父が亡くなってそろそろ一ヶ月

 あっという間に一ヶ月も過ぎる。
 父が様態がこの夏、あまり良くなかった。医師で、内科クリニックの医院長で、その関連で老人施設を幾つか経営する従弟に昨年、腰の圧迫骨折後、お世話になっていた父だったが、誤嚥性肺炎を何度か引き起こし、膀胱炎などで高熱が続いた結果、体力の消耗に打ち勝つことができず、老衰で自然死したのが9月13日だった。清水市内の葬祭施設に駆けつけた時、お棺に横向けに、まるでお昼寝をしているように寝ていた父に会った。とうとう親の死の姿を見る日が来てしまった。

 電話で連絡をもらった時は、時間的な行き違いで結果的に既に亡くなっていたわけだが、臨終が間近だと聞いて、最期の姿を見届けたいという気持ちはあまりなかった。それは昨年、この施設にお世話になって以来、毎月一度は家庭料理を持ち込んで父に面会し、お酒を飲むなど、好き放題やらせてもらっていた中で、帰る時、父の顔を見て去る時、これが生きた父の姿を見るのは最後になるのかもしれない、という気持ちだったため、改めて父の亡骸を見たいという切実感はなかった。思い出したのは、小学生の低学年の頃、自分の親が愛おしく、そんな親に死んでほしくない。いつまでも生きていてねと思いながら布団の中で泣いたことだった。それを娘に話すと、娘も確か、そんな事があっと言っていた。今思うと、あれが親に対する子供なりの親への思いだった。それが心の基地になっていて、「親」というものを「子」として今まで独占して来たのだと実感した。この「基地」を持たない人がいることも知っているが、壮絶な孤独の世界で生き抜いているのだと思う。私は、親が亡くなってみて初めて、この心の基地を自覚できた。申し訳もないが、それまで自分の心を親に語ってこなかったことを少し後悔もした。

 今月末、父の生前、父の意志で契約した「樹木葬」を行う運びとなった。これは母と弟の都合を合わせた結果なのだが、私はこれにはおそらく行かれないだろう。長男に第一子が誕生する予定日付近で、数日、その手伝いに行く予定をしている。父にとっては3人目の曾孫になるが、生まれ変わりのようなタイミングになる。

 ところで話は変わるが、息子のお嫁さんの家のことでよく戸惑うことがある。具体的には色々あるが、それで思うのは、結婚というのは、それまで全く赤の他人同士だった2つの家族が、急に、親戚付き合いのようになり、価値観の相違や家風など、無いようであることに気づく。基本的には結婚した二人がどうしたいかが鍵になるのだが、相手の家を思うと、嫁さんを貰った側の我が家ではいろいろな気配りが必要になる。

 まず何と言っても、嫁さんが結婚してよかったと安心できる家族でいたいし、我が家の娘には義理の妹、次男の義理の姉として受け入れることだ。だが、形があってやることでもなく、すべきことという義務感も不要だが、嫁さんの親の考えがわからないため、対応することも中々難しいものがある。私が気になることをどうするか、嫁さんの親と相談すべきなのか、息子夫婦と相談で決めるべきか、考えているうちに、気づいた自分がまずはやったら良いということに帰着してしまう。それもどうも差し出がましい。などなど、思考がぐるぐる回っているだけになる。ホント、面倒くさい。こうなる相手の原因から言うと、自分の意思表示をしない性格の親子らしく、どちらかというと、察して物事やってください的らしい(息子曰く)。嫁さんもつきあった当初、何を考えているのかさっぱりわからないヤツだと思って苦労したと、息子から聞いた。今では私に対しても、普通に話をするようになったが、結婚前の彼女は、話しかけるとビクつくようなタイプだったので辟易とした。

 つまり、時間をかけて知り合って徐々にわかり合っていくタイプなのだということか?私は、性格的に物事を察知したら行動に移すのは速い。結果をまず出して方法を変えながら高度な完成度へ近づこうとするタイプ。ここに他人が入れば、その都度検証して最良の方向へと考えを出してもらう。誰がそれをするのかも、適任者を見つける作業をするのだが、意見を言わない人は、意見を持っていても聞かれずに過ぎ去ることになるため、私としては非常に気配りする。これが時には時間との戦いで決断が急がれるときもあるため、気が気じゃない。

 このところはこんなことで気ぜわしく日々を送っている。

 

 

 

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