千年王国での論功行賞【やがて来たるメシア王国】

本題に入る前に、二つの前提を説明しておきます。

1.根本的救いは「信仰によってのみ」救われる。(信仰義認)
2.『聖書』において預言されている今後の世界のタイムスパンがある。それはあらかじめ定まっており、『聖書』の通りになる。

1つ目の前提としては、「人類の三分の一が死ぬ7年の大艱難時代」と「肉の死後に地獄に行かず天国に行く」という意味においての「救い」は「行いによるものではなく、信仰によってのみ」救われます。
ですから、「行い」は「救い」の条件ではありません。アブラハムが主の言葉を信じて「義」とされたように、「信仰義認」の前提があります。

2つ目の前提としては、今後の定まったタイムスパンがあります。改めて説明するまでもないかもしれませんが、これまでの人類史においての聖書預言は100%成就しており、これからの聖書預言も100%成就いたします。

そして『聖書』が示す今後の人類のタイムスパンはこのようになっています。

教会時代 ←現在

携挙 (携挙とは、イエス・キリストが信者を裁きの日・怒りの日=大艱難時代から守るために、キリストの信者を天に挙げることです。イエス・キリストの空中再臨とも言います。携挙にあずかるためには、イエス・キリストを信じ、その結果としての聖霊の内住が必要となります。)


大艱難時代(7年)大艱難時代においては、イエス・キリストを信じなかった者たちに対する裁き、不信者に対する罰として人類の3分の1が死ぬことになります。

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キリストの地上再臨

千年間のメシア王国(イエス・キリストが王様となる王国です。本記事においてはメシア王国についての話となります。)

永遠の都(永遠の都では全員平等になるようです。)

これから抜粋する聖書箇所は、イエス・キリストが「栄光の王」として地上に再臨し、イエス・キリストの王国=メシア王国=千年王国においての論功行賞と私は解釈しています。


ルカの福音書19章11節-27節

11 人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。

12 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

13 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。

14 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。

15 さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。

16 最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』

17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

18 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』

19 主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』

20 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。

21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』

22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。

23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息として一緒に受け取れたのに。』

24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』

25 すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。

26 彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。

27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」

引用:聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この箇所においての、私の解釈といたしましては、「与えられた一ミナ」=自分に与えられた賜物・性質・資質・経験といった、「神が自分に与えてくださったリソース」と解釈できます。

そしてそれを用いていかにイエス様の御心にかなう働きや賜物の運用ができたか、ということが問われているようです。

一ミナを布に隠す=与えられた賜物を使わずにかくしておいた、働きをしなかったということが、あらかじめ『聖書』のなかでイエス様の御心にかなわないことである、と教示されているわけですね。

したがって、このことを知った人は、「自分に与えられた賜物を使ってイエス様の御心にかなう働き」が期待されているというわけです。

冒頭で、「救いは信仰によってのみ」(信仰義認)の話をしましたが、ここでは「行い」が出てきています。

確かに、救いそれ自体は信仰のみによって、信じるということのみによって救われるのですが、「行い」が千年王国での処遇と関係しているのですね。

この聖書箇所では、一ミナを十ミナに増やした人は、千年王国において十の町を治める権威を与えられました。もちろん、前提に「イエスさまのたとえ話として」というのがあるので、実際に町を治めることが報奨なのかどうかは、その時になってみないとわかりません。(ほかの聖書箇所では「祭司」に任命されるという箇所もありますから。町を治めるかどうかはともかく、祭司に任命される人は必ず出てくるようです。)

確定的に述べられる点としては、自分に与えられた賜物を働かせた=イエス様の御心にかなう「行い」をすることで、それに応じた千年王国での待遇・地位が決定する、ということです。

だから、「信じて救われたから、後は何やっても大丈夫」というふうにはならないのですね。

ちゃんと、「行い」に対する賞罰・論功行賞があるというわけです。

ポイントとして、皆さんの「自分に与えられた一ミナ・五ミナ」はなんだろう?ということを、これまでの人生経験や自分の特質から、よくよく考えてみるということが重要かと思います。

例えば私の場合は、イエスさまを信じたのは今年に入ってからなのですが、それまでの人生で「ツイッターをやる」「文章を書く」という神様から与えられたミナがありましたので、そのミナを用いて福音伝道・『聖書』に関する発信をしているというわけです。

ですから、皆さんにも、皆さんにしかない「賜物」があるはずですし、その賜物を活かしてイエス様の御心にかなうような働きをしていくことが『聖書』では推奨されているよ、ご褒美も千年王国であるよ、ということなんですね。


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