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僕が安住の地を手にするまで [7] 僕らが家に合わせるんじゃなくて、家が僕らに合わせる

家を建てることを決心してからというもの、ここ数ヶ月は家づくりのことばかり考えている。暇さえあればAutoCADに向かって間取り図をいじったり、それをSketchUpで三次元にしてみたり、Pinterestでインテリアのアイデアを発掘したり。そんななか、(高木さんを紹介してくれた)モロッコに暮らす友人のマヤさんから「いまインテリア関連のお勉強をしているんだけど、聞き取り調査的な宿題に協力してくれない?」という連絡があった。

詳しく話を聞いてみると、どうやら「ライフデザインナビゲーター」という資格を取るための勉強をしているようだ。もともとは一級建築士としてお客さんの「理想の家づくり」をお手伝いしてきた高原美由紀さんという方が、ある経験をもとに、お客さんの本当の理想を叶える家をデザインするためには、お客さんからの表層的なニーズに応えるのではダメで、心の奥深いところにある理想を顕在化させて、それを形にしないといけないと気づいたことからはじまった試みなのだそうだ(詳しくはhttps://www.sdpa.jp/ldn/)。カウンセリングのような、コーチングのような心理学的なメソッドを用いるため、「空間デザイン心理学」という名前がつけられている。

たしかに、自分でも気づいていない心の深いところにある欲求が明らかになれば、より理想に近い家づくりができそうだ。自分が家に合わせるのではなく、ピッタリ自分に合わせて家をつくるということでしょう。うん、いいじゃないか。借家暮らしが長かった僕は、これまでずっとどこの誰だか知らない人がデザインしたアパートや家に自分をあわせて生きてきた。誰かの理想空間に自分の身体を委ねてきたのだ。それによって僕の暮らしは少なからず矯正されてきたといっていい。でもこれってよく考えたら、とても怖いことだ。僕は自分の住空間に主体性を持ちたい。それは人間が自分たちで家を建てていた頃には当たり前のことだったはずだ。いまでは新築にもかかわらず、まるで店先に置いてある「なにか出来合いのもの」でも買うように家を買う建売住宅や分譲住宅というのがあるけれど、そもそもあんな不自然な建て方・売り方、いつ誰がはじめたのだろう。

近接学(Proxemics)といって、空間と人とのかかわり、つまり空間の文化的側面を研究する分野がある。もともとは触覚学、動作学、パラ言語学、時間学などを含む非言語コミュニケーション研究から派生したもので、人々が空間をどのように使用するかとか、空間的な条件や制約が人々の行動や意思疎通の仕方にどのような影響を与えるかについて研究するものだ。人類学(とくに考古学)でも、建築などについて考察する際に援用することがある。空間は日々、人間の行動に影響を及ぼす。気づかないくらい、ほんの少しだけ。しかし毎日、少しずつ。塵も積もればなんとやら、である。

知らないところでいつの間にか空間的な特性によって日々影響を受けているのだとしたら、やはりそれは自分にとってより心地がよい仕方である方が好ましいに決まっている。心の深いところで自分にあった家をつくりたいと思った。

というわけで、マヤさんからの誘いに乗っかることにした。

空間デザイン心理学によれば、僕らの欲求には段階があるので、それを階層化して理解する必要がある。表層的なものからどんどん深いところまで降りていくために、ライフデザインナビゲーターは被検者の感情を探るようなたくさんの質問をする。いちいち「どう感じるか」を聞かれることによって、被検者はそれを意識化し、それを表現する言葉を探す。必ずしもすべてをうまく言葉で表現できるわけではないが、自分の感情をつよく意識することによって、少なくともその存在に気づくことはできる。そうやって、自分が深いところで望んでいることを、自分がほんとうはどうしたがっているのかを知ることができる。

これによって、僕が重要視しているさまざまキーワードとともに、家に求めている3つの感情が明らかになった。まず、その3つの感情とは:

 ① ワクワクする
 ② ほっとする
 ③ 楽である

なのだそうだ。そしてわかったのは、僕は「ほっとする」こと、「楽である」ことを屋内に求め、「ワクワクする」ことを屋外に求めているということ。事実、前に書いた「こんなのあったらいいのに」は、どれも屋外でのことばかりだった。

・夏は庭で蛍や星を見ながら夕涼み
・冬は薪ストーブを囲んで家族や友人たちと団らん
・ピザやパンを焼いたり、色々な食材をスモークできる石窯
・市街地を見渡せる、杉の木を使ったツリーハウス
・発酵食品づくりを本格化させるための調理・貯蔵スペース

僕はもしかすると家というよりは、好きなことを思う存分楽しめる自分だけの(屋外)スペースが欲しかったのかもしれないと気づいた。これにはハッとさせられた。事実、いまでは上の「こんなのあったらいいのに」リストはさらに長くなっていて、そこに含まれているのは野外アクティビティばかりなのだ。

家族と間取りを決める話し合いをしているときにも、自分には意外にも拘りが大して多くないのだなと気づいた。もっと「どうしてもこうしたい!」というのがあれこれあるのかと思っていた。希望といえば、せいぜい、ゆっくり長風呂できるバスルームと、またいつテレワークになってもいいように書斎がほしいということくらいだった。寒い山形では薪ストーブは僕だけじゃなく、家族みんなの希望だ。改めて「ほっとできる」空間ということを意識すると、質の高い眠りを得られる寝室や、みんなでくつろげるリビングルームなども当然重要になってくるのだろう。そして「楽」というのも重要な感情のようだが、まさに妻と「これを機に、いままで持っていなかった乾燥機や食器洗浄機を買おう」と話していたところだった。

それから僕は、静かで狭くて、自分が包み込まれるような感覚を覚える空間に安らぎを覚えるらしいことがわかった。小さい頃から押し入れとか大好きだった。あと、雑然とモノが置かれていて、一見騒がしく見えるような空間が好き。なんでもきちんとしまわれて、スッキリ片付いていてピカピカな空間は苦手で、モノが見えていて、すぐ手に取れるような空間の方がいい。そしてその空間を構成するモノたちは、新調したてのピカピカの調度品ではなく、人の気配を感じるような、歴史が染み付いたものがいい。構造材や化粧材だって、古材でいい。というか、古材がいい。そこはマヤさんに「さすが考古学者」と言われた。キラキラだけどのっぺり薄っぺらい家ではなく、いろいろな意味で奥行きのある家をつくりたいと強く思う。

セッションの最後に、「そんなあなたの家にタイトルを付けてみましょう」と言われた。最初に頭に浮かんだワードは「多様性」。僕が付けたタイトルは「何も否定しない、あらゆるものが共存できる家」だった。実はこれまで、家づくりにあたって、コンセプトばかりが先走りすぎてはいないかという心配があった。行動に意味を追い求めすぎると疲れるように、頭でつくった家はちゃんと住心地がよいのか心配だった。しかし、深いところで求めている理想と、自分が大事にしているコンセプトがどうやら強い親和性をもっていそうだということがわかってとても安心した。

つづく

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