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ユゴー著『レ・ミゼラブル 第二部 コゼット』読書感想文


『贖罪とは』


そもそもジャン・ヴァルジャンの犯した罪はたった一片のパンを盗んだことに過ぎなかった。
何度も脱獄を繰り返したとはいえ、市長になり、町を復興させ、自らの罪を告白した時点で、その罪は十分過ぎるほどに贖われているのではないか。しかし、彼は再び脱獄をする。一人の女の子を助ける為に、そして、自分自身を助ける為に。

脱獄は罪だが、彼は罪を償う為に脱獄をした。
何故なら彼の贖罪はもはや法を超えた場所にあるからだ。罪には、法や罰だけでは解決し得ない領域があり、罪に対する人間の在り方が、罪と共に生きていく人間の姿が、この物語には描かれているのかもしれない。

プチ・ピクピュスの修道院で行われている事は全て私の理解を超える程過酷で、理解し難いものだった。終盤でも語られていた様に、純潔な女達の修道院での生活は、野蛮な男達の徒刑場での生活となんら大差がなかった。全く正反対の場所の様でありながら、共に贖罪という同じ目的を持つこの二つの場所は、強く私の印象に残った。私は今のところ徒刑場に入る予定もなければ、修道院に入る予定もない。しかし、彼ら彼女達と、私との境界線は曖昧だ。私はあくまで、今のところ、罰せられる程の罪は犯してはいないだけで、今のところ、深い信仰にも目覚めてはいないだけだ。私にも少なからず罪の意識はあるし、少なからず信仰心の様なものもある。自分の為に贖罪し、そして他人の為に、祈り、贖罪をする人間が存在していた、という事実は、時間も場所も異なる遥か遠い場所にいる私の心をも、救ってくれている様な気がした。

"罪"とはたった一人の人間が向き合える様なものではなく、あらゆる人間が手を取り合って初めて、贖う事ができるものなのかもしれない。

物語とは何の関係もないと断わっておきながら、読者の心の中に完全に描いて欲しいと、プチ・ピクピュスの修道院についてこれでもかと言うほど細かく描写しているのには、そういった思いがこの語り手にあったからではないだろうか。

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