グレーであること

前の記事からまた季節が進み、在宅勤務で家から出ないうちに春になっていた。

小学校前の春は忙しい。先日は終業式や卒業式をしている様子が聞こえてきた。窓を開ければ桜が満開で、あと数日もしたら入学式。桜は1年生を待っていてくれるだろうか。…と書いたところで桜はすっかり新緑になっていた。そう、めちゃくちゃ放置していた。

最近は神田伯山のラジオをよく聞いている。番組のキモは冒頭の口上で、本人のラジオの原体験について触れる中で出てくる「言葉を選んだ本音」。

「言葉を選ぶ」必要があるのはなぜか。誰かを傷つけないようにするため?敵を作らないため?どちらも立派な理由ではあるけれど、完璧なシロやクロと「言い切る」事の難しさが大きいのだと思う。

番組は基本本人のボヤき一本勝負。際どい話題にもざっくり突っ込んだ展開になることが多い。それでも聞いていて面白さを感じるのは、物事に多角的な視野を持ち、何事も完全な白黒と捉えていないからだと思う。グレーであり続ける人間臭い本音が本当に気持ちいい。

日々触れる情報はあくまで物事の結果に過ぎない。そこに至るまでに起こる事実は必ずしも最初から最後まで受け手にとってシロやクロではないし、結果として情報に加工されてもなお、完全に切り捨てられない。また、人には事実の解釈に用いるそれぞれの正義があって、どこまで客観視しても万人が完全な#000000や#ffffffと一致する物事は存在しない。神田伯山はそのことをよーく理解しているんだろうなと感じる。

以前にも増して白黒の純度がモノを言い、どちらかに染まることを強要される今、本当に必要なのはグレーであり続けることなのではないか。じゃあそのカラーチャートの細かさを増やすにはどうしたらいいだろう?そんなことを考える春を過ごしている。

去年聞いた音楽の話はいつするんだろう?

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