水害が人災ではないかと思うところ

 鬼怒川水害「太陽光パネル設置が影響」(参照)と、朝日が報じている。水害の翌朝、「堤防決壊」などの文字とメディアの画像を見て呆然とした。あっという間に水に流されていく家や人、北陸の津波のことが思い出された。なぜ、一級河川でもある鬼怒川で決壊が起きたのか。また、なぜ、河川の近くの家や人を守ることができなかったのか。私なりにその原因を考えていたこともあり、国土交通省の管理が不十分とは思った。

 「凄く頑丈な堤防を作るというのは必須としても、水害に遭遇した場所に住まわないのが一番かも。そういう場所は極力避けて家を建て直すのが一番いいかも。そういえば、春日部の地下神殿は活躍しているのか」などは極当たり前のことだと思う点で、なんとなくTwitterで呟いたが、水害の恐ろしさを経験している世代も、もう少ないのかもしれない。先の記事のソーラーパネルの設置から、連鎖的に思うことがある。茨木や栃木で起きたことは、都心でも起きるのではないか?例えば、多摩川の例だといろいろ思い出すことがある。

 遊水池を埋め立てて団地が建てられ、堤防の道路の川側に住宅地がつくられている場所がある。これは行政の規制がきちんと機能していないことに問題がありそうな例だ。

 狛江の水門のあるところは決壊の常連で(参照)、そのすぐ裏にあった浄水場が廃止されて宅地に変貌した。今回の豪雨でも、もう一日続いていたらと思うと、多摩川も決壊していた可能性はあったのではないかと思っていた。1974年の水害を経験した住民はこの遊水地を避けて坂の上に盛土まで施して家を立て替えて、水害と地震に十分配慮している。その知見が代々、引き継がれていけば、そういう場所を避けて住むのは当然だ。しかも、関東平野はローム層で地盤が弱いため、地震や水害などのリスクは高い。

 川のすぐそばには、半地下の三階建てなど、信じられない住宅も見受けられる。東日本大震災では、東京の湾岸部で液状化現象が起き、住民が一斉に訴えていたが、そこ、元々は海でしょ?了解済みで買ったんでしょ?と思ったものだった。多分、多くの人は何も考えないで家を買うんでしょう。こういった判断をどう説明したらいいものか?短期的な便益を長期的リスクに優先させる合理性とでも言ったら良いのか?一か八かの勝負みたいなもの。大きなところでは、原子力発電は、その最たるものだと言える。原子力には水がないと困るが、津波の心配をしながら海岸線にそれらが点在している。今回の安保法制についても同様に思う。憲法で定めるタイミングを逸したため、不完全な集団的自衛権しか発動できないにもかかわらず、「国民の安全を第一に」と声を大にして言えることか?この辺はむしろ、現代人が「リスク管理」を退化させた部分かもしれない。

 調布に「羽毛下(はけした)」という地名があるが、「羽毛」は古語で「崖」で、河川段丘を意味するが、現在は団地や住宅がひしめいている。この地域の、少なくとも小学校あたりの郷土史で教えておくとよい。

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