「発達障害」が一番言い得ている現実

 最近、娘や息子を取り巻く特定の人との関係で、色々な問題が発生しているのを聞く。何が起きたのか、その事象を聞くだけで大体、解決策が見えてしまうのだが、その策に望みも希望もなく、快方に向かうというものでもない。だが、どうしてもそういった解しか見いだせない。これは、第三者から見て、人を切り離す以外にないのではないかと思い至る。一種の苦悩である。

 善人であろうとする自分が、心は醜い冷血漢で、その冷たい自分を暴露するのが苦しい。善と悪の間で、どちらも否定することのない心が横たわっている。

 対人関係で悩みの多い青春時代を過ごした私だった。恋愛関係や友人関係でそこそこ傷つき、その経験からいろいろなことを学んだ。人は、そういう対等な関係から自分を形成し、自分という人間がどういう人間なのか、大体検討はつくものだが、対等ではない関係性においては、偏向的なその環境に順応すべく人間形成してしまう。平たく言うと、「社会性」とは一つの概念であり、個の単位ではあくまでも個性として見るしかない。その視点で人を見てみると、話が全く通じない相手の存在に気づく。

 それは、日常会話ではほとんど見られることはない。どういう時かというと、何か大きな社会的な問題に遭遇した時、その何が問題なのか、その問題がまず見極められない。よって、解決する方法も手順も全く考えられない。こういう人の存在がある。これに驚いた。と同時に、相手への理解を求められない現実と自分がどう向き合ったら良いのか悩む。言葉は良くないが、異人種なのだ。壁にモノを言うような虚しさや歯痒さを感じても、その相手と問題の解決を話し合うことができない。この現実をどうしたら良いのか途方に暮れた。

 これが、「発達障害」(参照)だろうと思う。

 上下関係で、服従を強いられた子供が大人になるまでに何を学ぶか?上からの怒りや暴力を避けるために表と裏の顔を作る。そして、脅かしやイカサマに引っかからないようその裏を書く術を身に付ける。そういう人間が後に起こすのは、カネで人を操ろうとしたり、人を恐喝して私腹を肥やすなどだ。また、問題が発覚すると、逃げることしか考えない。他者に謝罪するなどの思考回路もない。詫て許しを請い、人生のやり直しをしようなど、建設的な思考ももちろんない。相手の立場になって考えるなどの配慮的な思考もできない。

 そういう人に「つける薬」がないのが現実だ。

 諦めるしかないでしょう。その人の存在が、これからの自分の目の前に現れないことを祈ってその場から立ち去るしか方法はないでしょう。そうやって人を切り離していくのがこの先、何度訪れるのだろうか。そう、自分の中の善人が苦しみ、悪を追いだそうとすればするほど何かが崩れていく。

 

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