独居高齢者にまつわる問題

 町内に、102歳になるお婆様が一人で住んでいる家がある。数年前、100歳を超えるご夫婦としてNHK番組で取材を受け、放送されたこともあるが、残念ながら、旦那様は先に亡くなった。このお婆様について今、近所で話題になっている。簡単にいえば、年寄りの独居生活で、いつ亡くなっても近隣に迷惑をかけてほしくないというのが根底にあるのかもしれない。このお婆様の子供や孫達が居つかない理由も、家庭内に問題があるのかもしれないが、そもそも、人の厄介になるのは御免という、気丈な性格の持ち主で、今までひっそりと、自分の暮らしを守ってきている方なのだとか。と、漏れ聞くと、あれま、うちの母と同じじゃないかと思わざるをえない。また、近所の人達がこのお婆様のことをどんな風に受け止め、なにを言っているかというのは、私の母が近所ではどう思われているかを察するに足りる。そんなところから、人の話に関心を寄せて聞いている。

 一昨日、共同風呂でよく行き会う方が、血相を変えて私の後から入ってきた。数軒開けてこのお婆様の家の近くとあって、外に出たついでにお婆様宅に声をかけ、無事を確かめているそうだ。

 話はこうだ。いつものように声をかけると、耳が遠いせいか、全く返事がないこともあり、ひと声かけて上がり込むと、茶の間で伸びたように倒れていたと。特に異常はなく、返事も返ってくるため、抱き起こそうとは思ったものの、一人では壊れ物に触るようで怖くなり、町内で床屋を営む旦那様に電話して来てもらい、二人で抱き起こして介護用ベッドに寝かしたというのだ。徒歩で10分ほどのところに住む、お祖母様のご長男に連絡し、バトンタッチして来たという話だった。

 ここまでやってくれる人が近所にいてよかったとは思うものの、誰だって、このような状況に遭遇すれば、何かしらしないではいられない。このお婆様がこのような状況になる可能性を普段、思って暮らしていたかどうかはわからないが、半年ほど前、一人でお風呂に来ていた時、腰が抜けて立ち上がれなくなり、たまたま一緒に入っていた人が抱き起こして家に連れて帰ったということもあった。その時は、目と鼻の先に住む、お婆様の孫の家に状況を説明し、できれば身内の誰かが一緒についてお風呂に来てはどうかと、助けた人が意見したそうだ。身内の人達はというと、近所に言われなくても重々承知しているそうで、ご長男も引き取りたいと話しているそうだが、お婆様がうんと言わないため、近所には恐縮しているらしい。

 懸念されていたとおりのことが自宅で起き、近所の人に助けられて事なきを得たが、それでも昨日はまた一人でいたようだった。ここまで頑固なお婆様と見るか、お婆様にとっては想定内のことと見るかは分からないが、このようなことがあると近所のひそひそ話が始まる。実際、助けた人は、翌日も声をかけて上がり込んで様子を見ている。これを知った他の人達は、頑固なお婆様は困りものとか、あそこまで頑固だと可愛げがない。誰もいない時にまた倒れたらどうするんだろう、などと話している。腰が曲がったお婆様だけど、その腰が抜けてしまうと、一人では起きられないことになるため、誰も気づかぬまま、冷たくなって発見されるかも知れない。それが最悪の状態だとしたら、誰にとってそれが最悪になるのか?よく考えると、誰にとってもどうでも良いことでもある。私の母が仮にそんな状態になったとして、私が望むと望まざるに関係なく、母が死ぬのは一瞬のことであり、誰かがそばにいたとしても、死ぬのは本人である。家族の死の瞬間を看取ることが美化され、死に際に、誰かがそばにいる光景を美化し、悲しみに溺れる自分の姿を美しいとし、最期までいてよかったと思う私だろうか。

 考え方が変わったのは、どんなに勧めても、母はいよいよになるまで自分で暮らすと言って聞かないのである。それが母の望みなら、余計な心配は無用で、好きに暮せば良いし、冷たくなって発見されても、それはそういう死に方を選んだ結果として受け止めようと思っている。「近所への迷惑」がかかるようになる前に、母は自分で「いよいよ」の時を先に選ぶのであろう。諏訪の、私の近所付き合いと違って、向こう三軒両隣とも全く付き合いがない実家でもある。都会もそうだろうと思う。田舎に住むと近所付き合いが面倒くさいというのもある。都会の老人は、程々に他との距離があるため、孤独死も珍しくないが、田舎ではそうはいかない。それが良いとか悪いとかじゃなく、気丈で、一人でやっている老人もいて、放置して欲しい類の人もいるという解釈に至った。

 近所の人達の話しを聞いていて察するところ、人の死に際に家族は寄り添うもので、孤独死させるのは恥ずかしいことのようだ。裏を返すと、それをしない家族は人非人で、無責任ということだろう。これは重苦しい。日本にはこのような対幻想が昔から存在し、これに対して、宗教的な共同幻想をかぶせて人を孤立化してしまう。村八分とはよく言ったものだと思う。

話は変わるが、Twitterで、「国民皆保険による医療、医師の半数「持続不能」 本社1000人調査」という記事を拾って読んだ。気になったのは以下の部分だ。

 負担増や増税がなければ薬価だけでなく、医師の診療費も削減対象になる。今回の調査では負担増のほか、医療の効率化の必要性を認める声もあった。医療保険財政に詳しい小黒一正・法政大教授は「医療費抑制のために診療費が削られることを心配しているのだろう」と指摘している。

 小黒教授の意見は意見として、最近、Z省が流しているんじゃないかと思うほど、「増税必須」みたいな空気を感じる。この記事も大方そんなところの出所じゃないかと感じたが、医療費問題の究極は、物理的に、無いものは無いとなれば、保険料を増やすか、使うのを減らすか、優先順位をつけて治療をするかなどしか方法はない。高額治療についても、お金のある人しか受けられないようになる日も来るだろう。オバマケアーがトランプによって改廃の危機に晒させているが、貧困層が最低限の治療を受けられるようにという願いから始まったこの制度の維持は、このままでは無理もあるようだ。日本には、少子高齢化の社会的影響が、医療費に及んでいる。

 102歳のお婆様に話を戻すと、実は、一昨日倒れる直前に、日赤で診療を受けたばかりだったそうだ。そして、何も異常がないため、入院できないと言われたらしい。何か異変があって受診したのだろうけど、家族にとっては、あわよくば入院させたかったのかもしれない。うちの目の前の家のお婆様は、先日、家の中で転んで救急車を呼んで日赤に運ばれたが、1時間ほどでタクシーで戻ってきた。転んでも怪我をしているわけではないため、少々痛くても我慢しろと言われて帰されたことに憤慨し、「日赤はダメだ」と、怒り心頭の様子だった。が、医者の見立てでは「少々のこと」でも、本人にとっては大事なのだ。家族にしてみれば、足腰が立たないほど痛がっているのに、入院もさせてくれないと、こういう解釈になる。二人とも、不自由そうではあるが健康体そのものということだ。

 団塊世代が全て高齢者に属し、医療が高度になり、お金がある人は治療を受けられるという時代に突入しようとしている今、誰が財布の紐を緩めるだろうか。大切に箪笥にしまい込んで、ちびちびと使いながら100歳の誕生日を健康に待つというものだろうか。いや、他人事ではないのだ。

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