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長い道 長尾比奈 述(1907年6月 北海道生まれ 2012年5月・享年102歳)

実家の整理で出てきた祖母の記録。私の父は、長男になります。

たちが娘のころは、親のいいつけは、なんでもハイハイと素直に聞くことが最上の事としつけられましたから、「お前、この人と結婚しなさい」と言われれば、否も応もなくそれに従い、結婚すれば黙って夫に従うものと決まっていました。


東亜戦争が始まって生活が益々苦しくなっていった時も(まさか神風が吹くとは思わなかったけれど)負けるとは思いませんでした。授業後、夫か青年学校の生徒と一緒に真剣に教練をしているのを見ますと、私たちもどんな不自由も我慢して銃後を守らなければいけないのだと思いました。

樺太・内幌で防空演習の時に、近所の奥さんが壕に入りながら、「これが本当の空襲だったら、防空壕になど絶対に入らない」と言ったことがありましたけれど、こんな方は、もう早くから何か不信感を持っていたようでした。今、思っても、私など、ほんとうにもう歯がゆいほど、何の疑いも持たなかったと思います。


和20年8月、終戦になると、ソ連軍が進駐してきて、日本人は樺太から引き揚げ始めました。でも、私たちは、すぐに内地に帰ることができませんでした。子どもたちは小さかったし夫は「生徒たちが一人でもいるうちは帰らない」と言って、23年まで残ったのです。

ここで意外に思ったことは、敗戦で日本人がみな浮足立っているときに、ソ連は、レーニンの言葉「学べ学べさらに学べ」を掲げて、子どもの教育は大切にしなければならない、と、残っていた日本人家族の子どもたちに、そのまま授業を続けさせました。その上に、日本人教師には、ソ連が900ルーブルの給料を払ってくれたのです。これは、本当に驚きました。もしこれが立場が逆だったら、日本が敵国の教師に給料を払ったりするだろうかと思いました。

のころから、目に見えて夫の健康がそこなわれ始めました。医者は引き上げ、薬もない村で、子連れのソ連の女教師と同居しながら、食糧難と、いつどんなことが起こるかわからない不安にさらされての毎日は、ほんとうに気が細る思いでした。

23年5月。ようやく内地に引き上げることが決まり、夫の弟が住んでいた北海道空知郡三笠町についたときはほっとしました。しかし、ここでも舅姑を加え11人家族の生活は長く続きませんでした。夫はこれまでの無理がたたって、わずか2年足らずで25年1月、この世を去りました。

夫が亡くなると、子ども4人を抱えて、北海道ではとても生活していくことは無理でした。夫の家は根室にありましたが、B29の直撃弾にやられて無一物となり、引き上げ先ではそれぞれ自分たちの生活で手一杯でしたから、私が働きたいと思っても、留守中、子どもを預かってくれる余裕などとてもなかったのです。

かに頼れるところもなく、「畑の草取りをしてでも暮せましょう」と進めてくれる姉の手紙に心を決めました。外地での大雑把な生活に慣れてしまった私たちは、みたことも無い土地へ来る不安はありましたが、そうするよりほかに道がなく、どうせなら子どもたちの新学期に間に合うようにと、夫が亡くなった3か月後、秋田県本荘市へ来たのでした。

姉は快く迎えてくれました。子どもたちの就学のことについてもなにかと便宜をはかり、気を使ってくれました。この時長男は高1、次男中1、長女8歳、次女4歳でした。けれども、姉は子どものいない人で、養子を迎えておりましたが、その養子夫婦も子ども2人を連れて満州から引き上げてきており、そこにはお互い、言葉にいいあらわせない気遣いがありました。

の家に同居して世話になったのは9か月余り。思い切って、由利橋の近くに夫の一時恩給で家を買い、その年の12月、親子5人の暮らしを始めました。

当時は、子連れの中年女の働き口などどこにもなかったし、姉の好意で畑で採れた野菜や果物を安く卸してもらい、細々と商いを始めました。幼い子もいるし、学校から帰ってくる子どもたちにも寂し思いをさせなくてすむし。とおもったのですが、品物を売りさえすればなんとかなると考えた商売が、それはそれは大変なことと知りました。

やってみて、だんだんわかってきたことは、まず地の利が悪いということでした。考えてみると、石脇地区の人は、買い物は橋の向こう、つまり、朝市か、朝市のたつ大町の商店街で済ませ、ここは通り道に過ぎない。つまり足がはやすぎるということでした。資金が十分あるわけでなし、そのうえ商売の経験がまるでなかったから、お客に上手をいうすべも知らず、また土地の言葉がよくわからないため、お客との受け答えが思うように行かず、何も買わずに帰っていくおきゃくもあったり。中には、小さな店の利益などほんのわずかなものなのに、立派な身なりの親父さんが来て、「収入印紙をまけろ」、というのです。「たくさん買うときはそうしているし、いやなら他所へいく」という言い方をして負けさせられ、ずいぶん情けない思いをすることもありました。

んなこともありました。秋になって、長男の思い付きで、サツマイモを生で売るより、焼き芋で売ることにしようと、いろいろ準備し、ようやく手筈が整って、売り出したその晩、近くの八百屋さんがあいさつに来て、「明日からうちでも焼き芋を始めますから」というのでした。みな必死な時代だったのです。これはまったくショックでした。むこうは土地生え抜きの人で、自分の畑でとれた芋を焼いて売るのだし、こちらは安いとはいえ、元手のかかった芋を焼いて売るのですから、明らかに不利。商売に無知とはこうしたものなのでしょうか。

このころ、石脇地区にはまだ水道がなかったので、毎日井戸まで水汲みに行かなくてはなりませんでした。洗濯は毎週土曜日の夜。まとめて風呂敷で一つつみを姉の家に持っていき、12時過ぎまでかかってすませるなどと、毎日毎日のなれない商売の気苦労と仕事に疲れ果ててとうとう、27年の春、結核で入院しなければならなくなりました。

店は人に貸し、長男は新潟に就職させ、次男、長女、次女を再び姉の家へ預けました。9か月で出た姉の家に、今度は子どもだけあずけるのは本当に辛いことでしたが、ほかにどうしようもなかったのです。未亡人の姉は冷たい人ではなかったのですが、畑の忙しいときなど、外仕事や家族のこと、使用人のことと気を遣うことがかさなると、子どもたちのことまでは目が届かなかったと思います。子どもたちはまた子どもたちで、そうした周りの大人にきをつかって暮らすことを思えば、どうにも可哀想でなりませんでした。次男の進学のときにも、姉の考えと次男の希望が食い違い、そんなときにも病院でただ心を痛めるばかりで、何もしてやれない。そんなつらさは、3人の子供が世話になっていれば、何かにつけ味わわなくてはいけませんでした。それはもう子どもたちを思う心とともに深く悲しいものでした。

昭和30年、ようやく退院の見通しがつき、春には長男も新潟から帰ってきて、また我が家で家族そろって暮らすことができるようになったときの喜びは、何にも代えがたい物でした。



本荘に来て、30年の月日が経ちました。今ではおかげさまで長男の商売もどうやら安定し、4人の子どもたちはそれぞれ結婚もして、父となり母となっています。母子家庭の辛さに耐えながらも、方言にも慣れ、どうやら私も本荘の人になりました。長い道であったように思います。

秋田県本荘市史研究誌 1983年4月号より

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