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【GODAIグループ90年の歩み】➁窮地の中から生まれたスポーツ事業のルーツ(後編)

GODAI note編集部です。

GODAIグループの90年の歴史を、現会長の佐藤武昌が振り返る【GODAIグループ 90年の歩み】シリーズ。第2回(1960年代~70年代)の、今回は後編です。

前編はこちら↓

突然、25歳 にして“9千万円”の借金の会社・神奈川園の社長に任命されてしまった佐藤会長。そこからは試行錯誤を繰り返し、赤字を解消しようと奮闘します。その経験から、どのように後のテニススクール事業につながったのでしょうか?

(※以降は、佐藤会長の視点で話を進めます)

赤字会社の立て直しに奮闘

神奈川園のあった横浜・反町公園(1968年)

1965年、私が神奈川園の社長に就任した当時、会社には30人の従業員がいました。

彼らにも生活がある。路頭に迷うようなことがあってはいけない。経営を任された以上は腹をくくろう――翌日、私は従業員を集めてこう言いました。

「みなさん、これからは私がこの会社の社長です。しばらくは暗闇が続くかもしれませんが、太陽は西から沈んだら必ず東から昇ります。希望を持ちましょう」

肩書は「社長」ですが、25歳の私は従業員の中ではいちばんの若造。トイレ掃除にプールの掃除、ローラースケートの指導員など、従業員の信頼を勝ち取るために泥臭い仕事は率先して引き受けました。お客さまからの苦情の矢面にも立ちました。

ローラースケートなど、当時の流行はいち早く取り入れた。後列いちばん右が佐藤会長(1970年代)

「とにかく赤字を解消しなければ!」

アーチェリー、釣り堀、一輪車、アメリカンドッグの販売……儲かりそうだと思ったアイデアにはすぐ飛びつき実践しました。が、ことごとく失敗しなかなか光が見えません。周辺の食堂に行けば、会社の株主である商店主と鉢合わせて「おい社長、いつになったら配当を出してくれるんだ!」と野次られることもしばしばでした。

水泳教室からヒントをつかむ

手あたり次第に新しいことを始めては失敗を繰り返す中で、唯一の集客力のある施設はプール。夏場のシーズンには多くの人でにぎわいました。

神奈川園のプールの様子(1960年代)

そのプールに、関東大会で優勝経験のある選手をコーチ に招いて水泳教室を開催してみたところ、教室は毎回大盛況に。その選手がさらに全国区の選手を呼んでくれ、最盛期には一日3,600人もの来場者を集める人気教室となりました。コーチたちも「すぐに泳げるように」と創意工夫を凝らし、熱心に指導にあたってくれました。

「コーチがいい教え方をすれば、お客さんはまた来てくれるんだ……」

この「教室」というビジネスモデルに、私は一筋の光を見た思いがしました。とはいえ、プールではどうしても稼働できる季節が限られてしまいます。夏場以外のシーズンでも、何かしらの「教室」ができないだろうか……?

新聞や週刊誌をめくりながら、「いま、何が流行っているんだろう?」と目を凝らすと、あるカタカナ3文字が目に留まりました。それが「テニス」だったのです。

プールの底にテニスコート?

「テニスか……」

それまでラケットも握ったことのなかった私ですが、ひとまずこの目で見てみようと全国のテニス教室を視察しました。それでもテニスが本当に儲かりそうか確証は得られませんでしたが、20メートル×40メートルのプールの底にはテニスコートが一面分すっぽり収まりそうです。

「よくわからないけど、ひとまず作ってみるか」

「マテフレックス」というプラスチック製のタイルをプールの底に敷き詰め、テニスコートを作りました。さらに、アメリカ製のテニスマシンも4機設置しました。

でも、コートやマシンだけではテニス教室はできません。そこで、コートの建設会社の若い担当者にそっと聞いてみました。

「君、たしか大学の後輩だったよね。頼みがあるんだけど」

「いいですよ、先輩の言うことだったらなんでも!」

「いまテニスコートを作ってもらっているけど、あいにくコーチが誰もいないんだよ……。だから、誰かいい人を紹介してくれないか?

さすがにこの時の担当者は目を丸くしていました。コーチのあてもないのにテニス教室をやろうとしたのは、日本のテニス業界では私しかいないでしょう。

幸い、その担当者の紹介で「アメリカンテニススクール」という会社からテニスコーチを派遣してもらえることになりました。こうして1975年、「アメリカンテニススクール神奈川園」を開業。これが、現在へと続くGODAIのテニススクール事業のルーツです。

「アメリアンテニススクール神奈川園」を開校。プールの底にテニスコートを作った(1975年)

本格的なテニススクール運営に

いざテニススクールを始めてみると、1面で800人の会員を集める人気となりました。これまで夏場のプールを除いて集客に苦戦していた私は、テニススクールの集客力に驚かされました。

「これでなんとか赤字を解消できるかもしれないぞ」

一方、その当時、白楽で運営していた「神奈川自動車学校白楽練習場」は敷地面積が狭いことから指定教習所の指定を取れず、苦しい経営状況にありました。そこで私は、おもいきって白楽練習場を廃止しテニススクールに転業することを、経営を担っていた伯父と義理の兄に提案しました。

それが認められ、1978年7月7日、株式会社神自(現・株式会社GODAIスポーツエンターテイメント)を設立。白楽練習場の跡地にテニスコートを作り、「白楽テニスクラブ」を開業しました。

横浜・白楽に「白楽テニスクラブ」(後の「横浜テニスカレッジ」)を開業。レッスンをしているのは現・専務理事の吉田信之

当時の私は、下積みは十分やりきって、神奈川園の赤字も解消のめどが立ち、経営者としての自信が芽生えてきた頃でした。自分が設立した会社でやりたいことができる。その希望を、この新たなテニススクールに託したのです。

テニスコーチは神奈川園に引き続き「アメリカンテニススクール」から派遣してもらいました。その当時、コーチの統括をしていたのが後に専務となる吉田信之。さらに、派遣されていた5名の学生コーチの中に黒田昌吾、高澤克己の顔もありました。彼らがその後、GODAIのテニススクール事業を発展させ、長きにわたり支えてくれることになります。

白楽テニスクラブ・トーナメント大会(1979年)

第1回はこちら↓


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