「そんなこと、やらなくても死にゃーしない」

 人の考えは、その説明を聞いていればなんとか理解にこぎつけられるが、その考えの中に潜む、その人物の物事への感じ方というのはなかなか図れるものではない。その理由に、事象によって人の感情は繊細に動かされ、そこから出てくる言葉は、その感情を正確に言い当てているとは限らず、微妙に、対人に対する感情が含まれる事があるからだ。また、感情というのはひとところにとどまることがない。どんどん動いて変化していくため、その方向も、良くなったり悪くなったりもする。

 私の家事の軽減について夫に思うことを話した時だった。この話しに至るまでの背景は割愛するとして、家族が増え、二人の娘を保育園に預けながら娘がフルタイムで仕事をしていることと、その仕事が世間の休日とは違うというだけで、随分、私の家事労働が増えた。この話は、折に触れてここには書いてきた。自分の体調が良い時は頑張れるが、体調が悪くなると、その原因から、症状や回復の目処がさっぱり予測できない。これも、子供たちからもらったインフルエンザのようであり、胃腸炎のようでもあり、熱は出ないかと思うと熱が上がったりと、今までに経験のない症状が多くある。とにかく休むしかないと思うのだが、代わりを頼むにも皆、忙しく働いている。そこで気兼ねをするというのは有るが、だからと言ってどうにもできない。こんなことが昨年から繰り返されてきたが、ここでまた、原因不明の食欲不振と気怠さが風邪の症状のように起きた。嗚呼、これはもう休めという啓示なのではないか?しばらく調子が良かったこともあり、少し無理をしていたのかもしれない。遂にダウンした。

 そのことを夫に話す時、自分の身の回りの後始末を最低限やってくれると私の日常の家事がどれだけ楽になるか・・・そう付け加えた。いや、本当にすさまじいだらしの無さなので。すると、夫は「掃除や片付けなんか、やらなくても死にゃーしない」と、自己弁護した。と、自分の言い訳にしたのかと思ったらそうではなく、私に対して言った言葉だった。ここで泣けた感情的な部分は後で話すかもしれないが、今は割愛。価値観が違っても良いが、この価値観の徹底的な違いによって、結婚当初から今の今まで私は、夫の後始末悪さに辟易としながら暮らしてきた。私が無類の綺麗好きかと言われれば、潔癖症ほどでもない。いくつか並べてみるか、折角の機会だし。

・ 玄関の靴は、脱ぎっぱなしはせずに、奥に揃えて入り口部分を空ける。
・ 洗面所使用後は、髪の毛を拾い、洗面部分を軽くスポンジで撫で、蛇口部分の石鹸は洗い流す。
・ 帰宅後の上着は、衣類のハンガーに引っ掛けて置く。
・ 洗濯物は取り込んだらすぐに畳んで片付ける。
・ 使ったものは基本、元の場所に戻す。
・ 火の周りの油はねなどはすぐに拭きとる。

 などなど、書き上げようとするときりがないほど私は一日中、何をするときもした後も、片付けに尽きる。これには、実は考え方がある。

 片付け物を目一杯貯めこんで一気に片付けるのではなく、全ての行動で、「次の人のために元に戻す」というのが元の考えになっている。誰ともなく、私の後に誰かがここを通ると仮定すると、いつも同じ場所にすぐに使えるように用意してあることは、人の行動を最短にするという社会づくりとでも言うのか、家庭なら、このルール化は合理性といえる。人が、できるだけこのように意識をおいて行動すると、見張り役や、掃除専門になる必要がなくなるからだ。

 とは言え、皆完璧にそれができるわけでもなく、たまに一人くらい、いっくら言ってもできない人はいる。それは他者が補えるため、何となく持ちつ持たれつの関係で安定はする。が、等分のバランスが崩れることもある。例えば、夫婦二人の暮らしで、片方がそれを「死にゃーしない」という理由でやらなくなると、他が100%を請け負うことになる。我が家は、幼い孫が二人増えただけで大人一人分以上の手が掛かる上、「死にゃーしない」という夫と、忙しがっている娘という構成になったため、私一人で全部請け負っているというバランスになっている。100歩譲って、「少しくらい片付いていなくたって、死にゃーしない」が、私への「掃除をしなくて良い」という許可の言葉としたら、それは、私の解決には成らない。潔癖症というほど綺麗好きというわけでもないが、片付いていると気持ちが良いではないか?綺麗に片付けた後は、自分の気持ちも良いものだ。

 考えてみれば失礼な言葉だ。一生懸命、家事をこなしている人に対して、その価値を死と比べて、取るに足らない徒労とは。

 言ってもどうにかなる問題でもなさそうだが、これ以上続くと、疲労するのは確実になりそうだ。ここで自分の何かを緩めると、どうにも止まらなくなる気もする。このまま維持できれば良いなあ。


 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?