろうが、普段、生活を共にしていない、それを望まないから離婚したわけで、一日だけファミリーになるのに、多少の心のざわつきが見て取れた。ぎこちなく映ったのも当然だろう。ただ、昔の離婚夫婦と違い、別れた夫は子供の父親ではあるということを認めている新しい在り方がスタートしている事実に、微笑ましさを覚えた。肝心な我が娘の別れた夫は、七五三記念撮影の時に最近、諏訪に来て子供達と娘と一緒に食事などもしていたためか、来なかった。来てもよかったのだろうけど、私は、顔を見るのも嫌だという気持ちになっている。それはさておき、もう一つ、気がかりな風景を目をした。今日は、ここではそのことについて書いておきたい。

 ブラジル人夫婦の子供さんが一人、年長組に在園しているのは、娘から聞いて知っていたが、この男児がとても闊達なのは良いとして、非常に多動であり、言葉が悪い。というのも、家の孫は土曜保育や延長保育でお世話になっているため、その時間は、全クラスの子供を一組にして保育してくれるため、この元気の良い男児とは同じクラスの仲間でもある。それが、災いの元と言ってしまえば難があるが、とにかく、彼から悪い言葉をそっくり学習してくる孫の言葉遣いが非常に粗悪で、聞くに耐え得難いものがある。なんとかしてくれ~と、悲鳴が出そうなくらい酷い、汚い言葉なのだ。

 彼の発する大人びた汚い言葉は、一体誰から学習しているのか?当然のこととして両親から学習したとしか想像できなかったが、実はこのご夫婦、ほとんど日本語がしゃべれないそうなのだ。それを知ったのは昨日の事だった。同じ駐車場だったからか、私達のすぐ後ろから歩いてきた。軽く会釈をして「おはようございます」と、挨拶を交わしたが、娘曰く「挨拶程度の日本語しかできないみたい」と。

 では誰からあの汚い言葉を学習しているのか?この疑問は、両親に聞かないとわからないが、その両親とも日本語ができないため、園の親達の誰も接触できないでいる。つまり、困りながらも我慢をしているそうだ。このことを知って、問題が、我が事になったなと感じた。

 私は移民の受け入れを支持しているし、狭い日本だけど、外国人が日本人に混じっている日常が好きで、日本で良かったらどんどん来ておくれと、普段は思っている。その日本にブラジル人が多い理由はご存知かと思うが、日系のブラジル人ならビザの取得は不要で、出入国できる。日本に働く目的で来るブラジル人がほとんどだが、片言の日本語をしゃべる人が多いのも、在日を有利にしているはずだ。と思いきや、全くしゃべれないという日系ブラジル人もいたとは、これは意外だった。時代を思えばそのはずで、もう三世が子供を産み育てている。それでも良いといえば良いが、日本で暮らすというのは、出産・子育て・仕事の何れにせよ、日本語と向き合うということの繰り返しになる。長く在日するつもりなら、少しは日本語を習得するという積極姿勢がないと、日本の文化に触れることも、日本の習慣を受け入れるにも障害となってしまう。その姿勢がないまま暮らしを成り立たせるという意味は、日本でブラジルの暮らしをするということではないだろうか?「これは困った」と、咄嗟に思った理由は、子供達の運動会を参観する父親の姿からだった。

 母親はこの日は、年長組の役員として、運動会の会場整備で動いていた。父親と一緒にいることはなかったため、目立ったのかもしれない。子供達の発表を前に、ポテトチップスやジュースを飲みながら見ていた。良くある光景だが、子供は、見ている親に「パパー、ママー!」と、手を振ったりもする。つまり、子供の目は常に、親達に向けられている。園でも親達への配慮として、参観中の飲食を慎むようお願いしている。日本人の親なら誰もそんなことはしないだろうことがここで起きていると知った時、その親が日本語がしゃべれないとなると、勇気があって、マナーのことや子供の言葉遣いの件で話し合いたいと申し出れたとしても、対話ができないとなると、他の親から総スカンを食う可能性だってあるし、ブラジル人への偏見にもつながる日本社会の怖さを思った。

 移民を受け入れる事はできても、外国人が自分たちだけの価値観だけで行動をすれば、「俺様ルール」に対して日本人がまるっと受け入れるとは思い難い。であれば、対話し、お互いの意見を交換しながら妥協点を見い出せば良いが、相手が日本すらしゃべれないとなるとどうだろう。これは一つの問題だと思う。

 彼らは、見よう見真似でできる仕事につくしかないし、それもできないとなると貧困化する。それが起きているのは、フランスの北部のスラム街ではないのか?それも数の問題にすれば、日本も行く行くは同じ道を通るのではないだろうか。

 働くだけの目的では移民は反対とは言わないまでも、なぜ、日本を選ぶのか、その理由によってはブラジル人とはいえども、ビザを発給して受け入れ国の考え方を示す必要があるのではないだろうか。つまり、日本政府の移民政策の具体策が有るのか無いのか、はっきりしろと言いたい。無いなら具体策を練る、それだろと言いたい。これはあくまでも移民の初期段階での対応として思う。ブラジル人に関しては、三世ともなると日本語は暗黙の前提条件に含まれなくなるため、ある程度の制約を設けるというものじゃないだろうか。外国人を受け入れ、その数が多くなれば、彼ら同士の交流で補い合えるということも出てくる。例えば、外国人学校を設立して、日本語の国語授業を導入するなどがある。

 何れにせよ、最低、日本語学習を前提条件にすべきだし、地域行政の下で暮らすことになるわけで、民生委員などのお世話にもなる前提で受け入れるというものではないだろうか。彼ら外国人のための、日本の暮らしの相談役として配備する必要があるだろう。

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