孫が「みんなのもの」と、言ったことについて

 タイトルだけじゃ何の話だかさっぱりわからないと思う。

 ちょっと説明すると、2歳の妹が遊んでいるものをいきなり、「みんなのものだからね。」と言いながら横取りし、妹が泣きわめくと自分も泣き出して騒然という事態になった。これが発端となって、私の思考が開始した。

 こういう時、私は一切口出ししないようにしているが、収まらない時は、ちょっかいを出した方に「どうしたいの?」と、聞くようにしている。冷静になると、自分で道が探せるようになるため、しばらく待っている。

 こういう場面に遭遇した時、大人として思い浮かぶ解決方法というのは、いくつかあると思う。一切介入しない親がいたら、立派だなと私は思う。子供のおもちゃの取りっこにいちいち介入せず、子どもが自ら解決方法を見つけ出すのが一番だからだ。時間はかかるが、育ちという視点では、黙って見守るほうが良い場合が多いと思う。

 「普通の大人」と言うと語弊もあるかもしれないが、一般的に、このような場合、見た目での判断から、姉の行為の方が強引に見えるし、姉の方を叱るのではないだろうか。または、妹をなだめるのかもしれない。

 そういう介入はよくないと思うのは私だが、今回の問題は、些か違う視点を持った。

 姉が妹の遊んでいるおもちゃを横取りしながら、「みんなのもの」といって横取りし、そのことに悪びれもしない様子だった点だった。そこでピンと、アテナのようなものが張り、思考が、見た現実とは違う方向へ向いた。

 保育園でのおもちゃの取りっこが浮かんだ。そして、それを見た保育士が、「みんなのおもちゃだからね。」みたいな声掛けをして、孫が横取りしたおもちゃを相手の子供に返させたのではないだろうか?または、その逆でも良い。それが「みんなの」という「無所有物」になり、横取りの理由として、孫の脳内では整合したのかもしれない。子供というのは、自分の都合の良い方に解釈するもので、おそらく、今回の行為はそうだろうと思う。

 前段で触れたように、子どものおもちゃの取りっこに介入するのは難しい。どちらかを悪者にしてしまうからだ。おもちゃで遊びたいという気持ちを殺してしまいかねないため、かなり注意深く対応しないといけない。そして、そのやり取りが上手にできるように成長することが、大人になってからの「外交」でもあると思うからだ。いきなり暴力的になる大人がわんさかいる現代、そのことに気を置いているし、子供への大人の接し方によっては、かなり影響を及ぼすと考えていることでもある。

 「みんなの」という発想が保育士から出ているというのは、かなり確信がある。我が家庭には妹と二人しか存在しないし、どこかの家に遊びに行かせたわけでもないため、「みんなの」という言葉は誰も使わないからだ。

 保育園の保育士にとって「みんな」という言葉は、使いやすく、慣れ親しんだ言葉に違いないと思うが、「全体主義」の押し付けの弊害も大きい。

 私が「みんなで」とか「みんなの」という言葉をあまり使わないせいもあるけど、この言葉はかなり気になる。

 昔「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」と、標語をもじって笑っていたが、日本の政府や企業の構造上、一人が負う責任が非常に軽く、団体の責任は重い。場合にも寄るが、本来はこの逆じゃないか?

 昨日見かけたTweetで、これを素晴らしく言い当てていた。

ブログに課金すると、基本、お金出してくれた人への責務感は生じる。逆に、無料でブログを書き続けるには市民社会への公の責務感が問われる。

 これと孫のおもちゃの件が大いに関係あると思う点は、個人が他者に負っている責任の所在は利害に関係なく存在している、ということを子供に示せる大人であるかどうかだ。

 つまり、おもちゃという公共物を個人が使う時のお作法を問題にすべきであって、「みんなの」と言って子供に介入するのは、「みんな」に責任の所在が移ってしまうということ。

 このことを孫から教えてもらった。

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